私は座布団も敷かれていない畳の上で、膝を揃えて背筋を伸ばした。目の前では、ろくろ首が煙の輪を首で器用にキャッチしては「いよっ、成田屋!」などとふざけた声を上げているが、無視だ。
こんなものに一つ一つ突っ込んでいたら、私の貴重な精神力が削り取られてしまう。
「すごいな。もう妖たちに慣れたのか」
「女とは言え私にも武士の血は流れていますから」
私は一つ息を吐き、今朝起きた、不可解極まりない事件について語り始めた。
今朝の江戸は、雲一つない快晴だった。私はいつものように、近所の長屋の子供たちを集めて裏山で鬼ごっこをしていた。
「ねえ、雛姉ちゃん。他の家のお嬢さんは、お花とかお茶とか、お嫁に行くための習い事をしてる時間だよ? こんなところで泥だらけになってていいの?」
生意気盛りの太一が、鼻をすすりながらそんなことを言ってきた。まったく、最近の子供は妙に現実的で困る。
「いいのよ! お花を活けてる間に賊に襲われたらどうするの? 自分の身は自分で守る。それが西園寺家の教えなのっ!」
嘘だ。父上は
「少しは淑やかになれ」
と毎日嘆いている。だが、私は花の香りを嗅ぐより、竹刀を振って汗を流す方がよっぽど性に合っているのだ。
「へー。でも、雛姉ちゃん、刀も持ってないじゃない。その杖、中身はただのなまくらなんでしょ?」
「なまくらでも、私の腕ならそこらの一人や二人は……!」
言い返そうとした、その時だった。
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 助けてくれぇっ!」
路地の向こうから、叫び声が響いた。私は遊びを切り上げ、弾かれたように走り出した。子供たちには
「そこで待ってなさい!」
と言い残し、声を頼りに角を曲がる。
そこには、近所でよく見かける一人の商人が倒れていた。背中をざっくりと切り裂かれ、着物は無残に裂けている。相当な深手だ。私は慌てて駆け寄り、商人の体を支えた。
「しっかりしてください! 今、お医者を……」
そこまで言って、私は言葉を失った。商人の背中には、掌ほどもある大きな切り傷がある。肉が裂け、骨さえ見えそうなほど深い。なのに——。
「……血が、出ていない?」
傷口は真っ赤だった。しかし血は出ていない。まるで、生きている人間の体から「鮮血」という概念だけが抜き取られたかのように、一滴の赤も流れていないのだ。
「誰にやられたのですか? 犯人の姿は!」
「わ、わからない……。誰も、いなかったはずなんだ……。ただ、風が吹いたと思ったら、急に……っ」
商人は苦しげに喘ぎながら、そう答えるのが精一杯だった。
私は急いで近所の医者へ商人を運び込み、そのまま奉行所、そして屋敷に戻って父上へと事の次第を報告した。話を聞いた父上の表情は、今まで見たことがないほど厳しかった。
「雛。先ほど、別の場所でも似たような事件があったとの報が入った。……やはり、そうか」
「父上、これは普通の辻斬りではありません。私が必ず下手人を捕まえて……!」
「ならぬ。相手がただの辻斬りなら、お前の腕でもなんとかなるだろう。だが、今回は様子がおかしい。……妖の類が絡んでいるとなれば、我ら武士の手には負えん」
父上は、文机の引き出しから古びた紙を取り出した。
「町外れの廃屋に、榊という男がいる。……かつて寺社奉行所で、妖絡みの厄介ごとを専門に扱っていた男だ。そやつを頼れ」
「……ということがありまして、こちらに伺った次第です」
私は語り終え、じっと榊の反応を待った。目の前の男は、相変わらずキセルを燻らし、どこか他人事のように天井のろくろ首を眺めている。
ここに来るまで、なぜ父が元とはいえ部外者を頼れと言ったのか不思議だったが、先ほどからしっかりと見えているこの妖たち。これで合点がいった。
「……血の出ない傷、ね。お前さん、その商人の傷口、なにか変な匂いがしなかったか?」
榊が不意に、鋭い視線を私に向けた。
「匂い……? いえ、そこまでは。ただ、あまりの不自然さに、背筋が凍るような思いがしました」
「だろうな。……そいつはカマイタチの仕業だ。だが、今の江戸にいるカマイタチは、そんな無粋な殺し方はしねえはずなんだがな」
榊はキセルを青銅器に叩きつけ、灰を落とした。
「……ま、お役人様の頼みだ。重い腰を上げるとするか。おい、木偶人形。お前さんもついてこい。そのなまくらが、ただの棒切れになるか、それとも役に立つか……見極めてやるよ」
「ですから、雛です! それと父がどうしてもと言うから歯引きはしてますが、決してなまくらではありません、お役に立ってみせます!」
私は立ち上がり、威勢よく言い返した。その足元で、座敷童たちが
「いけいけー! なまくらお嬢様ー!」
とはやし立てているのが、猛烈に癪に障るのだった。
こんなものに一つ一つ突っ込んでいたら、私の貴重な精神力が削り取られてしまう。
「すごいな。もう妖たちに慣れたのか」
「女とは言え私にも武士の血は流れていますから」
私は一つ息を吐き、今朝起きた、不可解極まりない事件について語り始めた。
今朝の江戸は、雲一つない快晴だった。私はいつものように、近所の長屋の子供たちを集めて裏山で鬼ごっこをしていた。
「ねえ、雛姉ちゃん。他の家のお嬢さんは、お花とかお茶とか、お嫁に行くための習い事をしてる時間だよ? こんなところで泥だらけになってていいの?」
生意気盛りの太一が、鼻をすすりながらそんなことを言ってきた。まったく、最近の子供は妙に現実的で困る。
「いいのよ! お花を活けてる間に賊に襲われたらどうするの? 自分の身は自分で守る。それが西園寺家の教えなのっ!」
嘘だ。父上は
「少しは淑やかになれ」
と毎日嘆いている。だが、私は花の香りを嗅ぐより、竹刀を振って汗を流す方がよっぽど性に合っているのだ。
「へー。でも、雛姉ちゃん、刀も持ってないじゃない。その杖、中身はただのなまくらなんでしょ?」
「なまくらでも、私の腕ならそこらの一人や二人は……!」
言い返そうとした、その時だった。
「ひ、ひぃぃぃぃっ! 助けてくれぇっ!」
路地の向こうから、叫び声が響いた。私は遊びを切り上げ、弾かれたように走り出した。子供たちには
「そこで待ってなさい!」
と言い残し、声を頼りに角を曲がる。
そこには、近所でよく見かける一人の商人が倒れていた。背中をざっくりと切り裂かれ、着物は無残に裂けている。相当な深手だ。私は慌てて駆け寄り、商人の体を支えた。
「しっかりしてください! 今、お医者を……」
そこまで言って、私は言葉を失った。商人の背中には、掌ほどもある大きな切り傷がある。肉が裂け、骨さえ見えそうなほど深い。なのに——。
「……血が、出ていない?」
傷口は真っ赤だった。しかし血は出ていない。まるで、生きている人間の体から「鮮血」という概念だけが抜き取られたかのように、一滴の赤も流れていないのだ。
「誰にやられたのですか? 犯人の姿は!」
「わ、わからない……。誰も、いなかったはずなんだ……。ただ、風が吹いたと思ったら、急に……っ」
商人は苦しげに喘ぎながら、そう答えるのが精一杯だった。
私は急いで近所の医者へ商人を運び込み、そのまま奉行所、そして屋敷に戻って父上へと事の次第を報告した。話を聞いた父上の表情は、今まで見たことがないほど厳しかった。
「雛。先ほど、別の場所でも似たような事件があったとの報が入った。……やはり、そうか」
「父上、これは普通の辻斬りではありません。私が必ず下手人を捕まえて……!」
「ならぬ。相手がただの辻斬りなら、お前の腕でもなんとかなるだろう。だが、今回は様子がおかしい。……妖の類が絡んでいるとなれば、我ら武士の手には負えん」
父上は、文机の引き出しから古びた紙を取り出した。
「町外れの廃屋に、榊という男がいる。……かつて寺社奉行所で、妖絡みの厄介ごとを専門に扱っていた男だ。そやつを頼れ」
「……ということがありまして、こちらに伺った次第です」
私は語り終え、じっと榊の反応を待った。目の前の男は、相変わらずキセルを燻らし、どこか他人事のように天井のろくろ首を眺めている。
ここに来るまで、なぜ父が元とはいえ部外者を頼れと言ったのか不思議だったが、先ほどからしっかりと見えているこの妖たち。これで合点がいった。
「……血の出ない傷、ね。お前さん、その商人の傷口、なにか変な匂いがしなかったか?」
榊が不意に、鋭い視線を私に向けた。
「匂い……? いえ、そこまでは。ただ、あまりの不自然さに、背筋が凍るような思いがしました」
「だろうな。……そいつはカマイタチの仕業だ。だが、今の江戸にいるカマイタチは、そんな無粋な殺し方はしねえはずなんだがな」
榊はキセルを青銅器に叩きつけ、灰を落とした。
「……ま、お役人様の頼みだ。重い腰を上げるとするか。おい、木偶人形。お前さんもついてこい。そのなまくらが、ただの棒切れになるか、それとも役に立つか……見極めてやるよ」
「ですから、雛です! それと父がどうしてもと言うから歯引きはしてますが、決してなまくらではありません、お役に立ってみせます!」
私は立ち上がり、威勢よく言い返した。その足元で、座敷童たちが
「いけいけー! なまくらお嬢様ー!」
とはやし立てているのが、猛烈に癪に障るのだった。

