三〇七号室の見えない先輩

 母の遺影は、食卓から少し離れた棚の上にあった。
 写真の中の母だけが、いつも同じ顔でこちらを見ている。

「寮に入ることになった」

 父は、決まった予定を読み上げるみたいに言った。

 夕飯のあとだった。
 テーブルの上には、父が帰りに買ってきた惣菜パックが、蓋を開けたまま残っている。
 祖母は隣の部屋でテレビを見ていた。画面の中ではニュースキャスターが天気を読んでいるのに、ふふ、と楽しそうに笑っている。「お父さん、もう帰ってくるかしらねえ」と言う声が、食卓まで聞こえた。

 この家には、人の気配はある。
 でも、俺の居場所だけがなかった。

「……誰が?」
「お前以外に誰がいる」

 父は顔を上げなかった。
 スマホの画面を指でなぞりながら、淡々と続ける。

「学校の手続きは済ませた。寮も空きがある。来週からだ」

 済ませた。
 その言葉が、喉の奥に刺さった。

 相談じゃなかった。
 確認でもなかった。
 俺の知らないところで、俺の行き先だけが先に決まっていた。

「俺には、聞かないんだ」

 父の指が止まった。
 ほんの一瞬だけだった。

「聞いても、状況は変わらない」

 それで終わりみたいに、父はまた画面に視線を落とした。

「俺、邪魔?」

 言ってから、自分でも子供っぽいことを言ったと思った。
 けれど父は、すぐには否定しなかった。

 その沈黙だけで、十分だった。

「そういう話じゃない」

 父は低く言った。

「おばあちゃんのこともある。
 俺の仕事もある。お前の学校のことまで、今まで通りには見られない」

 今まで通り。
 笑いそうになった。
 今まで、何を見ていたんだろう。

「……分かった」

 それしか言えなかった。
 父は少しだけ息を吐いた。

「助かる」

 ぽきり、と。

 その一言で、何かが完全に折れた気がした。
 俺がいなくなることは、父にとって、助かることなのだ。

***

 最寄り駅からのバスは本数が少なくて、降りてからも坂道をしばらく歩いた。
 店も人影も途切れて、ここまで来るあいだに、山の中へ押し込まれていくみたいだった。
 ようやくたどり着いたのは、古い二階建ての木造の建物だった。

 楠寮、と古い木札に書かれた玄関をくぐるのは、一瞬ためらわれた。

 なんだよ、この古さ。
 令和だよな、今。
 というか、電波入るのか、ここ。

 そんなことを思いながら中へ入ると、すぐ右手に木の盤が掛かっていた。

 部屋番号が横に並び、その下に木札を掛けるようになっているらしい。年季の入った盤面には細い傷が走り、数字の墨もところどころかすれていた。今どきあまり見ない作りだ。

 307号室の欄には、すでに三枚、木札が掛かっていた。

 真田匠。榊要。柏木透。

 柏木透。それは俺の名前だ。

 二枚は少し色が落ちているのに、俺の札だけがやけに新しかった。木肌も明るいし、墨の黒もまだくっきりしている。

 自分の名前がもうそこにあるのを見て、変な感じがした。

 その足元に、さらに一枚、木札が落ちていた。

 キャリーケースの持ち手を引いたまましゃがみこみ、拾い上げる。角が少し欠けていて、木の色もほかの札よりひとつ古かった。黒い字で、藤代朔。

 落ちたのかな、と思ったところで、すぐ後ろから声がした。

「それ、俺の」

 驚いて振り向く。

 いつのまにか、すぐ後ろに男子生徒が立っていた。気配が近すぎて、一瞬だけ息が止まる。制服の着方は崩れていないのに堅苦しく見えない。目を引くくらい整った顔立ちで、なのに声は低くてやわらかかった。

「あ、すみません」

 札を渡しかけると、その人――藤代朔は受け取らずに盤へ目をやった。

「謝るほどじゃない。落ちてたんだろ。藤代朔、三年生」
「……柏木透です。二年です」
「うん。知ってる」
「え」
「三〇七の新しい子だろ」

 それから藤代先輩は、盤の一角を指さした。

「ここね。三〇七」

 言われた先を見る。
 307号室の欄。俺の名前も、知らない二人の名前も、そこに並んでいる。

 自然に、落ちていた札をその下へ掛けた。
 木札が、小さく乾いた音を立てる。

 その瞬間、くらりと視界が揺れた。

 ほんの一拍、廊下の空気が遠のいた気がして、思わず瞬きをする。

「どうした?」

 低い声に顔を上げると、藤代先輩がすぐ近くでこちらを見ていた。

「……いえ」

 立ちくらみみたいなものだ、と自分に言い聞かせる。
 その瞬間、307の欄にぶら下がる名前は四つになった。

 同じ部屋なんだ。

 なんとなく指先が止まったけれど、その人は気にしたふうもなく、次の瞬間には俺の足元の荷物へ視線を落としていた。

「編入生? 六月に転校なんて珍しい」
「あー」

 祖母の認知症が進んで、家でひとりにしておけなくなったこと。父の仕事の都合もあって、結局、俺が寮に入ることになったこと。説明しろと言われればできる。でも、初対面の相手にうまく話せる気はしなかった。

 曖昧に返しただけで、藤代先輩はそれ以上すぐには聞いてこなかった。

「話したくないならいいけど。それぞれ、事情あるし」

 なんとなくほっとした。

 寮は、初夏の陽が差している昼間でも薄暗かった。木造で、空気が古い。壁の色も、廊下のワックスも、ところどころ時代から置いていかれたみたいで、スマホの通知音が鳴るたびにそこだけ浮いて聞こえる。

「古いよね、ここ。写真撮って友達に送ったら、だいたい心配される」
「まだ送ってないですけど、たぶんされます」

 そう合わせてから、ちくっとした。
 送る相手を、すぐには思いつかなかった。

 転校ばかりしていたから。
 でも、本当はそのせいだけじゃないのかもしれない。

「だよね。
 というか、よくこんな山の中に建てたなって感じしない?」
「しました。さっきから電波入るのか不安です」
「入る場所と入らない場所ある。廊下の奥とか、たまに一瞬死ぬ」

 さらっと言われたのに、その言葉と表情に妙にぞわりとした。
 藤代さんは笑ってから、俺のボストンバッグをひょいと持ち上げた。

「え、いいです、自分で」
「キャリーとそれ、両方だと階段きついだろ。部屋同じだし」
「……そうですよね」
「うん。307号室」

 さっきの名札盤を思い出す。307の欄に、自分の名前は最初からあった。その横に、俺はこの人の札を掛けた。

 その人はもう俺の返事を待たずに歩き出していた。荷物を持つ手際がいい。歩幅も、俺がキャリーケースを引きやすい速さに自然と合っている。

「今日からお世話になります」
「そんな固くならなくていいよ。寮のルール、めんどくさいのは点呼くらいだし」

 その言葉に、肩から少しだけ力が抜けた。

 転校は慣れている。最初に話しかけてくる相手が親切なだけとは限らないことも知っている。距離の詰め方を間違えると、その後が面倒になることも。
 でも、藤代先輩は押しつけがましくなかった。勝手に世話は焼くのに、間の取り方が心地いい。

 部屋の前まで来たところで、藤代先輩は持っていたボストンバッグを俺に返した。

「はい、到着」
「ありがとうございます」
「じゃ」

 そのまま踵を返しかけた背中に、思わず声をかける。

「入らないんですか」

 藤代先輩は振り向いて、少しだけ笑った。

「またあとで」

 それだけ言って、廊下の向こうへ歩いていく。

 同じ部屋なのに、なんで入らないんだろう。

 そう思ったけれど、声に出す前に、藤代先輩の姿はいつの間にか見えなくなっていた。