激しい突風と共に座敷へ転がり出た榊は、全身傷だらけの凄惨な格好だった。衣服はあちこちが引き裂かれ、肌には幾筋もの生々しい血が滲んでいる。
だが、榊は己の痛みに眉一つ動かさず、鋭い視線を室内へと走らせた。
そこにあったのは、すごろくの盤面と、床の上で静かに眠るトキの姿。そして、さっきまでそこにあったはずの、やかましい気配が完全に消え失せていた。
「……あの馬鹿、もしかして俺の身代わりになりやがったか? 力を使ったな!」
すべてを察した榊は、天井裏へ向けて鋭く口笛を吹いた。即座に姿を現した一反木綿にトキを託し、長屋の家まで送り届けるよう命じる。
白い布の妖が少女を連れて夕空へと消えていくのを見届けるや否や、榊は泥を蹴って走り出した。向かうは西園寺の屋敷だった。
門を蹴破るような勢いで敷居を跨ぎ、奥にいる男を呼び出す。
「公成(きみなり)! どこだ、公成!」
奥から慌てて出てきた西園寺の旦那・公成は、榊の傷だらけの姿に目を見張ったが、榊が放った一言にその表情を一変させた。
「緊急事態だ。雛が妖力に目覚めちまった。……いや、半分は俺のせいだが、とにかく本体を寄越せ。あいつの命が危ねえ」
公成は慌てふためき、同時に激しい怒りを露わにして榊に詰め寄った。
「何だと……! だから本当はお前に会わせたくなかったんだ! 雛は人間として静かに暮らさせると、あのとき約束したはずだろう!」
「がたがた抜かすな! 最初にあいつを俺に紹介したのはどこの誰だ! お前だろ!」
「そうだが! だが、こんな危険な目に遭わせるために引き受けたわけではない!」
激しい怒号を交わしながらも、公成は迷うことなく奥の開かずの間へと走り、埃を被った古い桐箱から、一体の美しい雛人形を引っ張り出してきた。それこそが、雛の本当の身体、魂の依り代だった。
人形をひったくるように抱えた榊は、息を切らせて自身の妖屋敷へと引き返した。座敷の真ん中に雛人形を据え置くと、榊は自らの手のひらの傷から血を滴らせ、人形へと両手をかざした。その掌から、禍々しいほどの強大な呪力が人形へと注ぎ込まれ始める。
「おい、お前ら! 突っ立ってんじゃねえ、力を貸せ! あのなまくらが鬼の腹の中で骨になっちまうぞ!」
榊の怒号に応え、屋敷の隅々に隠れていた妖たちが一斉に姿を現した。
小豆洗いや座敷童、天井から首を伸ばしたろくろ首までが、一丸となって雛人形の周りを取り囲む。彼らの純粋な妖力が、榊の呪力と混ざり合い、媒介である雛人形を通じて、暗闇の向こう側へと一注ぎにされていった。
肺の空気をすべて吐き出すような、強烈な衝撃。気がついたとき、私は天地の境界すら定かではない、果てしない闇の空間にいた。
足元は底なしの泥のようでありながら、かろうじて踏み止まることができる。ここが、トキちゃんの言っていたお化けの世界、鬼の胃袋の中なのだろう。
「ギシャァァァァ!」
咆哮と共に、闇の奥から異形の化け物どもが津波のように押し寄せてくる。私は躊躇なく、手にした仕込み杖を引き抜いた。天津麻羅が打った、神の牙と称される白刃が、暗闇の中で鋭い閃光を放つ。
「舐めるんじゃないわよ……っ!」
襲いかかる鬼の剛腕を、武家としての本能のままに一刀両断にする。泥のような地面を力強く蹴り、身体を反転させながら、次々と群がる異形の胴体を切り裂いていった。
なまくらではない。今の私の手元には、どんな硬い骨をも断ち切る神の刃があるのだ。
しかし、敵の数は文字通り無数だった。斬っても斬っても、闇の奥から新たな異形が這い出てくる。容赦のない波状攻撃に、さすがの私も息が上がり、剣を構え直したその時だった。
「雛ぁ!」
どこからか、榊や妖たちの声とともに、私の内側、魂の根源から強烈な熱量が脈打ち始めた。
現世の境界を越えて、あのキセル臭い男の怒りを孕んだ強大な呪力が流れ込んでくるのがはっきりと分かった。それだけではない。屋敷にいる小さな妖たちの、私を案じる温かな気配までが、ひとつの大きなうねりとなって私を包み込んでいく。
(あぁ、そうだったのね。私は……)
その瞬間にすべてを理解した。私がいつもあの人に「木偶人形」と呼ばれていた理由を。私は最初から人間ではなく、誰かの災厄を代わりに引き受けるために作られた、「身代わり雛」の付喪神だったのだ。
あの人は最初から私の正体を知っていて、それでも私を普通の女の子として、人間として生きる道を守ろうとしてくれていた。
「本当に……どこまでも不器用で、お節介な人……っ!」
限界まで高まった現世からの力が、私の四肢を駆け巡り、仕込み杖の白刃へと収束していく。刃は眩いばかりの紅蓮の炎と、激しい雷光のような輝きを放ち始めた。
目の前で十数匹の鬼が巨大なひとつの異形へと融合し、私を圧殺せんと巨大な腕を振り下ろしてくる。
しかし、私の心にはもう、一ミリの恐怖もなかった。
「私ならできる。私は西園寺家の娘……そして、あの人の相棒の、雛よ!」
全身の力をその一太刀に込め、上方へと向かって一気に振り抜く。
空間を揺るがす咆哮と共に放たれた強力な一撃は、眼前の巨大な異形を縦一文字に両断し、さらにはその背後にある、鬼の世界の「天」そのものを紙のように豪快に切り裂いた。
裂け目の向こうから、見慣れた現世の月光が、眩しく差し込んできた。
だが、榊は己の痛みに眉一つ動かさず、鋭い視線を室内へと走らせた。
そこにあったのは、すごろくの盤面と、床の上で静かに眠るトキの姿。そして、さっきまでそこにあったはずの、やかましい気配が完全に消え失せていた。
「……あの馬鹿、もしかして俺の身代わりになりやがったか? 力を使ったな!」
すべてを察した榊は、天井裏へ向けて鋭く口笛を吹いた。即座に姿を現した一反木綿にトキを託し、長屋の家まで送り届けるよう命じる。
白い布の妖が少女を連れて夕空へと消えていくのを見届けるや否や、榊は泥を蹴って走り出した。向かうは西園寺の屋敷だった。
門を蹴破るような勢いで敷居を跨ぎ、奥にいる男を呼び出す。
「公成(きみなり)! どこだ、公成!」
奥から慌てて出てきた西園寺の旦那・公成は、榊の傷だらけの姿に目を見張ったが、榊が放った一言にその表情を一変させた。
「緊急事態だ。雛が妖力に目覚めちまった。……いや、半分は俺のせいだが、とにかく本体を寄越せ。あいつの命が危ねえ」
公成は慌てふためき、同時に激しい怒りを露わにして榊に詰め寄った。
「何だと……! だから本当はお前に会わせたくなかったんだ! 雛は人間として静かに暮らさせると、あのとき約束したはずだろう!」
「がたがた抜かすな! 最初にあいつを俺に紹介したのはどこの誰だ! お前だろ!」
「そうだが! だが、こんな危険な目に遭わせるために引き受けたわけではない!」
激しい怒号を交わしながらも、公成は迷うことなく奥の開かずの間へと走り、埃を被った古い桐箱から、一体の美しい雛人形を引っ張り出してきた。それこそが、雛の本当の身体、魂の依り代だった。
人形をひったくるように抱えた榊は、息を切らせて自身の妖屋敷へと引き返した。座敷の真ん中に雛人形を据え置くと、榊は自らの手のひらの傷から血を滴らせ、人形へと両手をかざした。その掌から、禍々しいほどの強大な呪力が人形へと注ぎ込まれ始める。
「おい、お前ら! 突っ立ってんじゃねえ、力を貸せ! あのなまくらが鬼の腹の中で骨になっちまうぞ!」
榊の怒号に応え、屋敷の隅々に隠れていた妖たちが一斉に姿を現した。
小豆洗いや座敷童、天井から首を伸ばしたろくろ首までが、一丸となって雛人形の周りを取り囲む。彼らの純粋な妖力が、榊の呪力と混ざり合い、媒介である雛人形を通じて、暗闇の向こう側へと一注ぎにされていった。
肺の空気をすべて吐き出すような、強烈な衝撃。気がついたとき、私は天地の境界すら定かではない、果てしない闇の空間にいた。
足元は底なしの泥のようでありながら、かろうじて踏み止まることができる。ここが、トキちゃんの言っていたお化けの世界、鬼の胃袋の中なのだろう。
「ギシャァァァァ!」
咆哮と共に、闇の奥から異形の化け物どもが津波のように押し寄せてくる。私は躊躇なく、手にした仕込み杖を引き抜いた。天津麻羅が打った、神の牙と称される白刃が、暗闇の中で鋭い閃光を放つ。
「舐めるんじゃないわよ……っ!」
襲いかかる鬼の剛腕を、武家としての本能のままに一刀両断にする。泥のような地面を力強く蹴り、身体を反転させながら、次々と群がる異形の胴体を切り裂いていった。
なまくらではない。今の私の手元には、どんな硬い骨をも断ち切る神の刃があるのだ。
しかし、敵の数は文字通り無数だった。斬っても斬っても、闇の奥から新たな異形が這い出てくる。容赦のない波状攻撃に、さすがの私も息が上がり、剣を構え直したその時だった。
「雛ぁ!」
どこからか、榊や妖たちの声とともに、私の内側、魂の根源から強烈な熱量が脈打ち始めた。
現世の境界を越えて、あのキセル臭い男の怒りを孕んだ強大な呪力が流れ込んでくるのがはっきりと分かった。それだけではない。屋敷にいる小さな妖たちの、私を案じる温かな気配までが、ひとつの大きなうねりとなって私を包み込んでいく。
(あぁ、そうだったのね。私は……)
その瞬間にすべてを理解した。私がいつもあの人に「木偶人形」と呼ばれていた理由を。私は最初から人間ではなく、誰かの災厄を代わりに引き受けるために作られた、「身代わり雛」の付喪神だったのだ。
あの人は最初から私の正体を知っていて、それでも私を普通の女の子として、人間として生きる道を守ろうとしてくれていた。
「本当に……どこまでも不器用で、お節介な人……っ!」
限界まで高まった現世からの力が、私の四肢を駆け巡り、仕込み杖の白刃へと収束していく。刃は眩いばかりの紅蓮の炎と、激しい雷光のような輝きを放ち始めた。
目の前で十数匹の鬼が巨大なひとつの異形へと融合し、私を圧殺せんと巨大な腕を振り下ろしてくる。
しかし、私の心にはもう、一ミリの恐怖もなかった。
「私ならできる。私は西園寺家の娘……そして、あの人の相棒の、雛よ!」
全身の力をその一太刀に込め、上方へと向かって一気に振り抜く。
空間を揺るがす咆哮と共に放たれた強力な一撃は、眼前の巨大な異形を縦一文字に両断し、さらにはその背後にある、鬼の世界の「天」そのものを紙のように豪快に切り裂いた。
裂け目の向こうから、見慣れた現世の月光が、眩しく差し込んできた。

