三〇七号室の見えない先輩

 生徒会室の古い棚は、真田が言っていた通り、鍵穴が少し固かった。

 上に持ち上げながら回す。
 かち、と小さく音がして、扉が開く。

 中には、古いファイルが詰め込まれていた。

 寮祭実行委員会。
 楠寮自治会。
 食堂当番表。
 卒業記念号資料。

 榊は順に背表紙を見ていく。

 今の資料ではない。
 もっと前のものがいる。

 まだ真田も、榊も、この寮にいなかったころの三〇七。

 棚の奥に、紺色の古いファイルがあった。

 楠寮 入寮者控え。

 指先で埃を払って、榊はページを開いた。

 紙は黄ばんでいて、角が少し丸まっている。
 年度ごとに、部屋番号と名前が並んでいた。

 三〇七。

 指が止まる。

 知らない名前が四つ並んでいた。

 そこに、「さく」という名前はなかった。

「……違う」

 榊は眉を寄せる。

 三〇七にいるはずのもの。
 柏木が名前を呼んだもの。
 寝言にまで落ちていた、あの音。

 さく。

 けれど、昔の三〇七にその名前はない。

 榊はページを戻し、同じ年度の部屋割りを上から追った。

 三〇一。
 三〇二。
 三〇三。

 知らない名前ばかりが並んでいる。

 三〇四。

 そこで、指が止まった。

 四人分の名前のうち、一つだけ、修正液で白く潰されていた。

 榊は紙を持ち上げ、蛍光灯の下に透かす。

 白く濁った下に、かすかに文字の端が残っている。

 藤代。

 その横に、もう一文字。

 朔。

 柏木が寝言で呼んだ音と、ぴたりと重なった。

 さく。

 榊は奥歯を噛んだ。

 口にするな。
 絶対に、こちらから呼ぶな。
 けれど、もう名前は分かった。

 藤代朔。

 それは、ただの怪異についた呼び名ではない。
 五年前、楠寮にいた人間の名前だった。

 榊はもう一度、三〇七の欄を見る。

 知らない名前が四つ。

 その中の一つに、なぜか赤い鉛筆で薄く丸がついていた。

 藤代朔は、三〇七ではない。
なのに、柏木はその名前を呼んでいる。
 真田も、そこに誰かがいる前提で動いていた。

 なら、三〇七にいる理由は別にある。

 榊は修正液で潰された三〇四の欄と、三〇七の欄を見比べた。

 三〇七の名前の一つに、赤い鉛筆で薄く丸がついている。
 誰がつけたものかは分からない。
 けれど、ただの印には見えなかった。

 その時、スマホが震えた。
 真田からの電話だった。
 榊はすぐに出る。

「何だ」
『悪い』

 真田の声が、いつもより低い。

『柏木、いない』

 榊の指が、ファイルの端を強く押さえた。

「どういうことだ」
『トイレ行くって出て、そのまま戻らない』
「一人にするなって言っただろ」
『だから悪いって言ってるだろ。トイレまでついてくのはさすがに変だと思ったんだよ』

 真田の声に、焦りが混じっている。

『廊下見た。トイレにもいない。階段の方にもいない』
「どこか行く当ては」
『分かんねえよ』
「思い出せ。何か言ってたか。見てた場所でもいい」

 電話の向こうで、真田が息を呑む気配がした。

『……そういえば』
「何だ」
『窓の外、見てた。起きてからずっとじゃないけど、一瞬』
「窓?」
『渡り廊下の方。たぶん、外階段が見える方』

 榊は目を閉じた。

 外階段。

 まだ、そこまで決めつけるには早い。
 けれど、五年前の三〇四。
 三〇七の赤丸。
 消された名前。
 そして、封鎖された階段。

 嫌な線だけが、一本ずつ結ばれていく。

「探しに行け」
『もう行ってる』
「声をかけるな」
『は?』
「不用意に名前を呼ぶな。あいつが誰かと話してるように見えても、合わせるな。返事もするな」
『分かってる』
「分かってねえから言ってる」

 榊はファイルを閉じた。
 藤代朔の名前が載ったページだけ、スマホで撮る。
 三〇七の赤丸の欄も撮った。

「ルールを忘れるな」
『柏木を一人にしない。窓際に寄せない。名前を呼ばない。返事をしない』
「違う」
『何が』
「今は、捕まえたら離すな」

 電話の向こうで、真田が一瞬黙った。

『……分かった』
「俺も行く」

 榊はファイルを棚に戻さず、抱えたまま生徒会室を出た。
 廊下は、さっきより静かだった。
 食堂のざわめきは遠い。
 古い校舎の空気だけが、薄く冷えている。

 三〇七ではない。
 藤代朔は、三〇七の住人ではなかった。
 それなのに、今は三〇七にいる。

 誰かの部屋だったからだ。

 五年前、あいつが行きたかった場所。
 入れなかった場所。
 待っていた相手がいた部屋。

 そこへ、柏木が入れてしまった。
 榊は階段を駆け上がる。
 間に合え、と初めて思った。