「しばらく一人にしてくれ」
お稲荷さんの顛末の後、榊にぶっきらぼうにそう告げられてから、私は数日の間、自分の屋敷でこれといったこともなく手持ち無沙汰に過ごしていた。
とにかく、やることがないのだ。道場で一人寂しく竹刀を振るってみても、すぐに虚しくなって飽きてしまう。あの性格破綻者の男に木偶人形呼ばわりされることも、囮として理不尽に扱われることもない日々は、平和そのものであるはずなのに、どうにも妙な物足りなさが胸の奥に燻っていた。
仕方がなく、私は西園寺家の古い書庫へと足を運んだ。榊に力を分けてもらって以来、私には世界の裏側が少しだけ見えるようになっている。これから先、あの男の仕事に付き合うのであれば、少しは妖についての知識を蓄えておこうと考えたのだ。
埃っぽい書庫の棚をあさってみると、ある奇妙な傾向に気づいた。並んでいる古書の多くが、道具に魂が宿る付喪神に関するものだったのだ。古い傘の怪、長年使い込まれた釜の怪、そんな話が細かな挿絵と共にこれでもかと記されている。
(付喪神関連の本が、こんなにたくさん……。江戸の人間にとって、それだけ彼らは身近な存在ということなのだろうか)
そんなことを思いながら、一冊の和紙の本を開いてみる。しかし、元々が武芸一辺倒の私だ。難解な崩し字と、退屈な訓読の文字を少し眺めただけで、頭の芯が急激に重くなってきた。強烈な睡魔が、容赦なく襲いかかってくる。
「ふぁ……だめ、文字がぼやけて……」
結局、勉強は早々に諦めることにした。これなら、外に出て歩き回っている方がよっぽど精神衛生にいい。
私は気晴らしを求めて町へと出かけた。陽光を浴びながら、いつものように賑わう大通りを通り抜け、長屋の近くにある小さな広場へと向かう。そこは近所の子供たちの格好の遊び場になっていた。
だが、集まっている子供たちの様子がどこかおかしい。いつもなら元気に鬼ごっこをして走り回っているはずの太一たちが、一箇所に固まって、深刻な顔でひそひそと話し込んでいるのだ。
近づいていくにつれ、私は決定的な異変に気づいた。
「……あれ? トキちゃんがいないわね」
いつも太一たちの後ろを、ちょこちょこと遠慮がちについて回っていた大人しい女の子——トキちゃんの姿が、どこにも見当たらない。
「太一、三吉。どうしたの? トキちゃんは一緒じゃないの?」
私が声をかけた瞬間、子供たちはビクッと肩を震わせ、一斉に振り返った。その顔は誰も彼もが真っ青で、太一にいたっては私の着物の裾にすがりつき、今にも泣き出しそうな声を上げた。
「雛姉ちゃん! 助けて、助けてよ!」
「どうしたの、落ち着きなさい。何があったの?」
三吉が涙をボロボロとこぼしながら、震える声で事の次第を話し始めた。
「さっきね、知らない男の人が来て、すごろくとサイコロをくれたんだ。見たことないくらい綺麗で珍しいやつだから、みんなで遊んでたんだけど……トキちゃんが、急にいなくなっちゃったんだ!」
「いなくなった? どこかへ走っていっちゃったの?」
「違うんだよ! すごろくで遊んでたら、トキちゃんの体が煙みたいに薄くなって……そのまま、消えちゃったんだ!」
子供たちの必死な目を見て、それが単なる迷子ではないことを私は直感した。また、あの黒い闇の連中が動いたのだ。
私は子供たちから、その謎の男が置いていったというすごろく一式を急いで預かり、そのまま竹藪の奥にある妖屋敷へと、生垣を飛び越える勢いで駆け込んだ。
「榊さん! 大変です、子供が神隠しに遭いました!」
座敷の障子を乱暴に開け放ち、私は息を切らせて叫んだ。縁側に腰掛けていた榊は、私の怒声にうっとうしそうに顔をしかめ、銀のキセルをゆっくりと口から離した。
「声がでけえんだよ、木偶人形。少しは静かに——」
「静かにしていられません! 近所のトキちゃんが、すごろくで遊んでいる最中に消えてしまったんです! これが、その時に使っていたやつです!」
私は懐から、子供たちに手渡されたすごろくの紙とサイコロを畳の上に差し出した。
榊はすごろくの紙には目もくれず、ただ一つ、転がったサイコロを見つめた瞬間、その切れ長の瞳を不快そうに細めた。
「……チッ。そっちかよ」
榊は苦い顔のまま、長い指先でその白いサイコロを拾い上げた。それは、妙に重みがあり、どこか人間の骨を思わせるような、鈍い光沢を放っている。
「榊さん、すごろくが呪われているんですか?」
「いや、すごろくじゃねえ。問題はこのサイコロだ。……なるほどな、これですべての線が繋がったぜ」
榊はキセルを懐に仕舞い込むと、いつになく真面目な、そして冷徹な声でこれまでの調べごとの成果を語り始めた。
「二年前の話だ。江戸のいくつかの賭場で、謎の不審死や行方不明が相次ぐ事件があった。さすがのヤクザどもも、身内が次々と消えていく不気味さに恐れをなしてな。とうとうその賭場自体をぶっ潰すことに決めたんだ。その時、建物の解体と片付けを依頼された大工が……お前もよく知ってる、あのお蓮のところの死んだ旦那だよ」
「お蓮さんの、旦那様……!」
「あぁ。結局、その賭場は呪われていると判断したヤクザどもが、死体も内々に処理し、場所自体を完全に封鎖して放置しやがった。当時、その噂を聞きつけた俺も、念のためにその潰れた賭場を見に行ったんだがな……おかしなことに、賭場自体には呪いも妖気も、何一つ残っちゃいなかったんだ」
榊は手の中のサイコロを、軽く上へと放り投げ、再び手のひらで掴んだ。
「そして最近になって、今度は子供たちの間で謎のすごろくが流行っているという噂が耳に入ってきた。お前が言うように、遊んでいた子供が行方不明になる事件が、裏でひそかに増えていたんだ。一応、俺もそのすごろくを一つ手に入れて調べてみたが、紙にもコマにも、何の違和感も妖気もねえ。……それが、この間、屋敷の妖どもにやらせていた、あのすごろくだよ」
「えっ、あれは遊んでいたんじゃなくて、調べていたんですか!?」
「当たり前だろ。俺がお前みたいな暇人に見えるか。だが、妖どもがいくら遊んでも何も起きねえ。それが、お前が持ってきたこれのおかげではっきりした。……おい、雛。賭場とすごろく、この二つの共通点は何だ?」
「共通点……? 賭博と、すごろく……」
私は畳の上の白い立方体を見つめ、ハッと息を呑んだ。
「……サイコロ、ですか?」
「そういうことだ」
榊はサイコロを私の目の前に突き出した。その表面には、血のようにどす黒い朱色の墨で、一から六の目が不気味に刻まれている。
「このサイコロはな、ただのおもちゃじゃねえ。かつて京の都で悪名を馳せた、朱雀門の鬼の骨を加工して作られた遺物だ。凄まじい妖力が宿っていやがる。……こんなもんを使って賭け事や、すごろくなんていう勝負事をしてみろ。負けた者の命や存在は、サイコロに宿る鬼の食い扶持として、そっくり空間の狭間へ喰われちまうのさ」
榊の話を聞きながら、私は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。二年前の賭場の事件も、お蓮さんの旦那様の死も、そして今朝のトキちゃんの失踪も、すべてはこの一つのサイコロが引き起こした惨劇だったのだ。
「さぁ、説明は以上だ」
榊は勢いよく立ち上がり、腰のキセルを強く叩いた。その瞳には、獲物を追い詰める妖屋の、獰猛な光が宿っている。
「やるぞ、雛。この鬼の胃袋から、女の子を引っ張り出して助けるぞ」
「はい、望むところです!」
私は杖を強く握り締め、強くうなずいた。
「それで、どうすればトキちゃんを助けられるんですか?」
「簡単だ。このすごろくを俺たちが実際に遊ぶ」
榊が、文字の書かれていない『×』印だけの不気味なマスを指差した。
「おそらくここにその子は止まって、閉じ込められた。だが、こっち、ここには『先頭の者と位置を入れ替える』というマスがある。ここに止まれば、その子は助かるはずだ」
言われて改めてすごろくの盤面に目を落とすと、そこにはいびつな筆跡で様々な文言が書き連ねられていた。
「おこづかいをもらう」「一回休む」「お餅が食べられる」といった、いかにも子供の遊び道具らしい可愛らしいマス目がある。
だが、そのすぐ隣には「足が折れる」「指を失う」「目が見えなくなる」という、背筋が凍りつくような悍ましい言葉が平然と並んでいた。
これは子供を誘い込むための巧妙な罠であり、鬼の骨がもたらす命懸けの盤上遊戯だ。一歩間違えれば、今度は私たちが空間の狭間に消されることになるだろう。けれど、私の心に不思議と恐怖はなかった。腰にある新たな相棒が、主の意思に応えるように静かに熱を帯びていくのを感じる。。
「やるぞ、雛」
「はい!」
お稲荷さんの顛末の後、榊にぶっきらぼうにそう告げられてから、私は数日の間、自分の屋敷でこれといったこともなく手持ち無沙汰に過ごしていた。
とにかく、やることがないのだ。道場で一人寂しく竹刀を振るってみても、すぐに虚しくなって飽きてしまう。あの性格破綻者の男に木偶人形呼ばわりされることも、囮として理不尽に扱われることもない日々は、平和そのものであるはずなのに、どうにも妙な物足りなさが胸の奥に燻っていた。
仕方がなく、私は西園寺家の古い書庫へと足を運んだ。榊に力を分けてもらって以来、私には世界の裏側が少しだけ見えるようになっている。これから先、あの男の仕事に付き合うのであれば、少しは妖についての知識を蓄えておこうと考えたのだ。
埃っぽい書庫の棚をあさってみると、ある奇妙な傾向に気づいた。並んでいる古書の多くが、道具に魂が宿る付喪神に関するものだったのだ。古い傘の怪、長年使い込まれた釜の怪、そんな話が細かな挿絵と共にこれでもかと記されている。
(付喪神関連の本が、こんなにたくさん……。江戸の人間にとって、それだけ彼らは身近な存在ということなのだろうか)
そんなことを思いながら、一冊の和紙の本を開いてみる。しかし、元々が武芸一辺倒の私だ。難解な崩し字と、退屈な訓読の文字を少し眺めただけで、頭の芯が急激に重くなってきた。強烈な睡魔が、容赦なく襲いかかってくる。
「ふぁ……だめ、文字がぼやけて……」
結局、勉強は早々に諦めることにした。これなら、外に出て歩き回っている方がよっぽど精神衛生にいい。
私は気晴らしを求めて町へと出かけた。陽光を浴びながら、いつものように賑わう大通りを通り抜け、長屋の近くにある小さな広場へと向かう。そこは近所の子供たちの格好の遊び場になっていた。
だが、集まっている子供たちの様子がどこかおかしい。いつもなら元気に鬼ごっこをして走り回っているはずの太一たちが、一箇所に固まって、深刻な顔でひそひそと話し込んでいるのだ。
近づいていくにつれ、私は決定的な異変に気づいた。
「……あれ? トキちゃんがいないわね」
いつも太一たちの後ろを、ちょこちょこと遠慮がちについて回っていた大人しい女の子——トキちゃんの姿が、どこにも見当たらない。
「太一、三吉。どうしたの? トキちゃんは一緒じゃないの?」
私が声をかけた瞬間、子供たちはビクッと肩を震わせ、一斉に振り返った。その顔は誰も彼もが真っ青で、太一にいたっては私の着物の裾にすがりつき、今にも泣き出しそうな声を上げた。
「雛姉ちゃん! 助けて、助けてよ!」
「どうしたの、落ち着きなさい。何があったの?」
三吉が涙をボロボロとこぼしながら、震える声で事の次第を話し始めた。
「さっきね、知らない男の人が来て、すごろくとサイコロをくれたんだ。見たことないくらい綺麗で珍しいやつだから、みんなで遊んでたんだけど……トキちゃんが、急にいなくなっちゃったんだ!」
「いなくなった? どこかへ走っていっちゃったの?」
「違うんだよ! すごろくで遊んでたら、トキちゃんの体が煙みたいに薄くなって……そのまま、消えちゃったんだ!」
子供たちの必死な目を見て、それが単なる迷子ではないことを私は直感した。また、あの黒い闇の連中が動いたのだ。
私は子供たちから、その謎の男が置いていったというすごろく一式を急いで預かり、そのまま竹藪の奥にある妖屋敷へと、生垣を飛び越える勢いで駆け込んだ。
「榊さん! 大変です、子供が神隠しに遭いました!」
座敷の障子を乱暴に開け放ち、私は息を切らせて叫んだ。縁側に腰掛けていた榊は、私の怒声にうっとうしそうに顔をしかめ、銀のキセルをゆっくりと口から離した。
「声がでけえんだよ、木偶人形。少しは静かに——」
「静かにしていられません! 近所のトキちゃんが、すごろくで遊んでいる最中に消えてしまったんです! これが、その時に使っていたやつです!」
私は懐から、子供たちに手渡されたすごろくの紙とサイコロを畳の上に差し出した。
榊はすごろくの紙には目もくれず、ただ一つ、転がったサイコロを見つめた瞬間、その切れ長の瞳を不快そうに細めた。
「……チッ。そっちかよ」
榊は苦い顔のまま、長い指先でその白いサイコロを拾い上げた。それは、妙に重みがあり、どこか人間の骨を思わせるような、鈍い光沢を放っている。
「榊さん、すごろくが呪われているんですか?」
「いや、すごろくじゃねえ。問題はこのサイコロだ。……なるほどな、これですべての線が繋がったぜ」
榊はキセルを懐に仕舞い込むと、いつになく真面目な、そして冷徹な声でこれまでの調べごとの成果を語り始めた。
「二年前の話だ。江戸のいくつかの賭場で、謎の不審死や行方不明が相次ぐ事件があった。さすがのヤクザどもも、身内が次々と消えていく不気味さに恐れをなしてな。とうとうその賭場自体をぶっ潰すことに決めたんだ。その時、建物の解体と片付けを依頼された大工が……お前もよく知ってる、あのお蓮のところの死んだ旦那だよ」
「お蓮さんの、旦那様……!」
「あぁ。結局、その賭場は呪われていると判断したヤクザどもが、死体も内々に処理し、場所自体を完全に封鎖して放置しやがった。当時、その噂を聞きつけた俺も、念のためにその潰れた賭場を見に行ったんだがな……おかしなことに、賭場自体には呪いも妖気も、何一つ残っちゃいなかったんだ」
榊は手の中のサイコロを、軽く上へと放り投げ、再び手のひらで掴んだ。
「そして最近になって、今度は子供たちの間で謎のすごろくが流行っているという噂が耳に入ってきた。お前が言うように、遊んでいた子供が行方不明になる事件が、裏でひそかに増えていたんだ。一応、俺もそのすごろくを一つ手に入れて調べてみたが、紙にもコマにも、何の違和感も妖気もねえ。……それが、この間、屋敷の妖どもにやらせていた、あのすごろくだよ」
「えっ、あれは遊んでいたんじゃなくて、調べていたんですか!?」
「当たり前だろ。俺がお前みたいな暇人に見えるか。だが、妖どもがいくら遊んでも何も起きねえ。それが、お前が持ってきたこれのおかげではっきりした。……おい、雛。賭場とすごろく、この二つの共通点は何だ?」
「共通点……? 賭博と、すごろく……」
私は畳の上の白い立方体を見つめ、ハッと息を呑んだ。
「……サイコロ、ですか?」
「そういうことだ」
榊はサイコロを私の目の前に突き出した。その表面には、血のようにどす黒い朱色の墨で、一から六の目が不気味に刻まれている。
「このサイコロはな、ただのおもちゃじゃねえ。かつて京の都で悪名を馳せた、朱雀門の鬼の骨を加工して作られた遺物だ。凄まじい妖力が宿っていやがる。……こんなもんを使って賭け事や、すごろくなんていう勝負事をしてみろ。負けた者の命や存在は、サイコロに宿る鬼の食い扶持として、そっくり空間の狭間へ喰われちまうのさ」
榊の話を聞きながら、私は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。二年前の賭場の事件も、お蓮さんの旦那様の死も、そして今朝のトキちゃんの失踪も、すべてはこの一つのサイコロが引き起こした惨劇だったのだ。
「さぁ、説明は以上だ」
榊は勢いよく立ち上がり、腰のキセルを強く叩いた。その瞳には、獲物を追い詰める妖屋の、獰猛な光が宿っている。
「やるぞ、雛。この鬼の胃袋から、女の子を引っ張り出して助けるぞ」
「はい、望むところです!」
私は杖を強く握り締め、強くうなずいた。
「それで、どうすればトキちゃんを助けられるんですか?」
「簡単だ。このすごろくを俺たちが実際に遊ぶ」
榊が、文字の書かれていない『×』印だけの不気味なマスを指差した。
「おそらくここにその子は止まって、閉じ込められた。だが、こっち、ここには『先頭の者と位置を入れ替える』というマスがある。ここに止まれば、その子は助かるはずだ」
言われて改めてすごろくの盤面に目を落とすと、そこにはいびつな筆跡で様々な文言が書き連ねられていた。
「おこづかいをもらう」「一回休む」「お餅が食べられる」といった、いかにも子供の遊び道具らしい可愛らしいマス目がある。
だが、そのすぐ隣には「足が折れる」「指を失う」「目が見えなくなる」という、背筋が凍りつくような悍ましい言葉が平然と並んでいた。
これは子供を誘い込むための巧妙な罠であり、鬼の骨がもたらす命懸けの盤上遊戯だ。一歩間違えれば、今度は私たちが空間の狭間に消されることになるだろう。けれど、私の心に不思議と恐怖はなかった。腰にある新たな相棒が、主の意思に応えるように静かに熱を帯びていくのを感じる。。
「やるぞ、雛」
「はい!」

