潜り抜けた暖簾の先には、外の喧騒を忘れさせるほどの静けさと、鼻をつく濃密な薬草の香りが立ち込めていた。
天井まで届きそうな立派な薬箪笥が壁一面に並び、床は磨き抜かれて鏡のようだ。さすがは江戸でも名高い薬種問屋。だが、その整然とした空間の隅々には、どこか落ち着かない空気が漂っている――少なくとも、榊に「力」を分けてもらった今の私の目には、そう映った。
「おや、これはこれは。妖屋の旦那じゃありませんか」
奥から出てきたのは、白髪を綺麗に整えた、いかにも育ちの良さそうな店主だった。彼は榊の顔を見るなり、相好を崩して近寄ってくる。
「今日はまた、珍しいお連れ様で。西園寺様のお嬢さんとお見受けいたしますが……。さては旦那、また何か珍しい出物でも持ってきてくださったんですかな?」
「いや、今日は仕入れじゃねえ。ちょっとした調べ物だ、九兵衛さん」
榊は、店主の言葉をキセルの先でひらりと受け流した。店主は少し残念そうに肩を落としたが、すぐに声を潜めて榊の耳元に口を寄せる。
「左様ですか。いや、実は前にお願いしていた人魚の鱗や河童の背板の欠片なんぞが入れば、言い値で買わせていただこうと思っておったのですがね。……あれを粉にして煎じれば、大名の奥方様たちがこぞって金を積む秘薬になりますんで」
(に、人魚の鱗に河童の背板……!?)
私は思わず隣に立つ毒舌男の横顔を凝視した。この男、普段あんな廃屋でだらけているかと思えば、裏ではそんな物騒な「材料」を売り捌いているのか。
妖屋とはずいぶん怪しげな名前だとは思っていたが、要は怪異を解体して売り物にしているということではないか。
「……榊さん、あなた、まさか……」
「木偶人形、変な想像してんじゃねえ。あれは寺社奉行所が没収した禁制物を適切に処理してるだけだ。……それより九兵衛さん、一つ聞きたい」
榊は私の疑惑の視線を無視し、店主に鋭い問いを投げかけた。
「最近、この店に買い出しに来る医者の中で、極端に『にんにく』、『ニラ』、『唐辛子』を一切買わなくなった奴はいないか?」
九兵衛は一瞬、呆気に取られたように目をしばたたかせた。
「は……? にんにく、ですか? そりゃあまた、藪から棒な。……医者が薬種を買うなら分かりますが、何を買わなくなったか、と言われましても……」
不思議な質問に戸惑う九兵衛さん。私も首をかしげながら耳打ちする。
「榊さん、何を聞いてるんです?」
「カマイタチは匂いに敏感だ。三匹目を飼っているなら、そいつが嫌がるものを身辺から遠ざけるはずだ」
「なるほど」
九兵衛さんが帳面を片手に困り顔をしている。
「しかし旦那、うちの帳面は何を売ったかを記すものでしてね。何を買わなくなったかなんて、よっぽど馴染みの客でもなけりゃ分かりにくいですよ。少々お時間をいただけますかな、調べてみますんで」
店主が奥の仕事場へと戻り、分厚い大福帳を捲り始めた。店内の丁稚たちも忙しなく動き回り、私たち二人が店先に残される。
「……ねえ、本当にそんな消去法で見つかるんですか?」
「帳面だけを頼りにしてるほど、俺は間抜けじゃないよ」
榊はそう言うと、私の耳に顔を寄せた。
「おい、木偶。あそこの棚の陰、見てみろ」
指し示された先には、小さな子供がしゃがみ込んでいた。……いや、子供ではない。赤いちゃんちゃんこを着た、おかっぱ頭の「座敷童」だ。少し背格好は違うが、榊さんの屋敷にもいた。この店に居着いている守り神だろうか。だが、その表情はどこか寂しげで、力なく畳を指でなぞっている。
榊は懐から、紙に包まれた小さな塊を取り出した。包みを開くと、ふわりと甘酸っぱい香りが漂う。それは、艶やかに炊き上げられた「小豆飯(あずきめし)」の握りだった。
「……それ、どこで用意したんですか」
「さっきの廃屋に貧乏神がいただろ。あいつの分け前を掠めてきた」
「最低ですね。神様から食べ物を奪うなんて」
「あいつには後で酒を一升奢る。……ほら、食うか?」
榊が腰を屈め、座敷童の前に小豆飯を差し出す。座敷童の大きな目が輝き、おずおずと手を伸ばしてその握りを頬張った。
榊は、その子供の頭を乱暴に撫でながら、ごく自然な口調で問いかける。
「なあ、お前さんの主人の知り合いで、最近ここへ顔を見せなくなった医者はいないか? 薬を買いに来る頻度は減ったはずなのに、やけに身綺麗な格好で鼻を高くしてるような奴だ」
座敷童は小豆飯を飲み込むと、榊の耳元で何かを一生懸命に囁いた。その声は私には風の音のようにしか聞こえなかったが、榊の眉がぴくりと動く。
「……玄安(げんあん)、か。なるほどな」
座敷童は満足げに笑うと、煙のように棚の影へと消えていった。ちょうどその時、帳面を抱えた九兵衛が戻ってくる。
「お待たせしました、旦那。……不思議なことに、一人だけ心当たりがありましたよ。以前は強壮剤の材料としてにんにくやニラを大量に仕入れていたんですが、ここ一月ほど、めっきり足が遠のいた御仁がいます」
「名は?」
「本道(ほんどう)の医師、玄安様ですな。近頃は『奇跡の名医』なんて持て囃されて、高級な薬種をうちで買わずとも、自前の秘薬でどんな傷も治してしまうとかで……」
「……やっぱりか」
榊は九兵衛に短く礼を言い、私の腕を引いて店を出た。
外に出ると、江戸の町はすっかり夜の帳に包まれていた。私は歩き出した榊の背中に詰め寄る。
「榊さん! 今の、何が分かったんですか? その玄安というお医者様が犯人なんですか?」
「あぁ、間違いねえな。薬種問屋から薬を買わなくなった医者。それはつまり、薬を買う必要がなくなったってことだ。カマイタチの三匹目――生きた秘薬製造機を、手元に閉じ込めているからな」
榊は懐から、今朝の瓦版を引っ張り出した。提灯お化けが読んでいたやつか。
そこには確かに、最近江戸で名を上げている「奇跡の名医」の名として、玄安の二文字が躍っていた。
「朝の瓦版にあったろ。『奇跡の秘薬、しかし代金は高い』。……カマイタチの薬で傷を一瞬で治してみせることで金を巻き上げてるんだよ。……クソ、実に効率のいい、吐き気のする商売だな」
榊の声には、底知れない怒りと、それを冷徹に分析する元実務方としての軽蔑が混ざっていた。
「……許せません。そんなことのために、カマイタチをバラバラにして、町の人を傷つけて……。今すぐ奉行所に突き出しましょう!」
「証拠がねえよ。奴の屋敷に踏み込んだところで、三匹目を隠されたらおしまいだ。……だから、少しばかり荒っぽい準備が必要になる」
榊が立ち止まり、月明かりの下で私をじっと見つめた。その切れ長の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。
「……なまくらお嬢様。お前に頼みがある」
「……何ですか? そんな真面目な顔をして」
私は思わず仕込み杖を握る手に力を込めた。この性格破綻者の男が、こんな神妙な顔をする時は、ろくなことがない。
「お前自身を餌にして、あの医者の本性を引きずり出してやりたいんだが……。どうだ、武家の娘として、一肌脱ぐ度胸はあるか?」
「……もちろんです、その玄安という男を捕まえるために必要なら、なんでもやってやりますよ。西園寺家の娘が、おめおめと逃げ出したなんて言われたら、先祖に合わせる顔がありませんから!」
威勢よく言い放った私を見て、榊はキセルを口に咥え、満足げに目を細めた。
「いい返事だ。……じゃあ、まずは着物をどうにかしようか。囮になるなら『美味しそうな』格好をしてもらわねえとな」
「……美味しそうって、それ、絶対に損な役回りですよね?」
江戸の夜風が、私の抗議の声をどこまでも遠くへと運んでいった。
天井まで届きそうな立派な薬箪笥が壁一面に並び、床は磨き抜かれて鏡のようだ。さすがは江戸でも名高い薬種問屋。だが、その整然とした空間の隅々には、どこか落ち着かない空気が漂っている――少なくとも、榊に「力」を分けてもらった今の私の目には、そう映った。
「おや、これはこれは。妖屋の旦那じゃありませんか」
奥から出てきたのは、白髪を綺麗に整えた、いかにも育ちの良さそうな店主だった。彼は榊の顔を見るなり、相好を崩して近寄ってくる。
「今日はまた、珍しいお連れ様で。西園寺様のお嬢さんとお見受けいたしますが……。さては旦那、また何か珍しい出物でも持ってきてくださったんですかな?」
「いや、今日は仕入れじゃねえ。ちょっとした調べ物だ、九兵衛さん」
榊は、店主の言葉をキセルの先でひらりと受け流した。店主は少し残念そうに肩を落としたが、すぐに声を潜めて榊の耳元に口を寄せる。
「左様ですか。いや、実は前にお願いしていた人魚の鱗や河童の背板の欠片なんぞが入れば、言い値で買わせていただこうと思っておったのですがね。……あれを粉にして煎じれば、大名の奥方様たちがこぞって金を積む秘薬になりますんで」
(に、人魚の鱗に河童の背板……!?)
私は思わず隣に立つ毒舌男の横顔を凝視した。この男、普段あんな廃屋でだらけているかと思えば、裏ではそんな物騒な「材料」を売り捌いているのか。
妖屋とはずいぶん怪しげな名前だとは思っていたが、要は怪異を解体して売り物にしているということではないか。
「……榊さん、あなた、まさか……」
「木偶人形、変な想像してんじゃねえ。あれは寺社奉行所が没収した禁制物を適切に処理してるだけだ。……それより九兵衛さん、一つ聞きたい」
榊は私の疑惑の視線を無視し、店主に鋭い問いを投げかけた。
「最近、この店に買い出しに来る医者の中で、極端に『にんにく』、『ニラ』、『唐辛子』を一切買わなくなった奴はいないか?」
九兵衛は一瞬、呆気に取られたように目をしばたたかせた。
「は……? にんにく、ですか? そりゃあまた、藪から棒な。……医者が薬種を買うなら分かりますが、何を買わなくなったか、と言われましても……」
不思議な質問に戸惑う九兵衛さん。私も首をかしげながら耳打ちする。
「榊さん、何を聞いてるんです?」
「カマイタチは匂いに敏感だ。三匹目を飼っているなら、そいつが嫌がるものを身辺から遠ざけるはずだ」
「なるほど」
九兵衛さんが帳面を片手に困り顔をしている。
「しかし旦那、うちの帳面は何を売ったかを記すものでしてね。何を買わなくなったかなんて、よっぽど馴染みの客でもなけりゃ分かりにくいですよ。少々お時間をいただけますかな、調べてみますんで」
店主が奥の仕事場へと戻り、分厚い大福帳を捲り始めた。店内の丁稚たちも忙しなく動き回り、私たち二人が店先に残される。
「……ねえ、本当にそんな消去法で見つかるんですか?」
「帳面だけを頼りにしてるほど、俺は間抜けじゃないよ」
榊はそう言うと、私の耳に顔を寄せた。
「おい、木偶。あそこの棚の陰、見てみろ」
指し示された先には、小さな子供がしゃがみ込んでいた。……いや、子供ではない。赤いちゃんちゃんこを着た、おかっぱ頭の「座敷童」だ。少し背格好は違うが、榊さんの屋敷にもいた。この店に居着いている守り神だろうか。だが、その表情はどこか寂しげで、力なく畳を指でなぞっている。
榊は懐から、紙に包まれた小さな塊を取り出した。包みを開くと、ふわりと甘酸っぱい香りが漂う。それは、艶やかに炊き上げられた「小豆飯(あずきめし)」の握りだった。
「……それ、どこで用意したんですか」
「さっきの廃屋に貧乏神がいただろ。あいつの分け前を掠めてきた」
「最低ですね。神様から食べ物を奪うなんて」
「あいつには後で酒を一升奢る。……ほら、食うか?」
榊が腰を屈め、座敷童の前に小豆飯を差し出す。座敷童の大きな目が輝き、おずおずと手を伸ばしてその握りを頬張った。
榊は、その子供の頭を乱暴に撫でながら、ごく自然な口調で問いかける。
「なあ、お前さんの主人の知り合いで、最近ここへ顔を見せなくなった医者はいないか? 薬を買いに来る頻度は減ったはずなのに、やけに身綺麗な格好で鼻を高くしてるような奴だ」
座敷童は小豆飯を飲み込むと、榊の耳元で何かを一生懸命に囁いた。その声は私には風の音のようにしか聞こえなかったが、榊の眉がぴくりと動く。
「……玄安(げんあん)、か。なるほどな」
座敷童は満足げに笑うと、煙のように棚の影へと消えていった。ちょうどその時、帳面を抱えた九兵衛が戻ってくる。
「お待たせしました、旦那。……不思議なことに、一人だけ心当たりがありましたよ。以前は強壮剤の材料としてにんにくやニラを大量に仕入れていたんですが、ここ一月ほど、めっきり足が遠のいた御仁がいます」
「名は?」
「本道(ほんどう)の医師、玄安様ですな。近頃は『奇跡の名医』なんて持て囃されて、高級な薬種をうちで買わずとも、自前の秘薬でどんな傷も治してしまうとかで……」
「……やっぱりか」
榊は九兵衛に短く礼を言い、私の腕を引いて店を出た。
外に出ると、江戸の町はすっかり夜の帳に包まれていた。私は歩き出した榊の背中に詰め寄る。
「榊さん! 今の、何が分かったんですか? その玄安というお医者様が犯人なんですか?」
「あぁ、間違いねえな。薬種問屋から薬を買わなくなった医者。それはつまり、薬を買う必要がなくなったってことだ。カマイタチの三匹目――生きた秘薬製造機を、手元に閉じ込めているからな」
榊は懐から、今朝の瓦版を引っ張り出した。提灯お化けが読んでいたやつか。
そこには確かに、最近江戸で名を上げている「奇跡の名医」の名として、玄安の二文字が躍っていた。
「朝の瓦版にあったろ。『奇跡の秘薬、しかし代金は高い』。……カマイタチの薬で傷を一瞬で治してみせることで金を巻き上げてるんだよ。……クソ、実に効率のいい、吐き気のする商売だな」
榊の声には、底知れない怒りと、それを冷徹に分析する元実務方としての軽蔑が混ざっていた。
「……許せません。そんなことのために、カマイタチをバラバラにして、町の人を傷つけて……。今すぐ奉行所に突き出しましょう!」
「証拠がねえよ。奴の屋敷に踏み込んだところで、三匹目を隠されたらおしまいだ。……だから、少しばかり荒っぽい準備が必要になる」
榊が立ち止まり、月明かりの下で私をじっと見つめた。その切れ長の瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭く光る。
「……なまくらお嬢様。お前に頼みがある」
「……何ですか? そんな真面目な顔をして」
私は思わず仕込み杖を握る手に力を込めた。この性格破綻者の男が、こんな神妙な顔をする時は、ろくなことがない。
「お前自身を餌にして、あの医者の本性を引きずり出してやりたいんだが……。どうだ、武家の娘として、一肌脱ぐ度胸はあるか?」
「……もちろんです、その玄安という男を捕まえるために必要なら、なんでもやってやりますよ。西園寺家の娘が、おめおめと逃げ出したなんて言われたら、先祖に合わせる顔がありませんから!」
威勢よく言い放った私を見て、榊はキセルを口に咥え、満足げに目を細めた。
「いい返事だ。……じゃあ、まずは着物をどうにかしようか。囮になるなら『美味しそうな』格好をしてもらわねえとな」
「……美味しそうって、それ、絶対に損な役回りですよね?」
江戸の夜風が、私の抗議の声をどこまでも遠くへと運んでいった。

