三〇七号室の見えない先輩

 その日の放課後、寮へ戻る途中で、真田先輩と外階段の下を通った。

 楠寮と校舎をつなぐ、あの鉄の手すりのついた階段だ。
 初日に藤代先輩に抱き留められた場所でもある。

 真新しい板が混じった三段目を見た瞬間、足が少しだけ止まる。

「そこ、気になる?」

 真田先輩が聞いた。

「ちょっと」
「昔、事故あったんだよ」

 あまりにあっさり言われて、思わず顔を上げる。

「事故」
「詳しくは俺も知らないけど、夜にここで落ちたやつがいるらしい」

 風が吹いて、手すりがかすかに鳴った。

「寮生ですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「そこが、なんか曖昧でさ」

 真田先輩は眉を寄せる。

「噂だけ残ってる感じ。先輩だったとか、一年だったとか、寮監が運んだとか、救急車呼んだとか、言うことみんな違う」

 そこで、また少し考える顔になる。

「でも、外階段は夜にあんま使うなって話だけは、やたらはっきりしてんだよな」

 嫌な感じだった。

 話の中心だけが抜けて、輪郭だけ残っている。
 それは藤代先輩の名前が引っかかる時と、少し似ていた。

「柏木?」

 呼ばれて我に返る。

「顔色、悪いぞ」
「大丈夫です」
「全然大丈夫そうじゃない」

 そう言うわりに、真田先輩は深追いしない。
 ただ、階段のほうを見ないようにするみたいに、俺の肩を軽く押して歩き出した。

「今日はもうメシにしようぜ」

 夕飯も風呂も、いつも通り終わった。
 真田先輩はテレビのない談話室の話で笑っていたし、俺も適当に相槌を打った。

 けれど頭のどこかに、ずっと外階段が残っていた。

 昔の事故。
 夜。
 曖昧な噂。

 消灯が近づくころ、藤代先輩はやっぱり来た。

 窓際に立つ姿を見た瞬間、安心してしまった自分に、少しだけ腹が立つ。

「今日、遅かったですね」
「寮監につかまってた」
「先輩、ほんと何でもやってるんですね」
「そうでもないよ」

 そう言って、藤代先輩は俺のベッドの縁に腰を下ろした。

 聞きたいことは、いくつかあった。
 外階段の事故のこととか。
 名前のこととか。

 でも、そのどれも口に出す前に、廊下の向こうで足音が止まる。

 真田先輩が顔を上げた。

「え」

 その声が、やけに小さかった。

 次の瞬間、三〇七の扉が開く。

 立っていたのは、見たことのない男子だった。

 制服の着崩し方は雑じゃないのに、全体に隙がない。背は高すぎない。目つきが少し鋭くて、空気だけが妙に張っている。

 手には小さな紙袋。肩には使い込んだボストンバッグ。
 その視線が、部屋の中を一瞬でなぞる。

 真田先輩。
 俺。
 それから、ベッドの縁に座る藤代先輩。

 見た瞬間、その人の顔色が変わった。

「……は?」

 低い声だった。
 怒鳴っているわけじゃないのに、部屋の温度が一段下がる。

 真田先輩が立ち上がる。

「榊」

 その名前を聞いた瞬間、息が詰まった。

 榊要。
 戻ってくるはずだった、もうひとりの同室者。

 榊は俺から目を逸らさなかった。
 いや、正確には、俺の向こう側まで含めて見ているみたいだった。

 ぞっとするほどまっすぐな目だった。

「……お前」

 榊が言う。

「なんで部屋に入れた?」