江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

 始まりは、今から二年前のことに遡る。

 江戸の片隅、日がな一日陽の当たらない路地裏の長屋に、爪に火を点すような暮らしを送る、小さな家族がいた。

 病気がちで床に伏せることが多い父親と、それを実の親以上に敬い支える若い夫婦。貧しくはあっても、その三畳一間の部屋には、いつも絶え間ない笑い声と温かな湯気が満ちていた。

「父さん、今日のお加減はいかがですか。お豆腐のね、お味噌汁を作りましたよ」
「いつもすまないねぇ、お蓮。お前のような優しい嫁を貰って、せがれには勿体ないくらいだ」
「何をおっしゃるんです。さあ、冷めないうちに召し上がってください」

 その眼差しはどこまでも優しかった。

 大工仕事の合間に、不器用ながらも父親の背中をさする息子の手は、職人特有の硬いタコで覆われていたが、互いを思いやり、小さな痛みを分け合うような、そんな睦まじい三人の姿がそこにはあった。

 その長屋のすぐ近くには、古びて朽ちかけた、小さなお稲荷さんの社がひっそりと佇んでいた。久しく町人からも忘れ去られ、お供え物どころか、まともな手入れすらされていない寂れた祠。

 けれど、この若い夫婦だけは違った。二人は毎日、夜明け前と夕暮れ時の二回、欠かすことなく社の前へ足を運び、蜘蛛の巣を払い、泥を拭い、ささやかなお供え物を捧げていた。

「神様、今日も父さんの呼吸が穏やかでありますように」
「俺たちの仕事が、明日も無事に務まりますように」

 手を合わせる二人の、曇りのない祈りの声。社に身を潜めていた一匹の狐は、その純粋な優しさと、自分に向けられる温かな信仰の灯火に、深く心を打たれていた。

 神の使いとしては位の低い、小さな野良狐に過ぎなかったが、それでも「この心優しい家族に、少しでも多くの幸せが訪れるように」と、自らの拙い妖力を絞り、ささやかな加護を与え続けていた。父親の病がそれ以上悪化せず、穏やかな日々が続いていたのは、その小さな狐の、必死の祈りの報いでもあった。

 しかし、運命というものは、時に残酷なほどあっけなく理を引っ繰り返す。

 ある、酷く湿った日の夕刻。

 仕事先へ向かったきり、夜になっても息子が戻らない。胸騒ぎを覚えたお蓮は、父親に「少し様子を見てきます」と言い残し、彼が今日向かうと言っていた仕事場へと、夜の闇を駆けていった。

 それが、人間の「お蓮」が長屋の敷居を跨いだ、最後の姿となった。

 息子は仕事場で突然、原因も分からぬまま息を引き取っていた。そしてお蓮もまた、夫の亡骸のすぐ傍らで、一滴の血も流さぬまま、静かに命を落としていた。あまりにも唐突で、あまりにも不可解な、若い二人の死。

 町中のお稲荷さんを伝う狐たちの声に、その凄惨な報せが届いたとき、社の狐は小さな悲鳴を上げた。優しかったあの二人が、もうこの世のどこにもいない。毎日、自分に微笑みかけてくれたあの温かな手が、一瞬にして冷たい肉塊に変わってしまった。

 狐は激しい絶望に身を震わせたが、その脳裏に、ふと長屋の暗い部屋の光景が浮かび上がった。

 何も知らぬまま、ただ二人の帰りを待ち続けている、あの目の不自由な寝たきりのおじいさん。

 もし、このまま誰も帰らなければ、あの老人は暗闇の中で餓死するか、あるいは孤独のまま凍えて死んでしまう。

(あのおじいさんを、独りぼっちにさせてなるものか)

 狐は決意した。

 狐はかつて何度も見つめていた「お蓮」の姿へと、その身を変化させた。力の弱いその狐にとって、人間の肉体を模すのは命を削るほどの荒行であったが、おじいさんを救いたいという一念が、それを可能にさせた。

 お蓮の姿となった狐は、泥まみれの着物を引き摺りながら長屋へと戻り、格子戸を開けた。

 枕元に崩れ落ち、震える声で、息子が亡くなったことをおじいさんに伝えた。老人は声を上げて泣き崩れ、その細い肩を激しく震わせた。

 お蓮に化けた狐は、老人の冷たい手をそっと握り締め、涙を流しながら誓った。

「これからは、私があなたを支えます。お父さん、どうか一人で泣かないで」

 狐は変化の術こそ使えたが、体は一つしかなかった。死んだ息子を生き返らせることはできず、夫婦二人を同時に演じることも叶わない。けれど、せめてお蓮のフリだけをして、この優しかったおじいさんの命の灯火が消えるその瞬間まで、その傍らに寄り添い続けよう。

 四六時中、人間の姿のままでいることは妖力の関係上できない。そこは老人の盲目が幸いした。家に帰ったあとは声だけ真似て、夜中は狐の姿に戻り、妖力を蓄えた。

 それが、周囲から「健気な苦労人の嫁」と噂されるお蓮の、誰にも明かせぬ、哀しい偽りの始まりだった。




 妖屋敷に戻ると、先ほどまで座敷で賑やかにすごろくに興じていた妖たちの姿はすでになかった。主人の気配を察して、銘々が天井裏や壁の隙間へと引き揚げたのだろう。

 部屋を支配するのは、古い紙の匂いと、障子の隙間から差し込むかすかな月光だけだった。

 榊は座椅子に深く腰を沈め、ようやく銀のキセルに火をつけた。ゆらりと立ち上る紫の煙が、彼の彫りの深い横顔を微かに曇らせる。

 私はその正面に座り、ただ静かに次の言葉を待っていた。蕎麦屋でお揚げの匂いを嗅いだときから、この男の頭の中にはすでにすべての理が組み上がっているのだ。

 榊は紫煙の向こうから、淡々と語り始めた。すべてはバラバラの事実を繋ぎ合わせた、あくまでも推測の域を出ない話だという。

 二年前、病気がちの父親と、仲睦まじい大工の若夫婦が暮らしていた話。
 夫婦が熱心に参拝していた小さなお稲荷さんの話。
 原因不明の死に方をした二人の話。
 榊はそこに黒鵺が絡んでいると睨んでいる。

 榊の話のすべてが、私の胸にすとんと落ちていく。私はしばらく言葉を失い、ただ呆然と畳を見つめていた。胸の奥が、締め付けられるように痛む。

「……別に憑かれているわけでも、誰かが苦しんでいるわけでもなかったんですね」

 私のぽつりとした呟きに、榊は小さく鼻で笑った。

「狐は大変だがな。身を削るほどの変化を毎日続けて、人間のフリをして蕎麦屋で皿洗いまでこなしてんだ。酔狂な話だぜ。低級妖怪とはいえ、神の遣いが人間一人につきっきりとは、よっぽど死んだ二人は信心深かったらしい」
「……だから、近所のお稲荷さんが」
「あぁ。あそこが放置されて蜘蛛の巣だらけになっていたのは、そこの主である狐が自分で、もうあの場所に意味がないことを知っていたからだ。自分が神としてそこに鎮座するより、お蓮になって爺さんの傍にいる方が、よっぽど信仰の理に適っていると思ったんだろうよ」

 榊はキセルを青銅器にコツンと叩きつけ、灰を落とした。

「蕎麦屋でお蓮とすれ違ったとき、狐であることは気配で分かった。だが、何を目的として人間に化けているのかが、俺にも測りかねていたんだ。だが、あの蕎麦屋の脇にある新しい祠と、そこに供えられたお揚げを見て、すべてが繋がった」
「……新しいお稲荷さん。お蓮さんは、自分が働く蕎麦屋の近くに、新しいお稲荷さんを建てていたんですね。そしてお揚げ二枚」
「あぁ。店が近いだけじゃなく、二人が死んだのもあそこから近いんだろう。そっちに関しては近々調べるさ」

 少し疲れたような声の榊さん。

「直接あいつの立ち居振る舞いを見て、ただ純粋な存在だということは分かった。……まぁ、放置して問題ねえだろうよ。江戸の理を乱すような悪意はどこにもねえ」

 榊の結論は、どこまでも冷徹で、そしてどこか優しかった。怪異を暴き立てるのが彼の仕事だが、そこにあるのがただの不器用な愛であるならば、彼はその刀を抜くことはない。

 けれど、私は一つだけ、どうしても気になることを口にした。

「……おじいさんは、このまま何も気付かず過ごすんですかね。自分が毎日手を引かれ、ご飯を食べさせてもらっている相手が、本物のお蓮さんではなく、お稲荷さんだということに……」

 もし、本当の真実を知ったら、あの寝たきりのおじいさんはどれほど悲しむだろうか。それとも、騙され続けている方が幸せなのだろうか。

 私の問いに、榊は暗闇の中で、ふっと皮肉げな笑みを浮かべた。

「気付いているよ、多分あの爺さんは」
「……え?」




 深夜の長屋は、昼間の喧騒が嘘のように、深い静寂に包まれていた。狭い部屋には、微かな行灯の光だけが揺らめき、湿った薬の匂いが薄く漂っている。

「お父さん、お布団は寒くありませんか。夜風が少し、冷たくなってきましたよ」

 お蓮は老人の枕元に腰を下ろし、古びた掛け布団の端を優しく整えた。その手つきは、どこまでも丁寧で、実の娘以上に労わりに満ちている。

「あぁ、温かいよ。お蓮、今日も遅くまでお疲れ様だったねぇ……。私のために、毎日そんなに働いて……」

 老人は万年床の上で、かすれた声を小さく絞り出した。盲目の瞳は天井の暗闇を虚ろに見つめているが、その表情は穏やかだった。

「何をおっしゃるんです。私がお父さんの傍にいたいから、そうしているんですよ。さあ、夜も更けました。明日のためにも、もうおやすみになってください」
「そうだねぇ。お前がそう言ってくれると、本当に安心するよ。あいつも……きっと、お前がこうして私を支えてくれているのを、どこかで見守ってくれているだろうね」
「ええ、きっと……」

 お蓮は静かに微笑み、老人の胸元をそっと撫でた。やがて、老人の呼吸が規則正しい、深いものへと変わっていく。老人が完全に眠りについたのを確かめると、お蓮は小さく息を吐き、張り詰めていた緊張の糸を緩めた。

 その瞬間、行灯の光に照らされていた美しいお蓮の輪郭が、陽炎のようにぐにゃりと歪んだ。

 衣服が床へと滑り落ち、そこに残されたのは、人間の姿ではなかった。真っ白な毛並みを持った、一匹の小さな狐。お蓮のフリを解いた狐は、疲れ果てたかのように小さな体を丸め、老人の布団の傍らで、静かに目を閉じた。

 部屋が、完全な静寂に満たされる。

 しかし、眠っていたはずの老人の瞼が、静かに持ち上がった。

 濁り、光を失ったその両眸には、やはり何も映ってはいない。けれど、老人は迷うことなく、自分の足元で息を潜めている「温かな気配」の方へとゆっくりと顔を向けた。

 毎日のように自分の手を引き、不器用ながらも粥を食べさせ、涙を流して自分を励ましてくれる相手。その声が、どれほど愛しい亡き嫁のものを真似ていようとも、肌に触れる温もりや、部屋に漂う微かな獣の匂い、そして何より、自分たち家族をずっと見守ってくれていたあのお稲荷さんの清らかな気配を、盲目の老人が忘れるはずもなかった。

 息子も、本物のお蓮も、もういない。けれど、あの二人が遺していった優しい祈りが、今もこうして、一匹の妖の姿を借りて自分の命を繋ぎ止めてくれている。

 老人は、眠っている狐を起こさぬよう、布団の中から痩せこけた手をそっと伸ばしかけ——そして、愛おしそうにその手を引いた。

「……ありがとう」

 暗闇の中に消えてしまいそうなほど、小さく、掠れたお礼の言葉。それは、夜の長屋の静寂の中に優しく溶け込み、二人の孤独な魂を、温かく包み込んでいく。