三〇七号の扉を開けた瞬間、知らない顔がいた。
それだけで、嫌な予感が現実になったと分かった。
見たことのない転校生だった。細くて、顔立ちはきれいで、いかにも余計なことを背負い込みそうなやつ。なのに部屋の空気は、そいつひとりのせいじゃない重さを含んでいた。
榊には、そこにいるはずのものの顔が見えない。
輪郭も、名前も、人の姿としては結ばない。
声もよく聞こえない。
ただ、いる。
窓際だけ、音の抜け方がおかしかった。
冷え方が不自然で、匂いが浅い。
人間がひとり増えた時の空気じゃない。
なのに、真田も柏木も、そこに誰かがいる前提で動いていた。
真田は、何もないはずの窓際へちらりと目を向ける。
そこに立つ相手の邪魔をしないように、ほんの少し身体を開いている。
会話の輪に、もう一人分の場所を作る時の癖だ。
柏木は、もっとまずかった。
何もない窓際を見て、ほっとした顔をしていた。
さっきまで強張っていた肩が、そこで少しだけ落ちる。
榊には、そこに人の顔も身体も見えない。
それなのに二人は、見えているみたいに振る舞っている。
いや、違う。
見えているんじゃない。
見えるように、頭の中を書き換えられている。
「……は?」
声が出た時には、もう遅かった。
知らない転校生がこっちを見る。警戒と苛立ちが混じった顔だった。帰ってきた途端に空気を壊したやつを見る目だ。
間違ってはいない。
そう見えるように、もう傾いている。
四隅へ目を走らせる。
窓際の角。剥がれ。
入り口脇。ずれ。
ロッカー裏。気配が薄い。
四隅に置いていった封じの札では、抑えきれなかった。
それだけじゃなく、誰かが触っている。
最悪だと思った。
榊は三〇七号の気配が悪いことを、入ったときから察していた。
見えるわけじゃない。
ただ、夜になると数が合わない感じがした。音が遅れて、冷え方が底にたまる。そういう部屋を、家では境が乱れると言った。
栃木の山裾にある榊の家は、古い諏訪系の小さな社だった。
観光客が来るような神社じゃない。土地の水と風の筋、山から下りてくるものと人の暮らしの境を見て、崩れた時だけ手を入れる。派手な祈祷より、紙と塩と手順のほうが物を言う家だ。
だから三〇七号のまずさも、最初に分かったのは「何がいるか」じゃなく「入れないほうがいいものが、近い」ということだった。
外から入らせないために、四隅へ封じの札を置いた。
塩を替えた。
持っていかれた分を、また持ち直した。
夜ごとに削られた。
眠っても眠った感じがしない。朝になると喉が乾いて、肩の奥に重さだけが残る。授業を休んだ日もある。真田には実家の手伝いだと言わせた。半分は本当だ。社へ戻って紙を切り直し、祝詞を上げ、三〇七へ持ち帰る、その繰り返しだった。
離れていたのは、逃げたからじゃない。
入れないために、外で踏ん張っていたからだ。
なのに戻ってきたら、知らない転校生がいた。
しかも、もう受け入れたあとだった。
洗面所で透に言ったことは、ほとんど脅しだったと思う。
名前を呼ばせるな。返事をするな。
顔も名前も見えないくせに、言葉だけはそうとしか言えなかった。
透は当然みたいに反発した。
あそこまでまっすぐ敵を見る顔をされると、逆に頭が冷える。
もう情が移っている。少なくとも、恐怖だけでは切れないところまで行っている。
「……そう見えてるなら、だいぶまずい」
あれは独り言に近かった。
その夜、上段の自分の寝床に入っても眠れなかった。
気配が近すぎた。
真田は下で何度か寝返りを打ったあと、すぐに寝息を立てた。認知を滑らかに補完されているやつの眠り方だ、と榊は思う。本人の中では、もう違和感がない。だから身体にも負担が出にくい。
透は逆だった。
眠れていないくせに、眠ろうとしている。
それが分かる呼吸だった。
やがて、窓際で床板が鳴る。
榊には何も見えない。
けれど、冷え方だけが一段落ちた。部屋の空気がそちらへ引かれる。
来た、と思う。
下段で、透の呼吸が少し変わる。強張りがほどける。安心した時の抜け方だ。
それが腹立たしかった。
安心しているのに、削られている。
本人だけが、それに気づいていない。
朝、明るい場所で見た透の顔色は、もうはっきり悪かった。目の下に薄く影が落ちて、反応が半拍ずつ遅い。数日寝不足が続いた学生にも見えるが、それだけじゃ足りない消耗の仕方だった。
真田は「最近ずっと眠そう」と軽く言った。
榊はその軽さに苛立った。
だが責めても仕方がない。こいつも半分は持っていかれている。
翌日、真田が授業へ出て、透も教室へ行ったあと、榊はひとりで三〇七を見た。
四隅の封じ札を張り直す。
塩を替える。
それでも、もう遅いと分かる。
部屋を守る段階じゃない。
透を切り離さないといけない。
そのためには、正体を拾う必要があった。
顔も見えない。名前も分からない。
だが、こういうものは痕跡だけは残す。
榊はスマホを出した。
学校名。寮名。三〇七号。外階段。事故。
前にも調べた単語を、もう一度入れる。
出てくるのは学校の公式ページと、何年も更新されていない部活の試合結果と、どうでもいい口コミだけだった。
生徒の事故。
寮の怪談。
夜間点呼。
何も出ない。
何もないことが、もうおかしかった。
今どき、何かあれば少しは残る。噂でも、愚痴でも、卒業生の書き込みでもいい。なのに三〇七と外階段だけ、検索結果が妙に平らだった。
放課後、榊は寮監室へ向かった。
小野寺恒三は、机の前で古い出席簿をめくっていた。
六十をとうに過ぎた元教師で、定年後も寮監として残っている。背は縮んでいるが、目だけはまだ鋭い。規則を破った生徒を見つける時の目だ。
「三〇七号で、昔何があった」
小野寺の手が止まった。
一瞬だけだった。
けれど榊には十分だった。
「何の話だ」
「とぼけんな」
小野寺はゆっくり顔を上げた。
「榊。お前は、また余計なことを」
「人の命がかかってるんだぞ」
声が思ったより低く出た。
「転校生が入ってる。削られてる。見て分かんないなら、あんたはもう寮監やめろ」
小野寺の顔がかすかに歪む。
「言葉を選べ」
「選んでる暇があるなら、ここに来てねえ」
沈黙が落ちた。
古い時計の秒針だけが鳴っている。
小野寺は長く息を吐いた。
「……私が何か言えば、ここにはいられん」
「退職が怖いのか」
「退職で済めばいいがな」
その言い方で、学校だけの話ではないと分かった。
「じゃあ、黙って死なせるのか」
小野寺は答えなかった。
代わりに、机の端に置いていた鍵束を握る。
「点呼表だけは見るな」
低い声だった。
見るな。
つまり、そこにある。
「外階段の記録も、残っていない」
榊は小野寺を見た。
小野寺はもう、こちらを見ていなかった。
「名前は、消したんじゃない」
「何?」
「消えていったんだ。少しずつな」
それ以上は言わない、という顔だった。
榊もそれ以上は聞かなかった。
顔は見えない。
名前もまだ分からない。
だが、当たりはついた。
三〇七号。
点呼表。
外階段。
消えていった名前。
祓うだけじゃ足りない。
たぶん、返すための道を探さないといけない。
簡単じゃないことだけは、もう分かっていた。
それだけで、嫌な予感が現実になったと分かった。
見たことのない転校生だった。細くて、顔立ちはきれいで、いかにも余計なことを背負い込みそうなやつ。なのに部屋の空気は、そいつひとりのせいじゃない重さを含んでいた。
榊には、そこにいるはずのものの顔が見えない。
輪郭も、名前も、人の姿としては結ばない。
声もよく聞こえない。
ただ、いる。
窓際だけ、音の抜け方がおかしかった。
冷え方が不自然で、匂いが浅い。
人間がひとり増えた時の空気じゃない。
なのに、真田も柏木も、そこに誰かがいる前提で動いていた。
真田は、何もないはずの窓際へちらりと目を向ける。
そこに立つ相手の邪魔をしないように、ほんの少し身体を開いている。
会話の輪に、もう一人分の場所を作る時の癖だ。
柏木は、もっとまずかった。
何もない窓際を見て、ほっとした顔をしていた。
さっきまで強張っていた肩が、そこで少しだけ落ちる。
榊には、そこに人の顔も身体も見えない。
それなのに二人は、見えているみたいに振る舞っている。
いや、違う。
見えているんじゃない。
見えるように、頭の中を書き換えられている。
「……は?」
声が出た時には、もう遅かった。
知らない転校生がこっちを見る。警戒と苛立ちが混じった顔だった。帰ってきた途端に空気を壊したやつを見る目だ。
間違ってはいない。
そう見えるように、もう傾いている。
四隅へ目を走らせる。
窓際の角。剥がれ。
入り口脇。ずれ。
ロッカー裏。気配が薄い。
四隅に置いていった封じの札では、抑えきれなかった。
それだけじゃなく、誰かが触っている。
最悪だと思った。
榊は三〇七号の気配が悪いことを、入ったときから察していた。
見えるわけじゃない。
ただ、夜になると数が合わない感じがした。音が遅れて、冷え方が底にたまる。そういう部屋を、家では境が乱れると言った。
栃木の山裾にある榊の家は、古い諏訪系の小さな社だった。
観光客が来るような神社じゃない。土地の水と風の筋、山から下りてくるものと人の暮らしの境を見て、崩れた時だけ手を入れる。派手な祈祷より、紙と塩と手順のほうが物を言う家だ。
だから三〇七号のまずさも、最初に分かったのは「何がいるか」じゃなく「入れないほうがいいものが、近い」ということだった。
外から入らせないために、四隅へ封じの札を置いた。
塩を替えた。
持っていかれた分を、また持ち直した。
夜ごとに削られた。
眠っても眠った感じがしない。朝になると喉が乾いて、肩の奥に重さだけが残る。授業を休んだ日もある。真田には実家の手伝いだと言わせた。半分は本当だ。社へ戻って紙を切り直し、祝詞を上げ、三〇七へ持ち帰る、その繰り返しだった。
離れていたのは、逃げたからじゃない。
入れないために、外で踏ん張っていたからだ。
なのに戻ってきたら、知らない転校生がいた。
しかも、もう受け入れたあとだった。
洗面所で透に言ったことは、ほとんど脅しだったと思う。
名前を呼ばせるな。返事をするな。
顔も名前も見えないくせに、言葉だけはそうとしか言えなかった。
透は当然みたいに反発した。
あそこまでまっすぐ敵を見る顔をされると、逆に頭が冷える。
もう情が移っている。少なくとも、恐怖だけでは切れないところまで行っている。
「……そう見えてるなら、だいぶまずい」
あれは独り言に近かった。
その夜、上段の自分の寝床に入っても眠れなかった。
気配が近すぎた。
真田は下で何度か寝返りを打ったあと、すぐに寝息を立てた。認知を滑らかに補完されているやつの眠り方だ、と榊は思う。本人の中では、もう違和感がない。だから身体にも負担が出にくい。
透は逆だった。
眠れていないくせに、眠ろうとしている。
それが分かる呼吸だった。
やがて、窓際で床板が鳴る。
榊には何も見えない。
けれど、冷え方だけが一段落ちた。部屋の空気がそちらへ引かれる。
来た、と思う。
下段で、透の呼吸が少し変わる。強張りがほどける。安心した時の抜け方だ。
それが腹立たしかった。
安心しているのに、削られている。
本人だけが、それに気づいていない。
朝、明るい場所で見た透の顔色は、もうはっきり悪かった。目の下に薄く影が落ちて、反応が半拍ずつ遅い。数日寝不足が続いた学生にも見えるが、それだけじゃ足りない消耗の仕方だった。
真田は「最近ずっと眠そう」と軽く言った。
榊はその軽さに苛立った。
だが責めても仕方がない。こいつも半分は持っていかれている。
翌日、真田が授業へ出て、透も教室へ行ったあと、榊はひとりで三〇七を見た。
四隅の封じ札を張り直す。
塩を替える。
それでも、もう遅いと分かる。
部屋を守る段階じゃない。
透を切り離さないといけない。
そのためには、正体を拾う必要があった。
顔も見えない。名前も分からない。
だが、こういうものは痕跡だけは残す。
榊はスマホを出した。
学校名。寮名。三〇七号。外階段。事故。
前にも調べた単語を、もう一度入れる。
出てくるのは学校の公式ページと、何年も更新されていない部活の試合結果と、どうでもいい口コミだけだった。
生徒の事故。
寮の怪談。
夜間点呼。
何も出ない。
何もないことが、もうおかしかった。
今どき、何かあれば少しは残る。噂でも、愚痴でも、卒業生の書き込みでもいい。なのに三〇七と外階段だけ、検索結果が妙に平らだった。
放課後、榊は寮監室へ向かった。
小野寺恒三は、机の前で古い出席簿をめくっていた。
六十をとうに過ぎた元教師で、定年後も寮監として残っている。背は縮んでいるが、目だけはまだ鋭い。規則を破った生徒を見つける時の目だ。
「三〇七号で、昔何があった」
小野寺の手が止まった。
一瞬だけだった。
けれど榊には十分だった。
「何の話だ」
「とぼけんな」
小野寺はゆっくり顔を上げた。
「榊。お前は、また余計なことを」
「人の命がかかってるんだぞ」
声が思ったより低く出た。
「転校生が入ってる。削られてる。見て分かんないなら、あんたはもう寮監やめろ」
小野寺の顔がかすかに歪む。
「言葉を選べ」
「選んでる暇があるなら、ここに来てねえ」
沈黙が落ちた。
古い時計の秒針だけが鳴っている。
小野寺は長く息を吐いた。
「……私が何か言えば、ここにはいられん」
「退職が怖いのか」
「退職で済めばいいがな」
その言い方で、学校だけの話ではないと分かった。
「じゃあ、黙って死なせるのか」
小野寺は答えなかった。
代わりに、机の端に置いていた鍵束を握る。
「点呼表だけは見るな」
低い声だった。
見るな。
つまり、そこにある。
「外階段の記録も、残っていない」
榊は小野寺を見た。
小野寺はもう、こちらを見ていなかった。
「名前は、消したんじゃない」
「何?」
「消えていったんだ。少しずつな」
それ以上は言わない、という顔だった。
榊もそれ以上は聞かなかった。
顔は見えない。
名前もまだ分からない。
だが、当たりはついた。
三〇七号。
点呼表。
外階段。
消えていった名前。
祓うだけじゃ足りない。
たぶん、返すための道を探さないといけない。
簡単じゃないことだけは、もう分かっていた。
