奉行所での惨劇から数日。
榊の屋敷の庭には、鋭い風の音と、それに応えるような硬質な打撃音が響き渡っていた。
「——そこっ!」
私は仕込み杖を抜き放ち、目の前を奔る「見えない旋風」に向かってなまくらの刃を振るう。
相手は、あの事件で保護されたカマイタチ三匹組のうちの二匹目。鋭い爪で「斬る」役目を担う、一番血気盛んな個体だ。
「キィッ!」
イタチが空中で身を翻し、私の頬をかすめるほどの速度で爪を振るう。
私は紙一重でそれをかわし、峰打ちでその胴を狙うが——相手は風そのもの。手応えはなく、代わりに背後から三匹目が「癒やし」の薬を霧のように吹きかけてきた。
「……ちょっと! 三匹目! まだ斬られてないわよ! 気が早すぎるわ!」
私は飛散する薬の匂いにむせながら、刀を仕込み杖、つまり鞘に収めた。
縁側では、榊が相変わらずキセルをくゆらせ、その光景を半分眠そうな目で見つめている。
「……物好きだな、お前さんも。妖と手合わせして剣の稽古なんて、江戸中探してもお前くらいだぞ」
「放っておいてください。あの玄安の最後を見て、思い知ったんです。……敵は、私の想像以上に狡猾で容赦がない。なまくら一本でも、もっと速く、もっと正確に動けなければ、次こそ誰かを守り損ねます」
「親父さんにちゃんとした刀をもらえよ」
「いえ、これは刀の問題ではなく、力量の問題です」
私は手ぬぐいで汗を拭いながら、榊をキッと睨みつけた。
「それで、榊さん。いつまでそうやって、ろくろ首と煙遊びに耽っているつもりですか? そろそろ黒鵺とやらをどう叩くか、策を聞かせてください」
榊は、天井から首を伸ばしてキセルの火で遊んでいたろくろ首を指先で追い払うと、ふぅ、と長く紫煙を吐き出した。
「……黒鵺か。前々から端々で名前は聞いていたが、あいつら、想像以上に根を張っていやがる。単なる小悪党の集まりじゃねえ。……正直、今の俺の手持ちの札だけじゃ、いささか分が悪いな」
「……妖屋のあなたが、打つ手なし、と言うのですか?」
意外な弱気に、私は不安を覚えた。この男、性格は最悪だが腕は確かだ。その彼が渋る相手とは、一体どれほどのものなのか。
「勘違いするな。真正面からぶつかるのが馬鹿馬鹿しいと言っているだけだ」
榊は立ち上がり、懐に銀のキセルを仕舞い込んだ。
「心当たりはある。町外れ……まあ、ここも十分町外れだが、ここからちょうど反対側。江戸で俺よりも妖の本質に詳しいやつがいる。まずはそこに行こう」
「……江戸に詳しい人? 妖屋って、そんなにたくさんあるんですか?」
「いや。妖屋なんていかがわしい商売はうちだけだ」
榊は悪びれもせずに言い切った。
「いかがわしいっていう自覚はあったんですね。……まあ、否定はしませんけど。それで、そのお知り合いというのは、どういう御仁なのですか?」
榊は、屋敷の外へと歩き出しながら、どこか遠くを見るような目で、その名前を口にした。
「——滝夜叉姫(たきやしゃひめ)だ」
「……はい?」
私は自分の耳を疑った。
滝夜叉姫。それは、平将門の娘が怨念によって化け物となり、巨大な骸骨を操って朝廷に反旗を翻したという、古き伝説の主ではないか。
「あの、榊さん。冗談を言っている余裕はないのですが……。まさか、本物の伝説の姫君に会いに行く、なんて言いませんよね?」
「冗談ならよかったんだがな。……あいつは今、江戸の吹き溜まりで徒党を組んでやがる。黒鵺が妖の力を盗んでるってんなら、その力の出所を知るには、死者の国の理を知るあいつに聞くのが一番早い」
榊の背中を追いかけながら、私は思わず天を仰いだ。
カマイタチにろくろ首、そして今度は伝説の亡霊。
私の周囲の日常は、どうやら完全に、江戸の闇と妖怪譚の深淵に飲み込まれてしまったらしい。
(……もう、本当にもったいない! 顔が極上でも、連れて行かれる先が地獄の門じゃ、釣り合いが取れない!)
心の中で叫びながら、私はなまくらの仕込み杖を握り直し、不敵に笑う妖屋の背中を追って走り出した。

