言われた意味が、すぐには分からなかった。
「……何の話だ」
そう返した俺の声は、自分でも分かるくらい固かった。
榊は答えない。
部屋の中を睨むみたいに見回して、それからもう一度、俺を見た。目つきが悪いというより、警戒心がそのまま顔に出ている感じだった。
「お前が入れたんだろ」
「だから、何を」
言い返した瞬間、ベッドの縁にいた藤代先輩がゆっくり立ち上がった。
「落ち着けよ」
低い声だった。
いつも通り穏やかなのに、部屋の空気だけが少し張る。
榊の視線がそっちへ向く。
「お前が喋んな」
「榊」
間に入ったのは真田先輩だった。
さっきまでの驚きを無理やり押し込めたみたいな顔で、俺と榊のあいだへ半歩出る。
「帰ってきて早々それやめろ。柏木、何も分かってない」
「分かってないから言ってる」
「だからって、その言い方はないだろ」
真田先輩の声は静かだったけれど、止める側の慣れがあった。
この二人、前からこういうやり取りをしていたのかもしれないと思う。
でも、分かっていないのはこっちじゃないか、という気持ちが先に立った。
帰ってきたばかりで荷物も下ろしていないくせに、部屋へ入るなりこんな言い方をするほうがどうかしている。
「俺、何かした?」
榊はすぐには答えなかった。
代わりに、部屋の四隅へ目を走らせる。窓際の角、ロッカーの陰、入り口脇の床。
何を見ているのか分からなくて、余計に気味が悪い。
「その紙、触ったか」
唐突に言われて、眉をひそめた。
「紙?」
「四隅の」
そこまで言われて、ようやく思い出す。掃除の時に、角に貼りついた古い紙切れを見かけた気がする。埃と一緒に払ったかもしれないし、そのままだったかもしれない。正直、よく覚えていない。
「別に、そんな大したものとは」
「触ったんだな」
決めつける言い方に、少しむっとした。
「だから何なんだよ」
榊の顔が、ほんの少し険しくなる。
「何なんだよ、じゃない」
「榊」
真田先輩が、今度ははっきり止めた。
「今日はもうやめろ。柏木も疲れてるし、お前も帰ってきたばっかだろ」
榊はしばらく黙っていた。
その沈黙のあいだ、俺はどうしてか、藤代先輩のほうを見られなかった。
見なくても分かる。たぶん、いつもの穏やかな顔をしている。
そう思うと、余計に榊だけが刺々しく見えた。
「……分かった」
低く吐き捨てるみたいに言って、榊はボストンバッグを自分のベッドへ放った。
それで終わるかと思ったのに、すれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で言う。
「次から、勝手に触るな」
命令される筋合いはない、と思った。
けれど言い返す前に、藤代先輩が口を開いた。
「柏木、シャワー先行ってくれば」
その言い方が自然すぎて、反射的に頷いてしまう。
「あ、はい」
着替えを持って部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、張っていた空気が少しだけ緩んだ。
でも胸の中は、逆にざわざわしていた。
榊要。
名前だけ見れば、もっと無口で静かな人を想像していたのに、実際はずっと刺々しい。真田先輩が間に入らなければ、もっとひどい言い方をしていたかもしれない。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、思ったより疲れていた。
寝不足のせいか、目の下が少し暗い。
「顔色悪」
独り言みたいに呟いて、水で頬を冷やす。
その時、背後でドアが鳴った。
振り返ると、榊が立っていた。
またか、と思ってしまったのが顔に出たのかもしれない。榊は眉をひそめたまま、扉のそばに立ち止まる。
「別に喧嘩売りに来たわけじゃない」
「じゃあ何だ」
声が、思ったより硬くなった。
榊は少しだけ黙ってから、低い声で言う。
「それに名前呼ばせるな」
何を言われているのか、一瞬分からなかった。
「は?」
「返事もするな」
ぞっとするより先に、苛立ちが来た。
「それってなんだ」
「さっき、お前の隣にいたもの」
隣にいたもの?
藤代先輩のことか?
「意味分かんない、何だ、その言い方」
「分からなくていいから、やれ」
「榊、さっきから何なんだよ」
榊の目つきがわずかに変わる。
怒ったというより、俺の反応に困ったような顔だった。
けれど、その困惑すら、今の俺には勝手だった。
藤代先輩は優しかった。
色々と教えてくれた。
話したくないことを無理に聞かなかった。
夜、眠れない時に抱きしめてくれた。
――俺を「特別だ」と言ってキスしてくれた。
その相手に向かって、名前を呼ばせるな、返事をするな、と言う。
そんなの、まるで。
「榊のほうが、よっぽどおかしい」
言った瞬間、空気が固まった。
榊は何も言わない。
ただ、息を吐くみたいに視線を落としてから、もう一度俺を見た。
「……そう見えてんなら、だいぶまずい」
小さかったけれど、はっきりした声だった。
「意味分かんない」
「分かんなくていい。今日は部屋、ひとりになるな」
それだけ言って、榊は踵を返した。
洗面所の扉が閉まる。
残された俺は、しばらく動けなかった。
命令口調も腹が立つし、何より、勝手にこっちを巻き込んでいる感じがする。
部屋へ戻ると、真田先輩は何事もなかったみたいにドライヤーをしまっていた。
榊は自分のベッドで荷物を整理していて、藤代先輩は窓際に立っている。
その並びを見た瞬間、変な安心が先に来た。
藤代先輩は、いつもの顔で俺を見た。
「大丈夫?」
その一言だけで、さっきまで張っていた気持ちが少しほどける。
「……はい」
「榊、言い方きついから」
榊がいるのに、と思った。
けれど榊は、聞こえていないみたいに動かなかった。
荷物を整理する手も止まらない。
いや、聞こえていても、無視することにしたのかもしれない。
そう思おうとした。
真田先輩だけが、ちょっと不思議なものを見るように俺を見ていた。
藤代先輩は困ったみたいに笑っている。
その顔が、やさしい。
悪いのは、あっちだ。
部屋の空気を乱しているのも。
訳の分からないことを言うのも。
俺をこんなに身構えさせるのも。
消灯後、真田先輩が「今日は早めに寝ろよ」とだけ言って上段へ上がった。
榊は何も言わない。けれど、カーテンの向こう側みたいに気配だけが張っている。
その夜、布団へ入っても、しばらく目が冴えていた。
やがて、窓際で小さく床板が鳴る。
顔を向けると、藤代先輩が立っていた。
暗い部屋の中でも、その顔は見慣れてきてしまっていた。やわらかくて、静かで、こっちを安心させる目をしている。
「眠れない?」
「……ちょっと」
藤代先輩は何も言わず、俺のベッドへ入ってきた。
いつも通り、背中に腕が回る。
その瞬間、身体の強張りがほどける。
「榊、何なんだろう」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
藤代先輩は少しだけ黙った。
「ああいうやつなんだよ」
「俺、何かしたんですか」
「柏木は何もしてない」
低い声が、耳のすぐそばで言う。
それだけで救われた気がした。
「……よかった」
小さく呟くと、藤代先輩の手が髪を撫でた。
「大丈夫。気にしなくていい」
そう言われると、ほんとうにそうかもしれないと思ってしまう。
部屋のどこかで、かすかに紙の擦れる音がした。
けれど、藤代先輩の腕の中にいると、それも遠くなる。
目を閉じる直前、ぼんやり思った。
榊要――おかしいのは、あいつのほうだ。
「……何の話だ」
そう返した俺の声は、自分でも分かるくらい固かった。
榊は答えない。
部屋の中を睨むみたいに見回して、それからもう一度、俺を見た。目つきが悪いというより、警戒心がそのまま顔に出ている感じだった。
「お前が入れたんだろ」
「だから、何を」
言い返した瞬間、ベッドの縁にいた藤代先輩がゆっくり立ち上がった。
「落ち着けよ」
低い声だった。
いつも通り穏やかなのに、部屋の空気だけが少し張る。
榊の視線がそっちへ向く。
「お前が喋んな」
「榊」
間に入ったのは真田先輩だった。
さっきまでの驚きを無理やり押し込めたみたいな顔で、俺と榊のあいだへ半歩出る。
「帰ってきて早々それやめろ。柏木、何も分かってない」
「分かってないから言ってる」
「だからって、その言い方はないだろ」
真田先輩の声は静かだったけれど、止める側の慣れがあった。
この二人、前からこういうやり取りをしていたのかもしれないと思う。
でも、分かっていないのはこっちじゃないか、という気持ちが先に立った。
帰ってきたばかりで荷物も下ろしていないくせに、部屋へ入るなりこんな言い方をするほうがどうかしている。
「俺、何かした?」
榊はすぐには答えなかった。
代わりに、部屋の四隅へ目を走らせる。窓際の角、ロッカーの陰、入り口脇の床。
何を見ているのか分からなくて、余計に気味が悪い。
「その紙、触ったか」
唐突に言われて、眉をひそめた。
「紙?」
「四隅の」
そこまで言われて、ようやく思い出す。掃除の時に、角に貼りついた古い紙切れを見かけた気がする。埃と一緒に払ったかもしれないし、そのままだったかもしれない。正直、よく覚えていない。
「別に、そんな大したものとは」
「触ったんだな」
決めつける言い方に、少しむっとした。
「だから何なんだよ」
榊の顔が、ほんの少し険しくなる。
「何なんだよ、じゃない」
「榊」
真田先輩が、今度ははっきり止めた。
「今日はもうやめろ。柏木も疲れてるし、お前も帰ってきたばっかだろ」
榊はしばらく黙っていた。
その沈黙のあいだ、俺はどうしてか、藤代先輩のほうを見られなかった。
見なくても分かる。たぶん、いつもの穏やかな顔をしている。
そう思うと、余計に榊だけが刺々しく見えた。
「……分かった」
低く吐き捨てるみたいに言って、榊はボストンバッグを自分のベッドへ放った。
それで終わるかと思ったのに、すれ違いざま、俺にだけ聞こえる声で言う。
「次から、勝手に触るな」
命令される筋合いはない、と思った。
けれど言い返す前に、藤代先輩が口を開いた。
「柏木、シャワー先行ってくれば」
その言い方が自然すぎて、反射的に頷いてしまう。
「あ、はい」
着替えを持って部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、張っていた空気が少しだけ緩んだ。
でも胸の中は、逆にざわざわしていた。
榊要。
名前だけ見れば、もっと無口で静かな人を想像していたのに、実際はずっと刺々しい。真田先輩が間に入らなければ、もっとひどい言い方をしていたかもしれない。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、思ったより疲れていた。
寝不足のせいか、目の下が少し暗い。
「顔色悪」
独り言みたいに呟いて、水で頬を冷やす。
その時、背後でドアが鳴った。
振り返ると、榊が立っていた。
またか、と思ってしまったのが顔に出たのかもしれない。榊は眉をひそめたまま、扉のそばに立ち止まる。
「別に喧嘩売りに来たわけじゃない」
「じゃあ何だ」
声が、思ったより硬くなった。
榊は少しだけ黙ってから、低い声で言う。
「それに名前呼ばせるな」
何を言われているのか、一瞬分からなかった。
「は?」
「返事もするな」
ぞっとするより先に、苛立ちが来た。
「それってなんだ」
「さっき、お前の隣にいたもの」
隣にいたもの?
藤代先輩のことか?
「意味分かんない、何だ、その言い方」
「分からなくていいから、やれ」
「榊、さっきから何なんだよ」
榊の目つきがわずかに変わる。
怒ったというより、俺の反応に困ったような顔だった。
けれど、その困惑すら、今の俺には勝手だった。
藤代先輩は優しかった。
色々と教えてくれた。
話したくないことを無理に聞かなかった。
夜、眠れない時に抱きしめてくれた。
――俺を「特別だ」と言ってキスしてくれた。
その相手に向かって、名前を呼ばせるな、返事をするな、と言う。
そんなの、まるで。
「榊のほうが、よっぽどおかしい」
言った瞬間、空気が固まった。
榊は何も言わない。
ただ、息を吐くみたいに視線を落としてから、もう一度俺を見た。
「……そう見えてんなら、だいぶまずい」
小さかったけれど、はっきりした声だった。
「意味分かんない」
「分かんなくていい。今日は部屋、ひとりになるな」
それだけ言って、榊は踵を返した。
洗面所の扉が閉まる。
残された俺は、しばらく動けなかった。
命令口調も腹が立つし、何より、勝手にこっちを巻き込んでいる感じがする。
部屋へ戻ると、真田先輩は何事もなかったみたいにドライヤーをしまっていた。
榊は自分のベッドで荷物を整理していて、藤代先輩は窓際に立っている。
その並びを見た瞬間、変な安心が先に来た。
藤代先輩は、いつもの顔で俺を見た。
「大丈夫?」
その一言だけで、さっきまで張っていた気持ちが少しほどける。
「……はい」
「榊、言い方きついから」
榊がいるのに、と思った。
けれど榊は、聞こえていないみたいに動かなかった。
荷物を整理する手も止まらない。
いや、聞こえていても、無視することにしたのかもしれない。
そう思おうとした。
真田先輩だけが、ちょっと不思議なものを見るように俺を見ていた。
藤代先輩は困ったみたいに笑っている。
その顔が、やさしい。
悪いのは、あっちだ。
部屋の空気を乱しているのも。
訳の分からないことを言うのも。
俺をこんなに身構えさせるのも。
消灯後、真田先輩が「今日は早めに寝ろよ」とだけ言って上段へ上がった。
榊は何も言わない。けれど、カーテンの向こう側みたいに気配だけが張っている。
その夜、布団へ入っても、しばらく目が冴えていた。
やがて、窓際で小さく床板が鳴る。
顔を向けると、藤代先輩が立っていた。
暗い部屋の中でも、その顔は見慣れてきてしまっていた。やわらかくて、静かで、こっちを安心させる目をしている。
「眠れない?」
「……ちょっと」
藤代先輩は何も言わず、俺のベッドへ入ってきた。
いつも通り、背中に腕が回る。
その瞬間、身体の強張りがほどける。
「榊、何なんだろう」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
藤代先輩は少しだけ黙った。
「ああいうやつなんだよ」
「俺、何かしたんですか」
「柏木は何もしてない」
低い声が、耳のすぐそばで言う。
それだけで救われた気がした。
「……よかった」
小さく呟くと、藤代先輩の手が髪を撫でた。
「大丈夫。気にしなくていい」
そう言われると、ほんとうにそうかもしれないと思ってしまう。
部屋のどこかで、かすかに紙の擦れる音がした。
けれど、藤代先輩の腕の中にいると、それも遠くなる。
目を閉じる直前、ぼんやり思った。
榊要――おかしいのは、あいつのほうだ。
