江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

「……あの。榊さん。ちょっとお伺いしてもよろしいでしょうか」

 玄安の屋敷の裏手、鬱蒼と茂った生垣の陰。私は、ひどく低い声で隣の男を睨みつけた。

 私の姿は、先ほどまでのいかにも武家の娘、から一転、ボロボロの古着を羽織り、顔から着物の裾まで泥と灰に塗れた、汚い小娘になり果てていた。しかも、髪の毛のあちこちに、糊で固めた米粒が大量にくっついているし、懐には……。

「美味しそうな格好って、これのことですか! 嫌な予感はしてましたが、綺麗な着物で色仕掛けでもするのかもと少しは覚悟を決めてたのに!」
「色仕掛け? お前みたいなお転婆娘が着飾ったところで、出てくるのは鼻の下を伸ばした馬鹿なジジイくらいだ。俺が呼び出したいのは、そんな安っぽい連中じゃねえ」

 榊は生垣の隙間から屋敷の中を窺いながら、悪びれもせずにキセルをふかした。

「ああ、最高に美味そうだぞ。……ネズミにとってな」
「……は?」
「いいか、獣の怪異は本能で餌を嗅ぎ分ける。特に腹を空かせたカマイタチの好物は、新鮮で脂の乗った鼠だ。……お前が全身に米粒をつけて江戸の路地裏を這いずり回ったおかげで、今、お前の着物の懐には、丸々太った生きた鼠が五匹も入ってるだろ。江戸で一番の特上ネズミ定食の匂いを発してるわけだ」
「……っ! 言わないでください、意識したら鳥肌が立ちます!」

 私は懐の中でモゾモゾと動く気配に耐えながら、自分の扱いの酷さに涙が出そうになった。

 囮になる、と二つ返事で引き受けたものの、まさか自分が歩く巨大ネズミ捕りにされるとは思わなかったのだ。

 顔は良くてもやることがえげつなすぎる。仏様、この男どうかしてます!

「文句は終わったか。見ろ、奇跡の名医先生のお出ましだ」

 榊の視線の先、屋敷の縁側に、豪奢な着物を羽織った玄安が現れた。彼は庭先に置かれた縁台に腰を下ろし、小判がぎっしり詰まった千両箱を撫で回してはいやらしい笑みを浮かべている。

「……随分と景気が良さそうですね。でも、肝心の三匹目のカマイタチは見当たりませんよ」
「屋敷の奥の蔵か、地下の座敷牢にでも隠してるんだろう。……さあ、手筈通りに行くぞ。お前は裏から回り込んで、そのネズミ定食でカマイタチをおびき出せ。俺は正面から先生の相手をする」
「……分かりました。でも、このお仕事が終わったら、新しい着物、絶対に弁償していただきますからね!」
「せいぜい西園寺の野郎に泣きついてみろ。罪人の首を持って行きゃ奮発してくれるだろう」
「はいはい」

 不愛想に返す私を置いて、榊は悠然と立ち上がり、屋敷の正面へと歩き出した。


「……夜分遅くに失礼するよ、名医の先生」

 玄安が小判を数える手を止め、驚いて顔を上げた。庭の飛び石を踏んで現れたのは、銀のキセルを月光に光らせた榊だ。

「な、何者だ! こんな時間にどこから入ってきた!」
「ただの妖屋さ。……先生のその景気の良さ、どうにも俺の鼻には血の匂いが混ざって感じられてな。少しばかり推理の答え合わせをしに来た」

 榊はキセルを縁側の柱にコツンと叩きつけ、玄安を見下ろした。

「町で続発してる血の出ない辻斬り。あれは、あんたがカマイタチの三匹目だけを囲ってるせいで起きた不具合だ。あんたは三匹目から治癒の唾液、つまり薬だな、を搾り取り、それを奇跡の秘薬として売り捌いている。……どうだ、見立てに間違いはねえか?」
玄安は一瞬顔を青ざめさせたが、すぐに腹の底から響くような高笑いを上げた。
「ハハハハ! 何を言い出すかと思えば、カマイタチだと? 妖などという子供騙しの迷信を信じておるのか、この阿呆め。私の薬は、長年の研究の末に生み出した秘伝の蘭学薬だ。証拠もないのに、奉行所でもない風来坊に言いがかりをつけられる筋合いはない!」
「……やっぱり、しらを切るか。だがな、先生」
「おーい! 榊さん! いたわよ! というか、勝手に出てきたわよ!」

 屋敷の裏手から、怒声と共に私が飛び出した。

 私の腕の中には、泥と鼠の匂いにまみれながらも必死にモゾモゾと動く、小さなイタチの怪異が抱えられていた。

「こいつ、蔵の隅の壺の中に押し込められてました! 私がネズミをチラつかせたら、ヨロヨロと這い出てきましたけど……見てください、これ!」

 私は、ぐったりと弱っているカマイタチの首元を榊に見せた。そこには、赤と黒の奇妙な墨で描かれた呪符のようなお札が、べったりと貼り付けられている。

「……おい、お前! それをどこから!」

 玄安の顔が、今度こそ恐怖に歪んだ。榊はカマイタチの首に貼られた札を一瞥し、チッと不機嫌に舌打ちをした。

「……なるほどな。やっぱり素人の医者風情が、妖を単独でどうこうできるはずがねえと思ってたんだ。おい先生、その『縛りの札』、誰から買った? 最近江戸の裏社会で流行ってる、『黒鵺(くろぬえ)』の一党か?」
「く、黒鵺……?」

 私が首を傾げると、榊は冷たい目で玄安を睨んだ。

「妖を狩り、呪具として悪用する方法を売り捌いてる、タチの悪い犯罪組織だ。……先生、あんたはそいつらからカマイタチの悪用方法を吹き込まれたか、それとも札だけ買って自分で思いついたか。……どっちにせよ、妖の理を身勝手に乱した罪は重えぞ」
「ええい、黙れ黙れ! 私は名医だ、多くの命を救っているのだ! お前らのような貧乏人が、私の崇高な行いを邪魔立てするなど許されん!」

 逆上した玄安は、懐からもう一枚、黒鵺から買ったと思われる別のお札を取り出した。

「燃えちまえ! 証拠の獣ごと灰にしてやる!」
「……チッ、発火札か!?」

 榊が慌ててキセルを構え、迎撃の妖術を編もうと何やら手を組んで呪文を唱え始めた。

 ——だが、お生憎様。妖術を使うまでもない。

 泥まみれの着物を翻し、私は地を蹴った。

 左手に握りしめていた仕込み杖の柄を、右の親指で弾き飛ばす。鞘走る音と共に、刃が月明かりを反射した。

 一閃。

 玄安が札をこちらへ投げようと腕を振りかぶった瞬間、私の刃は彼の手首の僅か数寸手前を正確に薙ぎ払った。

「ヒィッ」

 パサリ、と音を立てて、玄安の手にあった発火札が真っ二つに切れて地面に落ちる。刃は玄安の肉を一切傷つけることなく、彼の袖口と、悪意の込められた札だけを完璧に両断していた。

「……う、あ、ああ……」

 己の手が斬り飛ばされたと錯覚した玄安は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。

「……言ったはずです。なまくらではありませんと」

 私は静かに刃を鞘に収め、震える医者を見下ろした。背後から、パチパチという軽い拍手の音が聞こえる。

「……驚いたな。ただの木偶人形じゃねえとは思ってたが、まさか妖術の発動より早く、札だけを的確に斬り捨てるとは」

 榊はキセルを咥え直し、感心したように息を吐いた。

「見直したぜ。お前のその剣、なまくらにしちゃあ、いいキレだったな」
「……だから、なまくらではありません。西園寺家の剣術は、峰打ちでも人を制するようにできているんです。……って、聞いてます?」
「あぁ、分かってるよ。……よくやったな、雛」

 ——雛。

 初めて、彼が私をちゃんと名前で呼んだ気がした。

 泥まみれで、鼠の匂いが染み付いていて、最悪の気分だったはずなのに。その低く響く声で名前を呼ばれた瞬間、なぜか胸の奥が少しだけ、誇らしげに跳ねた。

「最初からそういう態度なら妖以外にも友達が増えますよ。本当に、もったいない人ですね」

 私は、照れ隠しのようにそっぽを向きながらそう言った。榊さんは不機嫌そうに、でもニヤリと笑いながらキセルをふかした。