三〇七号室の見えない先輩

 榊が戻ってきた翌日も、部屋の空気はまだ少し固かった。

 朝食の時も、授業へ向かう時も、ほとんど話していない。
 食堂で一度だけ目が合ったけれど、榊はすぐに視線を外した。

 避けられているのか。
 それとも、俺のほうが避けているのか。

 自分でも、よく分からなかった。

 放課後、部屋へ戻ると、真田先輩だけがいた。
 机に肘をついてスマホを見ている。
 榊のベッドは、朝と同じように整えられたままだった。

「おかえり。柏木、今日早いな」
「ただいまです」

 鞄を机に置いてから、なんとなく部屋を見回す。

「榊は?」
「いない。放課後すぐ、寮監室の方に行ったっぽい」
「寮監室?」
「うん。さっき廊下で見た。小野寺さんと話すとか何とか」

 真田先輩はスマホを伏せて、少しだけ肩をすくめた。

「榊、ああいう顔してる時はだいたい空気終わるんだよな」
「空気が終わる」
「終わるだろ、あいつの場合。
 言葉が足りないんだよ。不器用だから」

 少し笑いそうになった。
 でも、うまく笑えなかった。

 名前を呼ばせるな。
 返事をするな。

 あの低い声が、まだ耳の奥に残っている。
 榊は、何を調べているんだろう。

「気になる?」

 真田先輩に訊かれて、少しだけ返事が遅れた。

「……少し」
「あいつ、言い方きついけど、悪いやつじゃないよ」
「……そうですか」

 悪いやつかどうかは、分からない。

 少なくとも今の俺には、嫌なやつだった。

 帰ってきてすぐ、藤代先輩を何か悪いものみたいに扱って。
 俺のことまで、間違っているみたいな目で見た。

 名前を呼ばせるな。
 返事をするな。

 そんなふうに言われて、はい分かりましたと思えるほど、俺はもう、藤代先輩のことを遠くには置けなかった。

「俺、先に食堂行くわ。柏木も来るだろ?」
「食欲なくて……あとで行きます」
「了解。なんか残しとく?」
「大丈夫です」
「じゃ、混む前に来いよ。食わないと夜に腹減るぞ」

 真田先輩が出ていくと、部屋は急に静かになった。

 俺はベッドの端に腰を下ろした。

 窓の外はもう暗い。
 ガラスに映る部屋の中は、妙に薄く見えた。

 スマホを取り出して、連絡先の画面を開く。

 307号室のグループ。
 真田匠。
 榊要。
 柏木透。

 そこまでは、ちゃんとある。

 なのに、藤代先輩の名前はなかった。

 昨日も、一昨日も、あれだけ一緒にいたのに。
 同じ部屋で、同じ食堂で、同じ廊下を歩いたのに。

 連絡先を交換していないだけだ。

 そう思えば、それで済む話だった。

 けれど、なぜか指先が冷たくなる。

「透」

 名前を呼ばれて、顔を上げた。

 窓際に、藤代先輩が立っていた。

 いつからいたのか分からない。
 でも、不思議と驚かなかった。

 むしろ、息が楽になる。

「スマホ、見てた?」
「……連絡先を」
「連絡先?」
「先輩と、まだ交換してなかったなと思って」

 藤代先輩は少しだけ目を細めた。

「必要?」
「普通は、しますよね」
「普通はね」

 その返事が、少しだけ引っかかった。

「じゃあ、交換しませんか」

 言ってから、心臓が小さく跳ねる。

 別に、変なことを言ったわけじゃない。
 同じ部屋の先輩だ。
 連絡先くらい、あってもおかしくない。

 なのに藤代先輩は、スマホを出さなかった。

「必要な時は、俺が行くよ」

 低くて、やわらかい声だった。

「透が困ってたら、ちゃんと気づく」

 その言い方に、胸の奥がまた変にゆるむ。
 おかしいと思った。

 連絡先を交換するだけの話だった。
 普通なら、ここで画面を出して、コードを読み取って、それで終わりだ。

 でも藤代先輩は、そうしない。

 それなのに。

 困った時に来てくれるなら、それでいいかもしれないと、思ってしまった。

「榊に、何か言われた?」

 急に訊かれて、息が止まる。

「……どうしてですか」
「顔に出てる」
「出てます?」
「うん。透、考えすぎると目が固くなる」

 そんなところまで見ているのかと思った。
 怖い、より先に、見られていることが少しうれしかった。

「榊は……先輩のことを、よく思ってないみたいです」
「知ってる」
「前からですか」
「たぶん」
「たぶん?」

 藤代先輩は、少しだけ笑った。

「榊は、自分に分からないものを怖がるから」

 その言い方が、やさしすぎて、逆に分からなくなる。

 榊は、本当に怖がっていただけなんだろうか。
 それとも、俺が怖がらなさすぎるんだろうか。

 藤代先輩は、やさしい。
 でも、連絡先を交換しようとはしなかった。

 どちらが正しいのか、分からない。

 分からないのに、藤代先輩が俺の隣に腰を下ろすと、それだけで思考が少し鈍った。
 代わりに、身体のほうが先に甘く熱を持つ。

「怖くなった?」
「……分かりません」
「うん」

 責める声ではなかった。

「それでいいよ」
「いいんですか」
「透が考えてくれるなら、それでいい」

 藤代先輩の指先が、俺の手の甲に軽く触れた。

 冷たい。
 でも、嫌じゃない。

「俺のこと、分からないままでも、呼んでくれる?」

 名前を呼ばせるな。
 返事をするな。

 榊の声が、頭の隅をよぎる。

 だめだと思った。

 ここで呼んだら、何かを渡してしまう気がした。

 でも、藤代先輩は俺を見ていた。

 きれいな顔だと思った。
 暗がりの中で、目だけがやわらかく光っている。
 俺の返事を急かさず、逃げ道も塞がず、それでも呼ばれるのを待っている。

 俺だけを待っている顔だった。

「……藤代先輩」
「朔でいいよ」

 息が止まった。

「先輩もいらない」

 それは、さすがにだめだと思った。
 でも、だめだと思う理由より先に、呼んでみたいという気持ちが来てしまった。

「……朔」

 声にした瞬間、藤代先輩がゆっくり笑った。

「うん」

 その声を聞いた瞬間、身体の輪郭がほどけていくような感覚に襲われた。

 まずい、と思った。
 俺はたぶん、もう完全にこの人を好きになっている。

「……透は、俺が怖くない?」

 朔が、俺の頬に指を滑らせた。

 撫でられた瞬間は熱いのに、通り過ぎたあとだけ冷たい。
 不思議な感覚だった。

「少し、怖い、です」
「怖いんだ」

 そうだ。
 ずっと、違和感はあった。
 この人は何かがおかしい。
 榊の言うことが、全部間違いだとも思えない。

 だけど。

 名前を呼ばれるたびに、胸の奥がほどけた。
 特別だと言われるたびに、身体の力が抜けた。
 触れられるたびに、ここにいていいのだと思ってしまった。

「……でも、それ以上に、離れたくないです」

 自分でも驚くほど、素直な言葉が零れ落ちた。
 ずっと、誰かに「特別」だと言ってほしかった。

 父にも。
 前の学校の誰にも。
 どこにも届かなかった俺の輪郭を、この人だけが強く、はっきりと捉えてくれている。
 たとえそれが、榊の言う「まずいこと」だとしても。

 朔は、少しだけ目を伏せた。

「透」
「……はい」
「俺たち、少し似てる」

 低い声だった。

「どこが、ですか」
「見つけてほしかったところ」

 息が止まった。

 そんな言い方をされたら、もう駄目だった。
 俺がずっと言葉にできなかった場所を、この人は何でもないみたいに触ってくる。

「俺も、透に見つけてもらえて、うれしかった」
「……朔」
「うん」

 返事をされるだけで、身体の奥が甘く痺れる。

 怖い。
 でも、離れたくない。

 その二つが、もう矛盾しなくなっていた。

「俺、たぶん……」

 言いかけて、喉が詰まる。

 言ってしまったら戻れない。
 そう分かっているのに、黙っている方が苦しかった。

「朔のことが、好きです」

 言葉にした瞬間、部屋の空気が静かに沈んだ。

 取り消せない。
 取り消したくもない。

 朔は一瞬だけ目を見開いた。
 それから、泣きそうなくらいやさしく笑った。

「……それ、言ったら駄目だったのに」
「どうして。……男同士だからですか?」
「そうじゃない」

 朔の指が、俺の頬に触れた。

「離せなくなる」

 息が止まった。

 怖い、と思った。
 けれどそれより先に、離されたくないと思ってしまった。

「……離さなくていいです」

 自分の声が、熱を帯びて震えているのがわかった。
 朔は一瞬、困ったように眉を下げて笑うと、吸い寄せられるように顔を近づけてきた。

 触れるだけの、静かなキス。

 重なった唇からは、最初は熱くて、それから夜の空気のようなひんやりとした感触が伝わってくる。けれど、そこから心臓へ向かって、甘い痺れがじわじわと広がっていった。

「……っ」

 あまりの緊張に、俺は思わずぎゅっと目を閉じる。
 朔の指先が、耳の裏から髪へと優しく滑り落ちた。

 一度離れて、今度は角度を変えて、もう一度。
 さっきより少しだけ深く、確かめるような柔らかな重なり。

 鼻先を掠める朔の匂いが、胸の奥を締め付ける。
 頭がふわふわとして、まるで重力がなくなったみたいだ。

 やがて朔がゆっくりと顔を離すと、至近距離で見つめるその瞳が、少し揺れていた。

「俺も好きだよ、透」

 名前を呼ばれた瞬間、視界がぐらりと歪んだ。

 部屋の輪郭が遠のく。
 窓も、机も、ベッドの柵も、水の中に沈んでいくみたいにぼやけていく。

「……朔」
「うん」

 返事だけが、すぐそばに残っていた。

 眠い。
 おかしいくらい、身体が重い。

 でも、怖くなかった。

 朔がいる。
 朔が俺を好きだと言った。

 それだけで、もう何も考えられなかった。

「おやすみ、透」

 その声を最後に、俺は深い眠りの底へ落ちた。