三〇七号室の見えない先輩

 言われた意味が、すぐには分からなかった。

「……何の話だ」

 そう返した俺の声は、自分でも分かるくらい固かった。

 榊は答えない。
 部屋の中を睨むみたいに見回して、それからもう一度、俺を見た。目つきが悪いというより、警戒心がそのまま顔に出ている感じだった。

「お前が入れたんだろ」
「だから、何を」

 言い返した瞬間、ベッドの縁にいた藤代先輩がゆっくり立ち上がった。

「落ち着けよ」

 低い声だった。
 いつも通り穏やかなのに、部屋の空気だけが少し張る。

 榊の視線がそっちへ向く。

「お前が喋んな」
「榊」

 間に入ったのは真田先輩だった。
 さっきまでの驚きを無理やり押し込めたみたいな顔で、俺と榊のあいだへ半歩出る。

「帰ってきて早々それやめろ。柏木、何も分かってない」
「分かってないから言ってる」
「だからって、その言い方はないだろ」

 真田先輩の声は静かだったけれど、止める側の慣れがあった。
 この二人、前からこういうやり取りをしていたのかもしれないと思う。

 でも、分かっていないのはこっちじゃないか、という気持ちが先に立った。

 帰ってきたばかりで荷物も下ろしていないくせに、部屋へ入るなりこんな言い方をするほうがどうかしている。

「俺、何かした?」

 榊はすぐには答えなかった。
 代わりに、部屋の四隅へ目を走らせる。窓際の角、ロッカーの陰、入り口脇の床。

 何を見ているのか分からなくて、余計に気味が悪い。

「その紙、触ったか」

 唐突に言われて、眉をひそめた。

「紙?」
「四隅の」

 そこまで言われて、ようやく思い出す。掃除の時に、角に貼りついた古い紙切れを見かけた気がする。埃と一緒に払ったかもしれないし、そのままだったかもしれない。正直、よく覚えていない。

「別に、そんな大したものとは」
「触ったんだな」

 決めつける言い方に、少しむっとした。

「だから何なんだよ」

 榊の顔が、ほんの少し険しくなる。

「何なんだよ、じゃない」
「榊」

 真田先輩が、今度ははっきり止めた。

「今日はもうやめろ。柏木も疲れてるし、お前も帰ってきたばっかだろ」

 榊はしばらく黙っていた。
 その沈黙のあいだ、俺はどうしてか、藤代先輩のほうを見られなかった。

 見なくても分かる。たぶん、いつもの穏やかな顔をしている。

 そう思うと、余計に榊だけが刺々しく見えた。

「……分かった」

 低く吐き捨てるみたいに言って、榊はボストンバッグを自分のベッドへ放った。

 それで終わるかと思ったのに、すれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で言う。

「次から、勝手に触るな」

 命令される筋合いはない、と思った。
 けれど言い返す前に、藤代先輩が口を開いた。

「柏木、シャワー先行ってくれば」

 その言い方が自然すぎて、反射的に頷いてしまう。

「あ、はい」

 着替えを持って部屋を出る。
 廊下へ出た瞬間、張っていた空気が少しだけ緩んだ。

 でも胸の中は、逆にざわざわしていた。

 榊要。
 名前だけ見れば、もっと無口で静かな人を想像していたのに、実際はずっと刺々しい。真田先輩が間に入らなければ、もっとひどい言い方をしていたかもしれない。

 洗面所の鏡に映った自分の顔は、思ったより疲れていた。
 寝不足のせいか、目の下が少し暗い。

「顔色悪」

 独り言みたいに呟いて、水で頬を冷やす。
 その時、背後でドアが鳴った。

 振り返ると、榊が立っていた。

 またか、と思ってしまったのが顔に出たのかもしれない。榊は眉をひそめたまま、扉のそばに立ち止まる。

「別に喧嘩売りに来たわけじゃない」
「じゃあ何だ」

 声が、思ったより硬くなった。

 榊は少しだけ黙ってから、低い声で言う。

「それに名前呼ばせるな」

 何を言われているのか、一瞬分からなかった。

「は?」
「返事もするな」

 ぞっとするより先に、苛立ちが来た。

「それってなんだ」
「さっき、お前の隣にいたもの」

 隣にいたもの?
 藤代先輩のことか?

「意味分かんない、何だ、その言い方」
「分からなくていいから、やれ」
「榊、さっきから何なんだよ」

 榊の目つきがわずかに変わる。
 怒ったというより、俺の反応に困ったような顔だった。

 けれど、その困惑すら、今の俺には勝手だった。

 藤代先輩は優しかった。
 色々と教えてくれた。
 話したくないことを無理に聞かなかった。
 夜、眠れない時に抱きしめてくれた。

 ――俺を「特別だ」と言ってキスしてくれた。

 その相手に向かって、名前を呼ばせるな、返事をするな、と言う。

 そんなの、まるで。

「榊のほうが、よっぽどおかしい」

 言った瞬間、空気が固まった。

 榊は何も言わない。
 ただ、息を吐くみたいに視線を落としてから、もう一度俺を見た。

「……そう見えてんなら、だいぶまずい」

 小さかったけれど、はっきりした声だった。

「意味分かんない」
「分かんなくていい。今日は部屋、ひとりになるな」

 それだけ言って、榊は踵を返した。
 洗面所の扉が閉まる。

 残された俺は、しばらく動けなかった。

 命令口調も腹が立つし、何より、勝手にこっちを巻き込んでいる感じがする。

 部屋へ戻ると、真田先輩は何事もなかったみたいにドライヤーをしまっていた。
 榊は自分のベッドで荷物を整理していて、藤代先輩は窓際に立っている。

 その並びを見た瞬間、変な安心が先に来た。

 藤代先輩は、いつもの顔で俺を見た。

「大丈夫?」

 その一言だけで、さっきまで張っていた気持ちが少しほどける。

「……はい」
「榊、言い方きついから」

 榊がいるのに、と思った。

 けれど榊は、聞こえていないみたいに動かなかった。
 荷物を整理する手も止まらない。

 いや、聞こえていても、無視することにしたのかもしれない。

 そう思おうとした。

 真田先輩だけが、ちょっと不思議なものを見るように俺を見ていた。

 藤代先輩は困ったみたいに笑っている。

 その顔が、やさしい。
 悪いのは、あっちだ。

 部屋の空気を乱しているのも。
 訳の分からないことを言うのも。
 俺をこんなに身構えさせるのも。

 消灯後、真田先輩が「今日は早めに寝ろよ」とだけ言って上段へ上がった。
 榊は何も言わない。けれど、カーテンの向こう側みたいに気配だけが張っている。

 その夜、布団へ入っても、しばらく目が冴えていた。
 やがて、窓際で小さく床板が鳴る。

 顔を向けると、藤代先輩が立っていた。

 暗い部屋の中でも、その顔は見慣れてきてしまっていた。やわらかくて、静かで、こっちを安心させる目をしている。

「眠れない?」
「……ちょっと」

 藤代先輩は何も言わず、俺のベッドへ入ってきた。
 いつも通り、背中に腕が回る。

 その瞬間、身体の強張りがほどける。

「榊、何なんだろう」

 自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。

 藤代先輩は少しだけ黙った。

「ああいうやつなんだよ」
「俺、何かしたんですか」
「柏木は何もしてない」

 低い声が、耳のすぐそばで言う。

 それだけで救われた気がした。

「……よかった」

 小さく呟くと、藤代先輩の手が髪を撫でた。

「大丈夫。気にしなくていい」

 そう言われると、ほんとうにそうかもしれないと思ってしまう。
 部屋のどこかで、かすかに紙の擦れる音がした。
 けれど、藤代先輩の腕の中にいると、それも遠くなる。

 目を閉じる直前、ぼんやり思った。

 榊要――おかしいのは、あいつのほうだ。