畳の上に広げた古びたすごろくの紙。私は固榻を呑みながら、白い鬼の骨のサイコロをそっと転がした。
コロン、と頼りない音を立てて止まった目は「三」。私のコマが進んだのは、「おこづかいをもらう」と書かれた可愛らしいマスだった。
「あっ」
チャリン、と軽い金属音がして、天井の暗闇から本物のお金が数枚、私の目の前にパラパラと降ってきた。畳の上で揺れる本物のお金に、私は目を丸くする。本当に書かれた内容がそのまま現実に起きるのだ。
「俺から言い出したことだが、お前よくそんなに勢いよく始められるな。何かあったらどうするんだ」
「四の五の言ってる暇はありません!」
「……たくましいね」
榊が畳から拾い上げたサイコロを振る。出た目は「六」。そこにはもう一マス進む、とあり、都合七つ進んだ。
次の番、私が恐る恐る振ったサイコロは「五」を示した。止まったのは「お餅が食べられる」というマス。
すると、どこからともなく、つやつやとした出来立ての白いお餅が、小さなお皿に載ってぽつんと現れた。香ばしいお米の匂いが鼻をくすぐる。
「……あの、榊さん。これ、食べても大丈夫でしょうか」
「さあな。鬼の毒でも入ってるかもよ」
「でも、もったいないですし……」
毒という言葉に一瞬躊躇したが、体と心の疲れから胃袋はすでに次の燃料を求めていた。意を決して口に運ぶと、お餅は驚くほど柔らかく、ほんのりと甘い。
「おいしいです!」
「おいおい……。腹が減っては戦ができぬ、とでも言いたいわけか」
「はい! 戦う前には体力を蓄えておくのが武士のたしなみですから!」
呆れ果てた目で私を見る榊を無視して、私はお餅をしっかりと咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。
続いて榊の番だ。男はめんどくさそうにサイコロを指先で弄ぶと、無造作に畳の上へ放り投げた。出た目はまたも「六」。
次の番も、その次の番も、榊が振るサイコロは綺麗に「六」の目ばかりを出し続けた。対する私は「二」が出たり「五」が出たりと、全くバラバラである。
「……あの、榊さん。どうしてさっきから『六』しか出ないんですか? いくらなんでも出来すぎです。やっぱりそのサイコロ、呪われて……」
「呪われてねえよ。手首の角度と指の離し方でな、好きな目を出すイカサマを身に付けてるだけだ」
「イカサマ!?」
平然と言い放った男に、私は思わず声を裏返した。
「ちょっと、妖屋。あなた、それを使って賭場でヤバいことには使っていませんよね?」
「当然」
榊はキセルを咥え直しながら、短く答えた。
当然、使っていないのか。それとも、当然のようにヤバいことに使い古しているのか。そのどっちなんだろうと、私は彼の胡散臭い横顔をじっと睨みつける。
しかし、すごろくが進むにつれて、盤面の空気は冗談では済まないほど冷たく、重くなっていった。
私のコマの目の前には、「足が折れる」「指を失う」「目が見えなくなる」といった、血の気の引くような不穏なマス目がいくつも並んでいる。もしここに止まれば、先ほどまでのことを考えるに、本当に取り返しのつかない身体の欠損を負わされるに違いない。
先頭を走る榊のコマは、不穏なマス目をいくつもすり抜け、「先頭の者と入れ替わる」マスの手前、ちょうど四マスの位置まで迫っていた。次は榊の番だ。
もしここで四以外の目が出れば、行き過ぎてしまうか、あるいは手前にある悍ましいマスのいずれかに止まってしまう。緊張の一瞬だった。
「……榊さんの番ですね。あと四で、目標のマス……。本当に、狙った目を出すなんてできるんですか?」
「チッ、これだから根性のねえ木偶人形は見てるだけでうるせえな。黙ってろ」
榊は白い骨のサイコロを指先で弄ぶと、一瞬だけ瞳を鋭く光らせた。手首を小さくひねり、立方体を畳へと滑らせる。
転がったサイコロがピタリと止まる。上を向いていたのは、四つの点。見事な「四」の目だった。
「よしっ!」
榊のコマが、トキちゃんが閉じ込められているはずの×印のマスへと進む。
その瞬間、座敷の中に突如として激しい突風が吹き荒れ、白く濃い煙が視界を遮った。
「キャッ……!」
思わず腕で顔を覆う。風が止み、恐る恐る目を開けると、そこには。
「……う、うう……ひな、ねえちゃん……?」
畳の上にぽつんと、小さな女の子が座り込んで泣いていた。行方不明になっていたトキちゃんだった。
「トキちゃん! よかった、無事だったのね!」
私は駆け寄り、その小さな体をきゅっと抱きしめた。怪我はないようで、まずは一安心だ。しかし、安堵したのも束の間。私はハッと気づき、周囲を見回した。
「……あれ? 榊さんは?」
さっきまで私の目の前にいたはずの、あのキセル臭い男の姿が、どこにもない。
代わりに、彼のコマが置いてあった×印のマスの上には、榊がいつも使っている銀のキセルはなく、その煙だけが舞っていた。
「先頭の者と位置を入れ替える……。じゃあ、榊さんが代わりに……」
トキちゃんが助かった代わりに、榊があの鬼のすごろくの狭間へと消えてしまったのだ。
一瞬にして、心臓がドクンと嫌な音を立てる。あの口の悪い性格破綻者のことが、急激に心配になってきた。
「トキちゃん、大丈夫? 今までどこにいたの? 何があったか教えて」
私の問いかけに、トキちゃんはまだ身体を震わせながら、私の着物をぎゅっと握りしめた。
「あのね……真っ暗で、怖いお化けがたくさんいるところに、独りぼっちでいたの。すっごく怖くて泣いてたら……そこに、あのお兄ちゃんが急に来て……」
「榊さんが?」
「うん。『うるせえ、ガキの泣き声は耳に障る。とっとと帰れ』って言って、トキちゃんの後ろの首根っこを思いっきり突き飛ばしたの。そしたら、ここにいた……」
そこまで聞いて、私は少しだけ引きつった笑いを浮かべた。消え去る間際まで、なんて乱暴で、なんてあの男らしい振る舞いだろう。
「……そっか。教えてくれてありがとう、トキちゃん」
私はトキちゃんの頭を優しく撫でながら、座敷の奥の暗闇を見つめた。
あの性格破綻者のことだ。どれほど恐ろしい鬼の世界に放り込まれようとも、不敵にキセルをふかしながら、「めんどくせえ」と吐き捨てて、お化けどもを蹴散らしているに違いない。
あの男なら大丈夫だと思うけれど。そう自分に言い聞かせながらも、私は腰にある杖の柄に、無意識のうちに強く手をかけていた。
榊さんが消えてから、半時が経った。
座敷にはただ静寂だけが満ちており、いくら待っても、畳の上に何かが戻ってくる気配は微塵もなかった。
泣きじゃくっていたトキちゃんは、張り詰めていた糸が切れたように、私の膝の上で泥のように眠り込んでしまった。小さな寝息だけが、静まり返った部屋に小さく響いている。私は膝の上のぬくもりを感じながら、ただじっと、畳の上に広げられたすごろくの紙を見つめ続けていた。
いつもならやかましいくらいの妖たちも、静かにこちらを見守っている。
「……どうすれば、いいの」
ぽつりと、乾いた呟きが口から漏れる。
盤面には未だに「指を失う」「目が見えなくなる」といった悍ましい言葉が黒々と並んでいる。こんな狂ったすごろくを、これ以上私の手で進めるわけにはいかない。もしまたおかしなマスに止まれば、トキちゃんをさらに危険に晒すか、あるいは自分自身が取り返しのつかない身体の欠損を負うことになる。
だけど、このまま立ち止まっていては、榊さんはきっと真っ暗な空間に置き去りにされたままだ。
私に何ができるだろう。妖の理もまともに知らない娘が、独りで何を変えられるというのか。圧倒的な無力感と孤立無援の恐怖が押し寄せ、視界がじわりと涙で滲み始める。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、今にも泣き出しそうだった。
(榊さん……今、暗闇で苦しんでいないだろうか)
いつも私を木偶人形と呼び、からかってばかりいた、最悪の性格破綻者。だけど、困っている弱者を最後には必ず救い上げてみせる、不器用で真っ直ぐな男。
(代わってあげたい。暗い場所に一人でいるのは苦しい。私は知っている。あの人を独りにしておきたくない。今度は、私が——)
そう、心の底から強く願った、その瞬間だった。
私の内側、胸の最奥から、突如として凄まじい熱量が溢れ出してきた。
それは、今までに感じたことのない異質な力だった。いつも榊さんがキセルをくゆらせる時に周囲に漂わせている、あの濃密で、冷徹でありながらもどこか温かい「妖力」が、私の全身の血の巡りを変えるように、激しく、脈打つように溢れ出してきたのだ。
(そうか、やっぱり、うすうす気づいていた。私は妖なんだ)
コロン、と頼りない音を立てて止まった目は「三」。私のコマが進んだのは、「おこづかいをもらう」と書かれた可愛らしいマスだった。
「あっ」
チャリン、と軽い金属音がして、天井の暗闇から本物のお金が数枚、私の目の前にパラパラと降ってきた。畳の上で揺れる本物のお金に、私は目を丸くする。本当に書かれた内容がそのまま現実に起きるのだ。
「俺から言い出したことだが、お前よくそんなに勢いよく始められるな。何かあったらどうするんだ」
「四の五の言ってる暇はありません!」
「……たくましいね」
榊が畳から拾い上げたサイコロを振る。出た目は「六」。そこにはもう一マス進む、とあり、都合七つ進んだ。
次の番、私が恐る恐る振ったサイコロは「五」を示した。止まったのは「お餅が食べられる」というマス。
すると、どこからともなく、つやつやとした出来立ての白いお餅が、小さなお皿に載ってぽつんと現れた。香ばしいお米の匂いが鼻をくすぐる。
「……あの、榊さん。これ、食べても大丈夫でしょうか」
「さあな。鬼の毒でも入ってるかもよ」
「でも、もったいないですし……」
毒という言葉に一瞬躊躇したが、体と心の疲れから胃袋はすでに次の燃料を求めていた。意を決して口に運ぶと、お餅は驚くほど柔らかく、ほんのりと甘い。
「おいしいです!」
「おいおい……。腹が減っては戦ができぬ、とでも言いたいわけか」
「はい! 戦う前には体力を蓄えておくのが武士のたしなみですから!」
呆れ果てた目で私を見る榊を無視して、私はお餅をしっかりと咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。
続いて榊の番だ。男はめんどくさそうにサイコロを指先で弄ぶと、無造作に畳の上へ放り投げた。出た目はまたも「六」。
次の番も、その次の番も、榊が振るサイコロは綺麗に「六」の目ばかりを出し続けた。対する私は「二」が出たり「五」が出たりと、全くバラバラである。
「……あの、榊さん。どうしてさっきから『六』しか出ないんですか? いくらなんでも出来すぎです。やっぱりそのサイコロ、呪われて……」
「呪われてねえよ。手首の角度と指の離し方でな、好きな目を出すイカサマを身に付けてるだけだ」
「イカサマ!?」
平然と言い放った男に、私は思わず声を裏返した。
「ちょっと、妖屋。あなた、それを使って賭場でヤバいことには使っていませんよね?」
「当然」
榊はキセルを咥え直しながら、短く答えた。
当然、使っていないのか。それとも、当然のようにヤバいことに使い古しているのか。そのどっちなんだろうと、私は彼の胡散臭い横顔をじっと睨みつける。
しかし、すごろくが進むにつれて、盤面の空気は冗談では済まないほど冷たく、重くなっていった。
私のコマの目の前には、「足が折れる」「指を失う」「目が見えなくなる」といった、血の気の引くような不穏なマス目がいくつも並んでいる。もしここに止まれば、先ほどまでのことを考えるに、本当に取り返しのつかない身体の欠損を負わされるに違いない。
先頭を走る榊のコマは、不穏なマス目をいくつもすり抜け、「先頭の者と入れ替わる」マスの手前、ちょうど四マスの位置まで迫っていた。次は榊の番だ。
もしここで四以外の目が出れば、行き過ぎてしまうか、あるいは手前にある悍ましいマスのいずれかに止まってしまう。緊張の一瞬だった。
「……榊さんの番ですね。あと四で、目標のマス……。本当に、狙った目を出すなんてできるんですか?」
「チッ、これだから根性のねえ木偶人形は見てるだけでうるせえな。黙ってろ」
榊は白い骨のサイコロを指先で弄ぶと、一瞬だけ瞳を鋭く光らせた。手首を小さくひねり、立方体を畳へと滑らせる。
転がったサイコロがピタリと止まる。上を向いていたのは、四つの点。見事な「四」の目だった。
「よしっ!」
榊のコマが、トキちゃんが閉じ込められているはずの×印のマスへと進む。
その瞬間、座敷の中に突如として激しい突風が吹き荒れ、白く濃い煙が視界を遮った。
「キャッ……!」
思わず腕で顔を覆う。風が止み、恐る恐る目を開けると、そこには。
「……う、うう……ひな、ねえちゃん……?」
畳の上にぽつんと、小さな女の子が座り込んで泣いていた。行方不明になっていたトキちゃんだった。
「トキちゃん! よかった、無事だったのね!」
私は駆け寄り、その小さな体をきゅっと抱きしめた。怪我はないようで、まずは一安心だ。しかし、安堵したのも束の間。私はハッと気づき、周囲を見回した。
「……あれ? 榊さんは?」
さっきまで私の目の前にいたはずの、あのキセル臭い男の姿が、どこにもない。
代わりに、彼のコマが置いてあった×印のマスの上には、榊がいつも使っている銀のキセルはなく、その煙だけが舞っていた。
「先頭の者と位置を入れ替える……。じゃあ、榊さんが代わりに……」
トキちゃんが助かった代わりに、榊があの鬼のすごろくの狭間へと消えてしまったのだ。
一瞬にして、心臓がドクンと嫌な音を立てる。あの口の悪い性格破綻者のことが、急激に心配になってきた。
「トキちゃん、大丈夫? 今までどこにいたの? 何があったか教えて」
私の問いかけに、トキちゃんはまだ身体を震わせながら、私の着物をぎゅっと握りしめた。
「あのね……真っ暗で、怖いお化けがたくさんいるところに、独りぼっちでいたの。すっごく怖くて泣いてたら……そこに、あのお兄ちゃんが急に来て……」
「榊さんが?」
「うん。『うるせえ、ガキの泣き声は耳に障る。とっとと帰れ』って言って、トキちゃんの後ろの首根っこを思いっきり突き飛ばしたの。そしたら、ここにいた……」
そこまで聞いて、私は少しだけ引きつった笑いを浮かべた。消え去る間際まで、なんて乱暴で、なんてあの男らしい振る舞いだろう。
「……そっか。教えてくれてありがとう、トキちゃん」
私はトキちゃんの頭を優しく撫でながら、座敷の奥の暗闇を見つめた。
あの性格破綻者のことだ。どれほど恐ろしい鬼の世界に放り込まれようとも、不敵にキセルをふかしながら、「めんどくせえ」と吐き捨てて、お化けどもを蹴散らしているに違いない。
あの男なら大丈夫だと思うけれど。そう自分に言い聞かせながらも、私は腰にある杖の柄に、無意識のうちに強く手をかけていた。
榊さんが消えてから、半時が経った。
座敷にはただ静寂だけが満ちており、いくら待っても、畳の上に何かが戻ってくる気配は微塵もなかった。
泣きじゃくっていたトキちゃんは、張り詰めていた糸が切れたように、私の膝の上で泥のように眠り込んでしまった。小さな寝息だけが、静まり返った部屋に小さく響いている。私は膝の上のぬくもりを感じながら、ただじっと、畳の上に広げられたすごろくの紙を見つめ続けていた。
いつもならやかましいくらいの妖たちも、静かにこちらを見守っている。
「……どうすれば、いいの」
ぽつりと、乾いた呟きが口から漏れる。
盤面には未だに「指を失う」「目が見えなくなる」といった悍ましい言葉が黒々と並んでいる。こんな狂ったすごろくを、これ以上私の手で進めるわけにはいかない。もしまたおかしなマスに止まれば、トキちゃんをさらに危険に晒すか、あるいは自分自身が取り返しのつかない身体の欠損を負うことになる。
だけど、このまま立ち止まっていては、榊さんはきっと真っ暗な空間に置き去りにされたままだ。
私に何ができるだろう。妖の理もまともに知らない娘が、独りで何を変えられるというのか。圧倒的な無力感と孤立無援の恐怖が押し寄せ、視界がじわりと涙で滲み始める。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、今にも泣き出しそうだった。
(榊さん……今、暗闇で苦しんでいないだろうか)
いつも私を木偶人形と呼び、からかってばかりいた、最悪の性格破綻者。だけど、困っている弱者を最後には必ず救い上げてみせる、不器用で真っ直ぐな男。
(代わってあげたい。暗い場所に一人でいるのは苦しい。私は知っている。あの人を独りにしておきたくない。今度は、私が——)
そう、心の底から強く願った、その瞬間だった。
私の内側、胸の最奥から、突如として凄まじい熱量が溢れ出してきた。
それは、今までに感じたことのない異質な力だった。いつも榊さんがキセルをくゆらせる時に周囲に漂わせている、あの濃密で、冷徹でありながらもどこか温かい「妖力」が、私の全身の血の巡りを変えるように、激しく、脈打つように溢れ出してきたのだ。
(そうか、やっぱり、うすうす気づいていた。私は妖なんだ)

