目が覚めた時、最初に思い出したのは、朔の声だった。
俺も好きだよ、透。
その言葉だけは、妙にはっきり残っていた。
夢だったとは思えないくらい、耳の奥にまだ温度がある。
けれど、そのあとのことが曖昧だった。
楠寮。
三〇七号室。
下段のベッド。
夕飯に行くつもりだったことを、遅れて思い出す。
真田先輩に、あとで行きます、と言った。
それから、朔に会って。
好きだと言われて。
そこまでは覚えている。
でも、どうやって眠ったのかが分からない。
眠ったというより、好きだと言われた瞬間から先だけ、やわらかく切り取られているみたいだった。
けれど、身体は重かった。
眠っていたはずなのに、少しも休んだ感じがしない。
身体の芯に、水を含んだ布みたいな重さが残っている。
「……起きたか?」
声がして、横を見る。
真田先輩がベッド脇に座っていた。
スマホを片手に持っているのに、画面はほとんど見ていない。俺の様子を確かめるみたいに、少し身を乗り出している。
「真田先輩」
「おう。気分悪い?」
「……少し、だるいです」
「だろうな」
いつもの軽い調子じゃなかった。
それが、少しだけ落ち着かなかった。
「俺、寝てました?」
「寝てた。かなり深く」
「……どれくらい」
「俺が戻った時にはもう。榊も見た」
榊の名前が出て、胸の奥が少し硬くなる。
「榊、戻ってきたんですか」
「戻った。で、また出てった」
「どこへ」
「調べ物」
真田先輩はそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶみたいに黙った。
「柏木。しばらく部屋にいろ」
「……どうしてですか」
「榊に言われた」
その一言で、眠気の残っていた頭が少し冷えた。
榊に言われた。
名前を呼ばせるな。
返事をするな。
あの低い声が、また耳の奥に戻ってくる。
「真田先輩も、榊の言うことを信じるんですか」
「全部じゃない」
真田先輩はすぐに答えた。
「正直、半分くらい何言ってんだと思ってる」
「じゃあ」
「でも、榊が本気なのは分かる。あと、お前がこうなってるのも本当だろ」
言い返せなかった。
身体は重い。
起き上がっただけで、息が少し浅くなる。
でも、それは怖いものではなかった。
最後に覚えているのは、朔の声だ。
俺も好きだよ、透。
その声を思い出した瞬間、身体の奥がまだ甘く痺れた。
「……あの人は」
言いかけた瞬間、真田先輩の眉がわずかに寄った。
「柏木」
「何ですか」
「その名前、今は出すなって言われてる」
胸の奥が、ざらついた。
榊だけじゃなくて、真田先輩まで。
「どうしてですか」
「俺にもよく分かんねえよ。でも、榊がそう言った」
「それで、真田先輩も従うんですか」
「柏木」
「藤代先輩は、いるじゃないですか」
ちゃんと言った。
なのに、真田先輩はすぐには頷かなかった。
知らない外国語を聞き取ろうとしているみたいな顔をしていた。
音は届いているのに、意味だけがうまく結べない。そんな顔だった。
「……悪い」
真田先輩が、困ったように言った。
「今、誰だって言った?」
喉の奥が、すっと冷えた。
「だから、藤代先輩です」
もう一度、はっきり言う。
けれど真田先輩の表情は変わらない。
聞こえていないわけじゃない。
俺の声は、ちゃんと届いている。
でも、その名前だけが、真田先輩の中に残らないみたいだった。
「……真田先輩まで、そういう扱いするんですか」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
「榊だけじゃなくて、真田先輩まで」
「違う。そういうつもりじゃない」
「じゃあ、どういうつもりですか」
真田先輩は答えられなかった。
その沈黙が、余計につらかった。
真田先輩は、嫌な人じゃない。
俺が来た日から普通に話しかけてくれて、寮のことも教えてくれて、飯の心配までしてくれた。
その人まで、藤代先輩の名前を落としていく。
それが、どうしようもなく嫌だった。
「藤代先輩は、います」
もう一度言った。
「俺には見えてます。話もしました。さっきだって、ここにいて」
そこまで言って、言葉が止まる。
さっき。
朔はここにいた。
俺の隣に座って、俺の頬に触れて、好きだと言ってくれた。
キスもした。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
でも同時に、なぜか指先が冷えた。
真田先輩は、俺の顔をじっと見ていた。
「柏木」
「何ですか」
「今、その人のこと考えてる?」
その人。
名前を言わないことに、また胸がざらついた。
「名前で呼んでください」
真田先輩は唇を引き結んだ。
言えないのだと、そこで分かった。
言わないんじゃない。
たぶん、言えない。
それなのに、俺の苛立ちは収まらなかった。
「もういいです」
ベッドから足を下ろそうとすると、真田先輩が慌てて肩を押さえた。
「待て。どこ行く」
「食堂です」
「もう閉まってる」
即答されて、少しだけ言葉に詰まる。
「柏木、今は動くな。榊にも言われてる」
「また榊ですか」
「そうだよ。悪いか」
真田先輩の声も、少し強くなった。
「俺だって何が何だか分かってねえよ。でも、お前が起こしても起きないくらい寝てたのは本当だろ。榊が本気でまずいと思ってるのも本当だ。なら、今はお前を行かせるわけにいかない」
「俺は倒れてたんじゃないです。寝てただけです」
「それで済むなら、俺だってそう思いたい」
真田先輩は、そこで少しだけ息を吐いた。
「頼むから、今だけ大人しくしてろ」
頼むから。
その言い方は、思っていたよりずっと真剣だった。
だから余計に、苦しくなる。
真田先輩は俺を心配している。
たぶん、本当に。
でもその心配は、藤代先輩を遠ざける方へ向いている。
それが、どうしても受け取れなかった。
その時、枕元のスマホが震えた。
画面が一瞬だけ光る。
通知が、一つ。
差出人の名前はなかった。
――透、起きた?
心臓が跳ねた。
誰からかなんて、考えるまでもなかった。
反射的にスマホを手に取る。
「柏木?」
「……何でもないです」
画面を伏せようとした瞬間、もう一度震えた。
――来て。
たった二文字だった。
それだけなのに、身体の奥が甘く反応する。
朔が呼んでいる。
そう思った瞬間、さっきまで重かった身体が少しだけ軽くなった。
会いたい。
頭の中に、最初に浮かんだのはそれだった。
会いたい。
今すぐ会いたい。
さっきまで一緒にいたはずなのに。
好きだと言われた声も、触れられた感触も、まだ身体に残っているのに。
もう足りなかった。
もっと声が聞きたい。
もう一度、名前を呼ばれたい。
もう一度、俺だけを見てほしい。
おかしいと思う。
こんなの、普通じゃない。
でも、普通じゃなくてもよかった。
真田先輩が目の前にいるのに、もう遠い。
心配してくれているのも分かる。
でも、その心配より、朔の二文字の方が深く身体に入ってくる。
「誰から」
真田先輩の声が硬くなる。
「……友達です」
「画面見せろ」
「嫌です」
言ってから、自分でも驚いた。
真田先輩も一瞬、驚いた顔をした。
「柏木」
「見せたくないです」
「今はそういう問題じゃない」
「真田先輩には、どうせ分からないじゃないですか」
言ってしまってから、胸が痛んだ。
真田先輩の顔が、少しだけ傷ついたように見えたからだ。
でも、取り消せなかった。
スマホを握ったまま、画面をもう一度見る。
通知は消えていた。
履歴にも残っていない。
メッセージアプリを開いても、該当する会話はどこにもなかった。
それでも、言葉だけは残っている。
来て。
どこへ、とは書かれていない。
でも、分かる気がした。
窓の外が、妙に暗い。
その向こうに、渡り廊下と、封鎖された外階段がある。
初日に、朔が案内してくれた場所。
足を踏み外しかけた俺を、抱き留めてくれた場所。
行かなきゃ。
理由より先に、そう思った。
俺も好きだよ、透。
その言葉だけは、妙にはっきり残っていた。
夢だったとは思えないくらい、耳の奥にまだ温度がある。
けれど、そのあとのことが曖昧だった。
楠寮。
三〇七号室。
下段のベッド。
夕飯に行くつもりだったことを、遅れて思い出す。
真田先輩に、あとで行きます、と言った。
それから、朔に会って。
好きだと言われて。
そこまでは覚えている。
でも、どうやって眠ったのかが分からない。
眠ったというより、好きだと言われた瞬間から先だけ、やわらかく切り取られているみたいだった。
けれど、身体は重かった。
眠っていたはずなのに、少しも休んだ感じがしない。
身体の芯に、水を含んだ布みたいな重さが残っている。
「……起きたか?」
声がして、横を見る。
真田先輩がベッド脇に座っていた。
スマホを片手に持っているのに、画面はほとんど見ていない。俺の様子を確かめるみたいに、少し身を乗り出している。
「真田先輩」
「おう。気分悪い?」
「……少し、だるいです」
「だろうな」
いつもの軽い調子じゃなかった。
それが、少しだけ落ち着かなかった。
「俺、寝てました?」
「寝てた。かなり深く」
「……どれくらい」
「俺が戻った時にはもう。榊も見た」
榊の名前が出て、胸の奥が少し硬くなる。
「榊、戻ってきたんですか」
「戻った。で、また出てった」
「どこへ」
「調べ物」
真田先輩はそう言ってから、少しだけ言葉を選ぶみたいに黙った。
「柏木。しばらく部屋にいろ」
「……どうしてですか」
「榊に言われた」
その一言で、眠気の残っていた頭が少し冷えた。
榊に言われた。
名前を呼ばせるな。
返事をするな。
あの低い声が、また耳の奥に戻ってくる。
「真田先輩も、榊の言うことを信じるんですか」
「全部じゃない」
真田先輩はすぐに答えた。
「正直、半分くらい何言ってんだと思ってる」
「じゃあ」
「でも、榊が本気なのは分かる。あと、お前がこうなってるのも本当だろ」
言い返せなかった。
身体は重い。
起き上がっただけで、息が少し浅くなる。
でも、それは怖いものではなかった。
最後に覚えているのは、朔の声だ。
俺も好きだよ、透。
その声を思い出した瞬間、身体の奥がまだ甘く痺れた。
「……あの人は」
言いかけた瞬間、真田先輩の眉がわずかに寄った。
「柏木」
「何ですか」
「その名前、今は出すなって言われてる」
胸の奥が、ざらついた。
榊だけじゃなくて、真田先輩まで。
「どうしてですか」
「俺にもよく分かんねえよ。でも、榊がそう言った」
「それで、真田先輩も従うんですか」
「柏木」
「藤代先輩は、いるじゃないですか」
ちゃんと言った。
なのに、真田先輩はすぐには頷かなかった。
知らない外国語を聞き取ろうとしているみたいな顔をしていた。
音は届いているのに、意味だけがうまく結べない。そんな顔だった。
「……悪い」
真田先輩が、困ったように言った。
「今、誰だって言った?」
喉の奥が、すっと冷えた。
「だから、藤代先輩です」
もう一度、はっきり言う。
けれど真田先輩の表情は変わらない。
聞こえていないわけじゃない。
俺の声は、ちゃんと届いている。
でも、その名前だけが、真田先輩の中に残らないみたいだった。
「……真田先輩まで、そういう扱いするんですか」
自分の声が、思ったより冷たく響いた。
「榊だけじゃなくて、真田先輩まで」
「違う。そういうつもりじゃない」
「じゃあ、どういうつもりですか」
真田先輩は答えられなかった。
その沈黙が、余計につらかった。
真田先輩は、嫌な人じゃない。
俺が来た日から普通に話しかけてくれて、寮のことも教えてくれて、飯の心配までしてくれた。
その人まで、藤代先輩の名前を落としていく。
それが、どうしようもなく嫌だった。
「藤代先輩は、います」
もう一度言った。
「俺には見えてます。話もしました。さっきだって、ここにいて」
そこまで言って、言葉が止まる。
さっき。
朔はここにいた。
俺の隣に座って、俺の頬に触れて、好きだと言ってくれた。
キスもした。
思い出した瞬間、顔が熱くなる。
でも同時に、なぜか指先が冷えた。
真田先輩は、俺の顔をじっと見ていた。
「柏木」
「何ですか」
「今、その人のこと考えてる?」
その人。
名前を言わないことに、また胸がざらついた。
「名前で呼んでください」
真田先輩は唇を引き結んだ。
言えないのだと、そこで分かった。
言わないんじゃない。
たぶん、言えない。
それなのに、俺の苛立ちは収まらなかった。
「もういいです」
ベッドから足を下ろそうとすると、真田先輩が慌てて肩を押さえた。
「待て。どこ行く」
「食堂です」
「もう閉まってる」
即答されて、少しだけ言葉に詰まる。
「柏木、今は動くな。榊にも言われてる」
「また榊ですか」
「そうだよ。悪いか」
真田先輩の声も、少し強くなった。
「俺だって何が何だか分かってねえよ。でも、お前が起こしても起きないくらい寝てたのは本当だろ。榊が本気でまずいと思ってるのも本当だ。なら、今はお前を行かせるわけにいかない」
「俺は倒れてたんじゃないです。寝てただけです」
「それで済むなら、俺だってそう思いたい」
真田先輩は、そこで少しだけ息を吐いた。
「頼むから、今だけ大人しくしてろ」
頼むから。
その言い方は、思っていたよりずっと真剣だった。
だから余計に、苦しくなる。
真田先輩は俺を心配している。
たぶん、本当に。
でもその心配は、藤代先輩を遠ざける方へ向いている。
それが、どうしても受け取れなかった。
その時、枕元のスマホが震えた。
画面が一瞬だけ光る。
通知が、一つ。
差出人の名前はなかった。
――透、起きた?
心臓が跳ねた。
誰からかなんて、考えるまでもなかった。
反射的にスマホを手に取る。
「柏木?」
「……何でもないです」
画面を伏せようとした瞬間、もう一度震えた。
――来て。
たった二文字だった。
それだけなのに、身体の奥が甘く反応する。
朔が呼んでいる。
そう思った瞬間、さっきまで重かった身体が少しだけ軽くなった。
会いたい。
頭の中に、最初に浮かんだのはそれだった。
会いたい。
今すぐ会いたい。
さっきまで一緒にいたはずなのに。
好きだと言われた声も、触れられた感触も、まだ身体に残っているのに。
もう足りなかった。
もっと声が聞きたい。
もう一度、名前を呼ばれたい。
もう一度、俺だけを見てほしい。
おかしいと思う。
こんなの、普通じゃない。
でも、普通じゃなくてもよかった。
真田先輩が目の前にいるのに、もう遠い。
心配してくれているのも分かる。
でも、その心配より、朔の二文字の方が深く身体に入ってくる。
「誰から」
真田先輩の声が硬くなる。
「……友達です」
「画面見せろ」
「嫌です」
言ってから、自分でも驚いた。
真田先輩も一瞬、驚いた顔をした。
「柏木」
「見せたくないです」
「今はそういう問題じゃない」
「真田先輩には、どうせ分からないじゃないですか」
言ってしまってから、胸が痛んだ。
真田先輩の顔が、少しだけ傷ついたように見えたからだ。
でも、取り消せなかった。
スマホを握ったまま、画面をもう一度見る。
通知は消えていた。
履歴にも残っていない。
メッセージアプリを開いても、該当する会話はどこにもなかった。
それでも、言葉だけは残っている。
来て。
どこへ、とは書かれていない。
でも、分かる気がした。
窓の外が、妙に暗い。
その向こうに、渡り廊下と、封鎖された外階段がある。
初日に、朔が案内してくれた場所。
足を踏み外しかけた俺を、抱き留めてくれた場所。
行かなきゃ。
理由より先に、そう思った。
