バリバリと音を立てて切り裂かれた闇の向こうから、見慣れた現世の月光が見えた。
次の瞬間、私の身体は重力に引かれ、妖屋敷の畳の上へと力強く着地した。
「……はぁ、はぁ……っ」
手には神の牙——仕込み杖が、未だに微かな熱を帯びたまま握られている。内側から溢れ出ていた凄まじい妖力は、現世に戻った途端、波が引くように私の奥深くへと収まっていった。
ふと見ると、目の前の畳の上に、あの白い鬼の骨のサイコロが転がっている。主を失ったそれは、呪いの力を失いきれず、どす黒い怨念の霧をうっすらと立ち上らせていた。
「これ以上、誰かを巻き込ませるわけにはいかない……!」
私は残った力を振り絞り、自身の内にある微かな妖力を指先に集め、サイコロに向けて放った。透明な障壁のようなものがサイコロを包み込み、その禍々しい気配を完全に閉じ込める。
感覚で妖力を扱える。何かが私の中で変わって、いや、取り戻している?
「雛、壊さねえのか?」
低く、かすれた声が聞こえた。
振り返ると、そこには床に座り込み、壁に背を預けた榊がいた。全身傷だらけで、衣服はボロボロに引き裂かれ、痛々しい血が幾筋も流れている。
「黒鵺に近づく何かがあるかもしれません。壊さずに、このまま保存しておきます」
私がそう告げると、榊さんは「チッ、めんどくせえな……」と毒づきながらも、それ以上は何も言わずに目を閉じた。
一反木綿がトキちゃんを無事に長屋へ送り届けた後、私は座敷で榊さんの怪我の手当てをしていた。
渋る男を無理やり座らせ、薬を塗り、包帯をぐるぐると巻きつけていく。一瞬、一反木綿と包帯を間違えそうになったが、一反木綿の方から逃げてくれたので問題なかった。
「痛っ……おい木偶人形、もう少し加減しろ。お前、わざとやってんだろ」
「わざとなわけないでしょう。これでも心配しているんですから、大人しくしていてください」
文句ばかり言う口をへの字に曲げながらも、榊さんは大人しく治療を受け入れていた。
そして、私の手元をじっと見つめていた榊さんが、ふと呆れたような、あるいは感心したような溜息をついた。
「怪我一つねえ、か。あの仕込み杖一本だけで、よくあの地獄を戦い抜いたもんだな」
「本当に、良い刀を打ってもらいました。あの刃がなければ、私は今頃……」
「……なぁ、雛」
榊さんが、包帯まみれの顔を少しだけ傾け、大真面目な表情で私を見つめてきた。
「何ですか?」
「これ、もしかして……俺が必死こいて西園寺まで走って、妖ども集めて妖力送らなくても、お前一人でなんとかなったんじゃねえか? おかげで俺の身体はボロ雑巾なんだが」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが、男の目が悪戯っぽく細められるのを見て、それがいつもの悪態だと気づく。
「そんなわけないでしょ! あの時、榊さんたちの力が来なかったら、私は今頃鬼の胃袋で完全に消化されていました! この大恩知らず!」
「はいはい、大声出すな。頭に響く」
私が怒ると、榊さんは嬉しそうに鼻で笑い、いつものようにキセルに手を伸ばそうとして、傷が痛んだのか「いって……」と顔をしかめた。
「——そのくらいにしておけ、榊」
その時、座敷の障子が静かに開いた。
入ってきたのは、私の父——西園寺公成だった。
その腕には、先ほど榊が私の家から持ち出してきたという、古い雛人形が大切そうに抱えられていた。
だが、その美しい人形は、先ほどの凄まじい妖力の奔流に耐え切れなかったのだろう。衣服は焦げ付き、顔や身体には無数の痛々しいひび割れが走り、今にも崩れ落ちそうなほどに壊れてしまっていた。
父の顔は、いつになく真剣で、長年守り続けてきた秘密を明かすかのように、どこか哀しげだった。
父は、壊れてしまった雛人形を私たちの間の畳にそっと置くと、私と榊さんの正面に静かに腰を下ろした。
月光が照らす座敷の中で、三人の影が長く伸びる。
「雛。お前も、自分の内にある力に触れて、薄々気づいているのだろう。お前の正体は雛人形だったんだ」
父の静かな声に、私は喉を詰まらせながらも、小さく頷いた。
あの鬼の空間で覚醒した、奇妙な感覚。私は人間ではない。誰かの災厄を代わりに引き受けるために作られた、雛人形の付喪神——。
「お前が我が家に来たのは、十三年前のことだ」
父は遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「当時、我が家にはお凜という、私の妻……お前にとっての母親がいた。お凜が西園寺の家に嫁いでくる際、その嫁入り道具の中に、一つの古い雛人形があったんだ。それは長い年月を経て、心を持った付喪神となっていた」
父の切ない視線が、ひび割れた雛人形へと注がれる。
「普通なら、そんな不気味なものは蔵に仕舞い込んでおくのだろう。だが、お凜は違った。『蔵に入れっぱなしでは可哀想だから』と、その人形をいつも自室の一番良い場所に飾り、毎日のように話しかけ、我が子のように大切に愛でていたんだ。私たちに子供ができなかったのも理由だろうが」
その温かな光景が、私の胸の奥に、なぜか懐かしい温もりとなって広がっていく。
「だが……ある夜、すべてが一変した。我が家に、悪名高い黒鵺の刺客が忍び込んだんだ。奴らの目的は、高い妖力を秘めたその付喪神……つまり、雛人形を盗み出すことだった」
父の拳が、きつく握りしめられる。
「異変に気づいたお凜は、必死に抵抗した。武家の妻として、そして何より、自分が心から愛したその人形を守るために……。だが、お凜は刺客の刃に倒れ、命を落としてしまった。それでも、お凜は息絶えるその瞬間まで、人形だけは腕の中に強く抱きしめ、決して奴らに渡さなかったんだ」
「母様が……」
私に母親の記憶はない。話を聞いたこともない。初めて聞く話に、私の視界が、不意に涙で潤んでいく。
「翌朝、私が駆けつけたとき、そこには冷たくなったお凜の骸と……その腕の中で、大声で泣き声を上げている、一人の人間の赤ん坊がいた。それが、お前だ、雛」
私は息を呑んだ。赤ん坊。人形ではなく、人間の子供。
「お凜の『この子を守りたい』という強い願いか、あるいは、お凜がお前自身の身代わりとして動いたことが、身代わり雛を目覚めさせたか……それは今でも分からない。動転した私は、当時、同じ職場で怪異の件に誰よりも詳しかった榊に相談したんだ」
語り手を引き継ぐように、榊さんが包帯の間から、静かな、しかし確かな光を宿した瞳を私に向けた。
「あぁ、当時の俺は、まだお上の怪異を専門に扱う宮仕えの身だったからな。公成から話を聞いて、その赤ん坊を見た瞬間、俺にはすべてが分かった。お前がただの人形でも、ただの人間でもねえってことがな」
榊さんはキセルを持たない方の手で、自身の膝を軽く叩いた。
「だから俺は、公成に言ったんだ。『この子は西園寺雛として、普通の人間として育てろ』ってな。そして、お前の母の命を奪い、お前をバケモノの道具にしようとした黒鵺の連中が、俺はどうしても許せなかった。だから、組織のしがらみが多い宮仕えを辞めて、野に下り、俺自身のやり方で黒鵺を追うことに決めたのさ」
そこまですべてを話し終えると、座敷には再び、しんみりとした静寂が訪れた。
私が「木偶人形」と呼ばれていたのは、悪口ではなく、剥き出しの事実だったというわけだ。
「……お父様、榊さん。お話は分かりました。でも……」
私は畳の上の、無残に壊れてしまった雛人形を見つめた。私の本体。私の魂が宿っていた、たった一つの器。
「私の本体が、こんな風に壊れてしまったなら……私は、これからどうなってしまうのですか? 私は、消えてしまうの?」
不安が胸をよぎり、声が微かに震える。すると、包帯まみれの榊さんが、ふっと鼻で笑って私の頭を軽く小突いた。
「安心しろ、木偶人形。テメエは消えやしねえよ」
「え……?」
「あの時、俺の妖力とお前自身の身代わりの力を無理やり人形に通したせいで、元の人形の器は耐え切れずに壊れちまった。……だが、今もお前はここにいて、俺たちの昔話を聞いてる。なぜか分かるか?」
榊さんは包帯の巻かれた掌を私に見せ、それから自分の胸元を指差した。
「あの瞬間、お前の魂が現世に存在するための依り代が、その人形から俺へと移ったんだよ。俺の妖力を、お前の本質に直接ぶち込んでやったからな。……つまり、今のテメエの新しい依り代は、この俺そのものだ」
「榊さんが、私の……依り代?」
驚きのあまり、言葉を失う私に、榊さんは不敵に笑ってみせる。
「そうだ。俺が死ねばお前も消えるし、お前が消えれば俺の命もタダじゃ済まねえ。文字通りの一蓮托生だ。勝手に消えることも、勝手に死ぬことも許さねえからな」
「……っ」
私のために、この人はそこまでのリスクを背負ってくれたのだ。いつも口を開けば毒ばかり吐くくせに、どこまでも優しく、そして途方もなく重い覚悟を、彼はその身体に宿している。
「雛」
父が、私の顔を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「お前は、お凜に本当によく似ている。その目元も、不器用なほど真っ直ぐな気性もな。お凜がお前を守ったように、お前もまた、その手で多くの人を守り、戦い抜いた。私は、お前を西園寺の娘として、心から誇りに思う」
「……っ、お父様……!」
堪えきれず、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。けれど、その涙は決して悲しいだけのものではなかった。自分の存在が、どれほど大きな愛によって守られてきたのかを知った、温かな涙だった。
私は袖で乱暴に涙を拭うと、腰にある仕込み杖を、きゅっと強く握りしめた。私の大切な母の命を奪い、江戸の平明を脅かす、黒鵺という絶対の悪。
私は榊さんの方へと向き直り、その切れ長の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「榊さん」
「あ?」
「私は、ただ守られるだけの木偶人形のままでは終わりません。私の身体が、誰かの災厄を引き受けるためにあるのなら……私はこの神の牙を使って、江戸の涙を、黒鵺の悪意を、すべて断ち切ってみせます」
私の決意の言葉に、榊さんは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐにいつもの、不敵で、どこか嬉しそうな、ドブ川のような悪い笑みを浮かべた。
「へぇ……言うようになったじゃねえか、雛」
榊は私の名を真っ直ぐに呼んでくれた。
「足を引っ張るんじゃねえぞ。これからは、死線の潜り方も少しはマシに教えてやるからな」
「望むところです!」
現世の月光が、私たちの進むべき暗い道のりを、白々と、しかし強く照らし出していた。私はもう、迷わない。この人と共に、江戸の闇の奥深くに潜む、黒鵺の尾を必ずや掴み取ってみせる。
次の瞬間、私の身体は重力に引かれ、妖屋敷の畳の上へと力強く着地した。
「……はぁ、はぁ……っ」
手には神の牙——仕込み杖が、未だに微かな熱を帯びたまま握られている。内側から溢れ出ていた凄まじい妖力は、現世に戻った途端、波が引くように私の奥深くへと収まっていった。
ふと見ると、目の前の畳の上に、あの白い鬼の骨のサイコロが転がっている。主を失ったそれは、呪いの力を失いきれず、どす黒い怨念の霧をうっすらと立ち上らせていた。
「これ以上、誰かを巻き込ませるわけにはいかない……!」
私は残った力を振り絞り、自身の内にある微かな妖力を指先に集め、サイコロに向けて放った。透明な障壁のようなものがサイコロを包み込み、その禍々しい気配を完全に閉じ込める。
感覚で妖力を扱える。何かが私の中で変わって、いや、取り戻している?
「雛、壊さねえのか?」
低く、かすれた声が聞こえた。
振り返ると、そこには床に座り込み、壁に背を預けた榊がいた。全身傷だらけで、衣服はボロボロに引き裂かれ、痛々しい血が幾筋も流れている。
「黒鵺に近づく何かがあるかもしれません。壊さずに、このまま保存しておきます」
私がそう告げると、榊さんは「チッ、めんどくせえな……」と毒づきながらも、それ以上は何も言わずに目を閉じた。
一反木綿がトキちゃんを無事に長屋へ送り届けた後、私は座敷で榊さんの怪我の手当てをしていた。
渋る男を無理やり座らせ、薬を塗り、包帯をぐるぐると巻きつけていく。一瞬、一反木綿と包帯を間違えそうになったが、一反木綿の方から逃げてくれたので問題なかった。
「痛っ……おい木偶人形、もう少し加減しろ。お前、わざとやってんだろ」
「わざとなわけないでしょう。これでも心配しているんですから、大人しくしていてください」
文句ばかり言う口をへの字に曲げながらも、榊さんは大人しく治療を受け入れていた。
そして、私の手元をじっと見つめていた榊さんが、ふと呆れたような、あるいは感心したような溜息をついた。
「怪我一つねえ、か。あの仕込み杖一本だけで、よくあの地獄を戦い抜いたもんだな」
「本当に、良い刀を打ってもらいました。あの刃がなければ、私は今頃……」
「……なぁ、雛」
榊さんが、包帯まみれの顔を少しだけ傾け、大真面目な表情で私を見つめてきた。
「何ですか?」
「これ、もしかして……俺が必死こいて西園寺まで走って、妖ども集めて妖力送らなくても、お前一人でなんとかなったんじゃねえか? おかげで俺の身体はボロ雑巾なんだが」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。だが、男の目が悪戯っぽく細められるのを見て、それがいつもの悪態だと気づく。
「そんなわけないでしょ! あの時、榊さんたちの力が来なかったら、私は今頃鬼の胃袋で完全に消化されていました! この大恩知らず!」
「はいはい、大声出すな。頭に響く」
私が怒ると、榊さんは嬉しそうに鼻で笑い、いつものようにキセルに手を伸ばそうとして、傷が痛んだのか「いって……」と顔をしかめた。
「——そのくらいにしておけ、榊」
その時、座敷の障子が静かに開いた。
入ってきたのは、私の父——西園寺公成だった。
その腕には、先ほど榊が私の家から持ち出してきたという、古い雛人形が大切そうに抱えられていた。
だが、その美しい人形は、先ほどの凄まじい妖力の奔流に耐え切れなかったのだろう。衣服は焦げ付き、顔や身体には無数の痛々しいひび割れが走り、今にも崩れ落ちそうなほどに壊れてしまっていた。
父の顔は、いつになく真剣で、長年守り続けてきた秘密を明かすかのように、どこか哀しげだった。
父は、壊れてしまった雛人形を私たちの間の畳にそっと置くと、私と榊さんの正面に静かに腰を下ろした。
月光が照らす座敷の中で、三人の影が長く伸びる。
「雛。お前も、自分の内にある力に触れて、薄々気づいているのだろう。お前の正体は雛人形だったんだ」
父の静かな声に、私は喉を詰まらせながらも、小さく頷いた。
あの鬼の空間で覚醒した、奇妙な感覚。私は人間ではない。誰かの災厄を代わりに引き受けるために作られた、雛人形の付喪神——。
「お前が我が家に来たのは、十三年前のことだ」
父は遠い目をして、ゆっくりと語り始めた。
「当時、我が家にはお凜という、私の妻……お前にとっての母親がいた。お凜が西園寺の家に嫁いでくる際、その嫁入り道具の中に、一つの古い雛人形があったんだ。それは長い年月を経て、心を持った付喪神となっていた」
父の切ない視線が、ひび割れた雛人形へと注がれる。
「普通なら、そんな不気味なものは蔵に仕舞い込んでおくのだろう。だが、お凜は違った。『蔵に入れっぱなしでは可哀想だから』と、その人形をいつも自室の一番良い場所に飾り、毎日のように話しかけ、我が子のように大切に愛でていたんだ。私たちに子供ができなかったのも理由だろうが」
その温かな光景が、私の胸の奥に、なぜか懐かしい温もりとなって広がっていく。
「だが……ある夜、すべてが一変した。我が家に、悪名高い黒鵺の刺客が忍び込んだんだ。奴らの目的は、高い妖力を秘めたその付喪神……つまり、雛人形を盗み出すことだった」
父の拳が、きつく握りしめられる。
「異変に気づいたお凜は、必死に抵抗した。武家の妻として、そして何より、自分が心から愛したその人形を守るために……。だが、お凜は刺客の刃に倒れ、命を落としてしまった。それでも、お凜は息絶えるその瞬間まで、人形だけは腕の中に強く抱きしめ、決して奴らに渡さなかったんだ」
「母様が……」
私に母親の記憶はない。話を聞いたこともない。初めて聞く話に、私の視界が、不意に涙で潤んでいく。
「翌朝、私が駆けつけたとき、そこには冷たくなったお凜の骸と……その腕の中で、大声で泣き声を上げている、一人の人間の赤ん坊がいた。それが、お前だ、雛」
私は息を呑んだ。赤ん坊。人形ではなく、人間の子供。
「お凜の『この子を守りたい』という強い願いか、あるいは、お凜がお前自身の身代わりとして動いたことが、身代わり雛を目覚めさせたか……それは今でも分からない。動転した私は、当時、同じ職場で怪異の件に誰よりも詳しかった榊に相談したんだ」
語り手を引き継ぐように、榊さんが包帯の間から、静かな、しかし確かな光を宿した瞳を私に向けた。
「あぁ、当時の俺は、まだお上の怪異を専門に扱う宮仕えの身だったからな。公成から話を聞いて、その赤ん坊を見た瞬間、俺にはすべてが分かった。お前がただの人形でも、ただの人間でもねえってことがな」
榊さんはキセルを持たない方の手で、自身の膝を軽く叩いた。
「だから俺は、公成に言ったんだ。『この子は西園寺雛として、普通の人間として育てろ』ってな。そして、お前の母の命を奪い、お前をバケモノの道具にしようとした黒鵺の連中が、俺はどうしても許せなかった。だから、組織のしがらみが多い宮仕えを辞めて、野に下り、俺自身のやり方で黒鵺を追うことに決めたのさ」
そこまですべてを話し終えると、座敷には再び、しんみりとした静寂が訪れた。
私が「木偶人形」と呼ばれていたのは、悪口ではなく、剥き出しの事実だったというわけだ。
「……お父様、榊さん。お話は分かりました。でも……」
私は畳の上の、無残に壊れてしまった雛人形を見つめた。私の本体。私の魂が宿っていた、たった一つの器。
「私の本体が、こんな風に壊れてしまったなら……私は、これからどうなってしまうのですか? 私は、消えてしまうの?」
不安が胸をよぎり、声が微かに震える。すると、包帯まみれの榊さんが、ふっと鼻で笑って私の頭を軽く小突いた。
「安心しろ、木偶人形。テメエは消えやしねえよ」
「え……?」
「あの時、俺の妖力とお前自身の身代わりの力を無理やり人形に通したせいで、元の人形の器は耐え切れずに壊れちまった。……だが、今もお前はここにいて、俺たちの昔話を聞いてる。なぜか分かるか?」
榊さんは包帯の巻かれた掌を私に見せ、それから自分の胸元を指差した。
「あの瞬間、お前の魂が現世に存在するための依り代が、その人形から俺へと移ったんだよ。俺の妖力を、お前の本質に直接ぶち込んでやったからな。……つまり、今のテメエの新しい依り代は、この俺そのものだ」
「榊さんが、私の……依り代?」
驚きのあまり、言葉を失う私に、榊さんは不敵に笑ってみせる。
「そうだ。俺が死ねばお前も消えるし、お前が消えれば俺の命もタダじゃ済まねえ。文字通りの一蓮托生だ。勝手に消えることも、勝手に死ぬことも許さねえからな」
「……っ」
私のために、この人はそこまでのリスクを背負ってくれたのだ。いつも口を開けば毒ばかり吐くくせに、どこまでも優しく、そして途方もなく重い覚悟を、彼はその身体に宿している。
「雛」
父が、私の顔を真っ直ぐに見つめ、優しく微笑んだ。
「お前は、お凜に本当によく似ている。その目元も、不器用なほど真っ直ぐな気性もな。お凜がお前を守ったように、お前もまた、その手で多くの人を守り、戦い抜いた。私は、お前を西園寺の娘として、心から誇りに思う」
「……っ、お父様……!」
堪えきれず、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。けれど、その涙は決して悲しいだけのものではなかった。自分の存在が、どれほど大きな愛によって守られてきたのかを知った、温かな涙だった。
私は袖で乱暴に涙を拭うと、腰にある仕込み杖を、きゅっと強く握りしめた。私の大切な母の命を奪い、江戸の平明を脅かす、黒鵺という絶対の悪。
私は榊さんの方へと向き直り、その切れ長の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「榊さん」
「あ?」
「私は、ただ守られるだけの木偶人形のままでは終わりません。私の身体が、誰かの災厄を引き受けるためにあるのなら……私はこの神の牙を使って、江戸の涙を、黒鵺の悪意を、すべて断ち切ってみせます」
私の決意の言葉に、榊さんは一瞬だけ驚いたように目を見張ったが、すぐにいつもの、不敵で、どこか嬉しそうな、ドブ川のような悪い笑みを浮かべた。
「へぇ……言うようになったじゃねえか、雛」
榊は私の名を真っ直ぐに呼んでくれた。
「足を引っ張るんじゃねえぞ。これからは、死線の潜り方も少しはマシに教えてやるからな」
「望むところです!」
現世の月光が、私たちの進むべき暗い道のりを、白々と、しかし強く照らし出していた。私はもう、迷わない。この人と共に、江戸の闇の奥深くに潜む、黒鵺の尾を必ずや掴み取ってみせる。

