三〇七号室の見えない先輩

 寮監室を出た時には、廊下の窓がもう暗くなっていた。

 外では、食堂へ向かう生徒の声がまだ残っている。
 笑い声。
 スリッパの音。
 誰かが階段でふざけて、すぐに別の誰かに注意される声。

 どれも普通だった。

 普通だから、余計に腹が立った。

 点呼表だけは見るな。

 小野寺の声が、まだ耳に残っている。

 見るな、ということは、そこにある。
 外階段の記録は残っていない、と言った。
 名前は消したんじゃない、消えていった、とも。

 ふざけるなと思った。

 消えていったんじゃない。
 消えるまで、誰も掴まなかっただけだ。

 三〇七へ向かう階段を上がりながら、榊はポケットの中を探った。
 紙の感触が指先に触れる。
 張り替え用の札を数枚、寮監室へ行く前に入れておいたものだ。

 効くかどうかは分からない。

 それでも、ないよりはましだった。

 三階の廊下へ出た瞬間、足が止まった。

 空気が重い。

 昼よりも、昨日よりも、明らかに変わっている。
 廊下の奥、三〇七のあたりだけ、音が薄く落ちていた。

 榊は舌打ちを飲み込んだ。

 遅かったかもしれない。

 三〇七の扉の前に立つ。
 中からは、真田の声がした。

「柏木? おい、起きろって。食堂、そろそろ閉まるぞ」

 返事はない。
 榊はノックもせずに扉を開けた。
 真田が振り返る。

「あ、榊。おかえり」
「柏木は」
「寝てる。俺が戻った時にはもうこんな感じ」

 真田は困ったように頭をかいた。

「食欲ないって言ってたし、疲れてたんじゃねえかな」

 違う。

 榊は、部屋に入った瞬間にそう思った。

 窓際だけじゃない。
 部屋全体が、薄く冷えている。

 真田は気づいていない。
 いや、気づきかけても、たぶんすぐに頭の中で別の理由をつけている。

 山の中だから。
 古い寮だから。
 窓が開いていたから。

 そういう、どうでもいい説明で埋められている。

 榊はベッドへ近づいた。

 柏木は下段で眠っていた。
 制服のまま、横になっている。
 呼吸はある。顔色も、死人のそれではない。

 けれど、眠り方が違った。

 自分で眠った身体じゃない。
 外から意識を沈められた身体だ。

「柏木」

 低く呼んでも、反応しない。
 真田が横から覗き込む。

「けっこう深く寝てんな。珍しいな、こいつ。わりと物音に反応するのに」
「いつからこうだ」
「だから、俺が戻った時にはもう。十分くらい前かな」
「誰かいたか」
「誰か?」

 真田が首をかしげる。
 その仕草で、榊は答えを聞く前に分かった。

 聞いても無駄だ。

 真田の中では、たぶん誰かがいたことになっている。
 あるいは、いなかったことになっている。
 どちらにしても、まともな情報にはならない。

 榊は柏木の額へ手を伸ばした。

 冷たい。

 熱はない。
 むしろ、指先のほうが持っていかれるみたいに冷えた。

「おい、柏木」

 もう一度呼ぶ。

 柏木の睫毛が、かすかに震えた。
 けれど、目は開かない。

 代わりに、唇が小さく動いた。

「……さく」

 榊は動きを止めた。
 真田は聞き取れなかったらしく、「ん?」と軽く眉を寄せただけだった。

 榊には、聞こえた。

 さく。

 それが名前なのだと、すぐに分かった。

 顔は見えない。
 姿も結ばない。
 窓際に立つものが何なのか、まだ榊には見えていない。

 けれど、名前だけはわかった。

 榊は奥歯を噛む。

 口にするな。
 絶対に、こちらから呼ぶな。

 名前は、綱だ。
 向こうに渡せば、向こうも掴む。

 柏木はもう、何度も渡している。

「榊?」

 真田の声で我に返る。

「何かまずいのか」

 榊は答えなかった。
 代わりに、ポケットから札を一枚出す。

「窓を閉めろ」
「閉まってるけど」
「確認しろ」

 真田は一瞬だけ何か言いたそうにしたが、榊の顔を見て黙った。
 窓際へ向かいかけて、途中で足を止めた。

 ほんの少し、身体が横へずれる。

 何かを避けるように。
 そこに立っている誰かの邪魔をしないように。

「真田」
「何」
「今、何を避けた」
「……は?」

 真田は自分の足元を見た。
 それから、窓際を見る。

 何もない。

 真田の顔から、少しだけ色が抜けた。

「俺、今、何した?」
「そこに寄るな」
「お前が窓見ろって言ったんだろ」
「確かめたかっただけだ」
「何を」

 榊は一瞬だけ黙った。

 窓は閉まっている。
 鍵もかかっている。

 そこから何かが入ってきているわけじゃない。

 そこは、最初からそいつの場所なのだ。

 三〇七の中で、まだ消えきっていない席。
 誰も使っていないはずなのに、誰か一人分だけ空気が避けている場所。

 榊には、そう感じた。

「榊」

 真田の声が、さっきより低くなった。

「そろそろ説明しろ」
「……今する話じゃない」
「今する話だろ」

 真田は柏木の眠るベッドを見た。

「柏木がこうなってて、俺も今おかしな動きしたんだろ。
 三〇七の話なら、俺にも関係ある」

 榊は黙った。

「それに」

 真田は少しだけ眉を寄せる。

「柏木にも関係あんだろ」

 その言い方で、榊はようやく諦めた。

 全部は話せない。
 まだ、榊にも全部は分かっていない。

 けれど、もう黙って一人で押さえる段階ではなかった。

「三〇七に、いる」
「何が」
「分からない」
「……人、なのか?」
「顔も見えない。名前も確かじゃない」

 榊は柏木を見た。

「でも、柏木は見えてる。お前も、見えてるみたいに動いてる。
 さっきみたいに、何もない場所を避ける」
「……俺が」
「そうだ」
「それで柏木がこうなってるってことか」
「たぶんな」
「たぶんで、そこまで言うのかよ」
「たぶんで済んでるうちに止めたいんだよ」

 真田は黙った。

 いつもの軽い返事は出てこなかった。
 代わりに、柏木の眠る顔を見る。

「それで、どうしたらいい」
「信じるのか」
「全部じゃない」

 真田は短く息を吐いた。

「でも、お前が真剣なのは分かる。
 それに、柏木がこうなってるのは本当だろ」

 榊は少しだけ黙った。

「だから、今はそっちを信じる」

 真田の声には、いつもの軽さがなかった。

 榊は少しだけ黙った。
 信じる、という言葉が、今はやけに重かった。

「なら、手順だけ覚えろ」
「手順?」
「名前を口にするな。呼ばれても返事をするな。柏木が起きても、窓際には寄せるな。ひとりにもするな」
「多いな」
「文句言うな」
「言うだろ。説明不足で指示だけ増やすな」

 真田は柏木の眠る顔を見た。

「でも、分かった。柏木は俺が見る」
「いいのか」
「よくはない。でも、今ここ離す方がまずいんだろ」

 榊は頷いた。

「正体を掴む必要がある。点呼表が見たい」
「古いやつ?」
「三〇七の記録がいる」
「小野寺さん、見せてくれると思うか?」
「思ってねえ」
「だよな」

 真田は短く息を吐いた。
 それから、机の引き出しを開けて、薄い鍵束を取り出す。

「生徒会室の保管棚に、寮関係の古い控えが少しある。正式な点呼表じゃないけど、部屋割りと当番表の写しなら残ってるかもしれない」
「何でそんなもんが生徒会にある」
「寮行事とか当番の調整で使うんだよ。俺だって全部は知らねえけど」

 真田は鍵束から小さな銀色の鍵を外した。

「第二資料棚。奥の下段。鍵穴が固いから、上に持ち上げながら回せ」
「……詳しいな」
「生徒会長なめんなって言っただろ」

 いつもの調子に戻そうとしているのが分かった。
 けれど、指先は少し震えていた。

 榊は鍵を受け取る。

「柏木が起きたら」
「窓際に寄せない。名前を呼ばない。返事しない。ひとりにしない」
「それでいい」
「榊」
「何だ」
「お前も、変なことになったら戻れよ」

 榊は一瞬だけ言葉に詰まった。

「俺は平気だ」
「そういうやつが一番平気じゃねえんだよ」

 真田は柏木のベッド脇に腰を下ろした。

「三〇七のことなら、俺も関係ある。柏木だけじゃない。お前だけでもない」

 榊は少しだけ目を伏せた。

「……邪魔すんな」
「それ、助かるって意味で受け取っとくわ」
「勝手にしろ」

 榊は扉へ向かった。
 背後で、柏木の寝息が静かに落ちている。
 深すぎる眠りだった。
 そのすぐそばに、さっきの名前だけがまだ残っている気がした。

 さく。

 榊はその二文字を、口には出さなかった。

 絶対に。

 廊下に出ると、食堂へ向かう生徒の声が遠くから聞こえた。
 普通の学校の、普通の夕方の音だった。

 その普通さを背に、榊は生徒会室へ向かった。