長屋の薄暗い格子戸をそっと閉め、私は小さく溜息をついた。
胸の奥を、鉛のような重い感情が占めていた。二年前に夫を亡くし、さらに寝たきりで盲目の義父を、あの狭く暗い部屋でたった一人で世話し続けているお蓮さん。町中の誰もが彼女を健気な苦労人と称賛し、同情する理由が、実際にあの老人の姿を見たことで痛いほどよく分かった。
しかし、だからこそ、私の心にこびりついたあの違和感が、より一層不気味な形となって膨れ上がってくる。
「……聞いたぜ。爺さんの目は完全に光を失っているな。呼吸の音も浅い。だが、それだけじゃねえ」
長屋の外、壁に背を預けていた榊が、私が戻るなりぶっきらぼうに言った。彼は順風耳の術を解いたのか、右耳から指を離し、いつもの気だるげな表情に戻っている。
「それだけではない、とはどういう意味ですか? お義父様は本当に弱っていらっしゃいました。やはり、この家が何らかの不吉な呪いに晒されているのでは……」
「呪いねぇ。そんな安っぽいもんなら、俺が札の一枚でも貼れば一発で解決するんだがな。その逆だよ。多分な」
榊はキセルを咥えたが、火はつけず、細い路地の先へと視線を向けた。
「直接、そのお蓮って女の顔を拝みに行くか。ちょうど腹も減った。その女が働いてるっていう蕎麦屋が、通りにあるんだろ?」
「えっ、今から行くのですか? ……あ、でも、確かに私もお腹が空きました」
緊張していたせいか、榊の言葉を聞いた途端、私の身勝手なお腹の虫が小さく鳴った。
「はは、流石はゼンマイ仕掛けの木偶人形だな。飯の気配を察知する速度だけは神速だ。ほら、行くぞ」
「雛と呼んでください! もう、いちいち一言多くて本当に癪に障ります!」
私は大股で歩き出した榊の背中を、小走りで追いかけた。
長屋がひしめく薄暗い路地裏を抜け、大通りへと出ると、そこは夕刻の活気に満ちあふれていた。仕事を終えた職人や町人たちが足早に行き交い、家々の軒先からは夕餉の支度の香ばしい匂いが漂ってくる。
目的の蕎麦屋は、大通りから一本入った賑やかな辻に店を構えていた。白地のはためく暖簾には、大きく「あづま庵」と染め抜かれている。店の前を通りかかっただけで、鰹節の上品な出汁の香りが鼻をくすぐり、私の食欲は完全に火がついた。
「ここですね」
「あぁ、出汁の引き方は悪くねえな。入るぞ」
榊が暖簾を押し上げ、ガラガラと格子戸を開けて店内に足を踏み入れる。
店内は、すでに仕事帰りの男たちや近所の常連客でほぼ満席だった。
「いらっしゃい!」
という威勢の良い声が飛び交い、茹であがる蕎麦の白い湯気が天井へと立ち上っている。私たちは運良く空いていた壁際の小さな卓へと腰を下ろした。
「……あ、あの方ですね」
私は、店内の狭い通路を忙しなく立ち回っている一人の女性に目を留めた。それこそが、今朝私が町で見かけたお蓮さんだった。
地味な藍色の前垂れを締め、髪を後ろで綺麗にまとめた彼女は、男たちの注文を小気味よく捌いていた。
「はい、お待たせしました! かけ蕎麦のお客さん、お熱いから気を付けてね!」
その笑顔は、湯気に煙る店内の空気を一瞬で爽やかに変えてしまうほど、瑞々しく、そして美しかった。町中で「出来た嫁」と絶賛されるのも無理はない。彼女が近くを通るたび、職人たちが嬉しそうに鼻の下を伸ばしているのがよく分かる。
しかし、私は彼女が私たちの卓へと近づいてくるにつれ、再び背筋に冷たいものが走るのを感じた。やはり、おかしい。
彼女の顔立ちや、町人に向ける丁寧な物腰には、一点の曇りもないように見える。なのに、私の目が捉える彼女の輪郭は、まるで水底に沈んだ鏡のように、ゆらゆらと不自然に歪んでいるのだ。何かに取り憑かれているというより、彼女の存在そのものが、この現世の理からほんの少しだけ浮き上がっているような、そんな奇妙な錯覚を覚えた。
「お待たせいたしました。おや、お見かけしないお顔ですね。ご注文は何にいたしましょう?」
お蓮さんが、私たちの卓の前に立ち、鈴を転がすような綺麗な声で微笑みかけてきた。その瞳は澄んでいて、どこまでも親切な人間のそれだった。
「あぁ、かけそばを一枚。熱いやつな」
榊が、いつもの気だるげな調子で品書きも見ずに注文する。相変わらず、食に対する執着が薄い男だ。
「はい、かけ蕎麦おひとつ。……そちらのお嬢さんは、何にいたしますか?」
お蓮さんの優しい視線が私へと向けられる。私は、壁に貼られた品書きの木札をじっと見つめ、喉を鳴らした。
周りの客の話を総合するに、この店はお揚げさんにもの凄くこだわっている。手作りで、絶品なのだと。
ならば、それを試さないわけにはいかない。しかし、道場での稽古を終えた私の胃袋は、それだけでは満足できないと猛烈に主張していた。
「私は、きつね蕎麦をお願いします。……あ、それから、もしよろしければ、その上にかき揚げと生卵も一緒に盛り込んでいただけますか?」
私の豪快な注文に、お蓮さんは一瞬、驚いたように大きな目を丸くした。だが、すぐに破顔し、嬉しそうに前垂れを揺らした。
「まぁ! きつね蕎麦に、かき揚げと卵のせですね。見た目によらず、ずいぶんと気持ちの良い食べっぷりのお嬢さんだこと。はい、喜んでお作りしますね。少々お待ちください」
お蓮さんが軽やかな足取りで厨房へと下がっていく。その背中を見送りながら、私はふぅと息を吐いた。
しかし、正面からの冷ややかな視線に気づき、私はハッと我に返った。
榊が、これ以上ないほどジトっとした目で、私を値踏みするように見つめていた。
「……おい、お前。よく食うな」
「な、何ですか、藪から棒に」
「きつね蕎麦にかき揚げを乗せて、さらに卵だと? どんだけ欲張れば気が済むんだ。ヒダル神でも憑いてんのか」
榊は呆れたように大きな溜息をつき、銀のキセルを指先で弄んだ。店内の人目がなければ、今すぐにでも煙を吹きかけてきそうな勢いだ。
「失礼なことを言わないでください! これには明確な道理があるんです。さっき八百屋の旦那さんが言っていたでしょう? このお店は、お揚げさんにもの凄くこだわっているって。すべて手作りで、大人気なんですって。そんな職人さんの魂がこもった一品を食さないなんて、非礼というものです」
「そうかいそうかい」
「それに、たくさん食べるのは武家の娘のたしなみです! いざという時に江戸の平明を守るためには、人一倍の体力を蓄えておかなければならないのです。西園寺家の教えにも『腹が減っては戦はできぬ』とあります!」
「……嘘つけ。お前の親父さんは毎日『少しは淑やかになれ』って嘆いてるんだろ。たしなみってのは、もっと雀の涙ほどしか食わねえ、お上品な振る舞いのことを言うんだよ。自分の底なしの食い意地を武士の誇りで正当化するな」
「大食いって言いましたね!? ひどすぎます!」
私が顔を真っ赤にして抗議していると、厨房から「はい、お待たせしました!」と、お蓮さんがお盆を抱えて戻ってきた。
「こちら、かけ蕎麦ですね。そして、お嬢さんの、特製きつねかき揚げ卵蕎麦です。ごゆっくりどうぞ」
お蓮さんが手際よく卓の上に丼を並べていく。
私の前に置かれた丼は、まさに圧倒的な威容を誇っていた。丼の表面の半分を覆い尽くさんばかりの、黄金色に輝く巨大なお揚げ。その隣には、小エビや野菜がぎっしりと詰まった、サクサクと音を立てそうな分厚いかき揚げが鎮座している。そして中央には、まるでお月様のようにぷっくりと盛り上がった生卵が、美しい橙色の光を放っていた。出汁の濃厚な香りが湯気と共に立ち上り、私の鼻を激しく揺さぶる。
「美味しそう……! いただきます!」
私は箸を割り、まずは一番お目当てのお揚げを一口かじった。
ジュワッ……。
口の中に広がる、圧倒的な旨味。甘辛く、しかし決して下品ではない、奥深い出汁の味が、丁寧に煮込まれたお揚げの繊維から溢れ出してくる。大豆の豊かな風味と、鰹の絶妙に利いたお汁が完璧に調和していた。
「おいしい……! 榊さん、これ、本当に絶品です!」
「あぁ、そうかい」
榊はといえば、私の大騒ぎを完全に無視し、目の前のかけそばを静かに啜っていた。だが、その目は、蕎麦の味を楽しんでいるというより、やはりどこか冷徹だった。
私が夢中でかき揚げを崩し、卵の黄身を絡めながら蕎麦を啜っている間も、お蓮さんは他のお客の対応に追われていた。酔っ払った職人が
「おい、お蓮ちゃん、今度うちに遊びに来てくれよ!」
と絡んでも、彼女は嫌な顔一つせず
「まぁ、嬉しい。でも、お義父様が待っていますから、また今度ね」
と、実に見事に、そして優しくあしらっている。
誰もが彼女を絶賛し、その健気さに心を打たれる理由が、この店の中を見ているだけでも本当によく分かった。彼女は間違いなく、江戸の町を照らす一輪の美しい花だった。
しかし、ふと隣を見たら、榊はすでに蕎麦を平らげ、お蓮の動きをじっと観察していた。その切れ長の瞳は、彼女の美しさに見惚れているわけでは決してない。
お蓮さんが厨房の奥へと下がった瞬間、榊は小さく鼻をひくつかせ、誰にも聞こえないほどの低い声で呟いた。
「……そういうことか」
「え? 何が分かったんですか?」
私が蕎麦を飲み込みながら尋ねると、榊は何も答えず、懐から小銭を取り出して卓の上に置いた。
「勘定はここに置くぞ。行くぞ、雛」
「あ、待ってください! お汁を最後まで飲み干してから……っ」
「太るぞ。とっとと立て」
私は名残惜しそうに丼を見つめつつ、慌てて杖を手に取り、席を立ったのだった。
店を出ると、江戸の町はすっかり夜の帳に包まれていた。通りに並ぶ店々の軒先には提灯が灯り、夜風が火照った体を心地よく冷やしてくれる。
「ふぅ、美味しかった……。お揚げさんもおそばも、本当に職人さんの技が光る逸品でしたね。榊さんも、少しは満足しましたか?」
私が満足感に浸りながらお腹をさすっていると、前を歩く榊の足がピタリと止まった。
「……雛。あそこを見ろ」
榊がキセルの先で指し示したのは、蕎麦屋の敷地のすぐ脇、細い路地の辻にひっそりと佇む、小さな祠だった。
小さなお稲荷さん。しかし、近づいていくにつれ、私は妙な違和感に襲われた。
「……あれ?」
そのお稲荷さんは、驚くほど綺麗だった。
数町離れた長屋の近くで見た、あの蜘蛛の巣だらけで荒れ果てたお稲荷さんとは、何もかもが対照的だった。
木造の小さな社は、まるですぐ昨日、誰かが丁寧に磨き上げたかのように、木肌がしっとりと光り輝いている。周囲の地面には、一枚の落ち葉も、一粒の砂埃すら落ちていないほど完璧に掃き清められていた。
そして、何より目を引いたのは、台座の前に供えられた物だった。
小さな折敷の上、丁寧に重ねられた、きつね色の立派なお揚げさんが二枚。
ふわりと、夕風に乗って、香ばしい、解き難いほど嗅ぎ覚えのある匂いが漂ってくる。榊がふいと腰を落とし、そのお揚げに顔を近づけて鼻をひくつかせた。
「……さっきの店のお揚げだ」
「えっ……?」
私も慌てて屈み込み、そのお供え物を見つめた。間違いない。この独特の、甘辛く煮込まれた奥深い出汁の香り、そしてふっくらとした肉厚な質感。先ほど私が蕎麦の上で、至福の表情と共に噛み締めた、あの蕎麦屋の特製お揚げそのものだった。
「食うなよ」
「お供え物は食べませんよ! ……これ、お蓮さんかお店の人がここにお供えしたのでしょうか? このお稲荷さんを、こんなに綺麗に手入れして……。やっぱり、信心深くて本当に良い人じゃないですか。自分の大切な旦那様を亡くして、お義父様が病気だから、神様に必死に祈っているんですよ」
私は、お蓮さんの健気な姿を想像し、少しだけ胸が熱くなった。しかし、榊はゆっくりと立ち上がると、瞳を冷たく光らせ、地を這うような低い声で呟いた。
「……あぁ。まぁ、そういうことだな」
その声には、私の感動を粉々に打ち砕くような、冷徹なまでの確信が宿っていた。
「え……? どういうことですか? 何か不吉なことでも分かったんですか、榊さん!」
「そんないい人なら、なんで自分の家の近くのお稲荷さんは綺麗にしないんだ?」
「え? あぁ、そう言えば、確かに。榊さんには理由がわかるんですか?」
私は、たまらず彼の着物の裾を引っ張って詰め寄った。信心深い苦労人の嫁が、お稲荷さんにお揚げを供えている。それだけの、美しくも涙ぐましい景色のはずなのに、この男の反応はあまりに不穏すぎる。
だが、榊はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。無造作にキセルを懐へと仕舞い込み、大股で踵を返す。
「——一旦、屋敷に戻ろう」
「ちょっと、待ってください! 説明してくださいよ、妖屋! 私を大食い木偶人形扱いしておいて、自分だけ納得して帰るなんてずるいです!」
私の必死の抗議の声を、江戸の夜の始まりを告げる冷たい風が、暗闇の奥へとさらっていった。
目に見える美談の裏側で、江戸の闇が、また一つ静かに、その口を開けようとしているのを、私は仕込み杖の重みと共に、確かに感じていたのだった。
胸の奥を、鉛のような重い感情が占めていた。二年前に夫を亡くし、さらに寝たきりで盲目の義父を、あの狭く暗い部屋でたった一人で世話し続けているお蓮さん。町中の誰もが彼女を健気な苦労人と称賛し、同情する理由が、実際にあの老人の姿を見たことで痛いほどよく分かった。
しかし、だからこそ、私の心にこびりついたあの違和感が、より一層不気味な形となって膨れ上がってくる。
「……聞いたぜ。爺さんの目は完全に光を失っているな。呼吸の音も浅い。だが、それだけじゃねえ」
長屋の外、壁に背を預けていた榊が、私が戻るなりぶっきらぼうに言った。彼は順風耳の術を解いたのか、右耳から指を離し、いつもの気だるげな表情に戻っている。
「それだけではない、とはどういう意味ですか? お義父様は本当に弱っていらっしゃいました。やはり、この家が何らかの不吉な呪いに晒されているのでは……」
「呪いねぇ。そんな安っぽいもんなら、俺が札の一枚でも貼れば一発で解決するんだがな。その逆だよ。多分な」
榊はキセルを咥えたが、火はつけず、細い路地の先へと視線を向けた。
「直接、そのお蓮って女の顔を拝みに行くか。ちょうど腹も減った。その女が働いてるっていう蕎麦屋が、通りにあるんだろ?」
「えっ、今から行くのですか? ……あ、でも、確かに私もお腹が空きました」
緊張していたせいか、榊の言葉を聞いた途端、私の身勝手なお腹の虫が小さく鳴った。
「はは、流石はゼンマイ仕掛けの木偶人形だな。飯の気配を察知する速度だけは神速だ。ほら、行くぞ」
「雛と呼んでください! もう、いちいち一言多くて本当に癪に障ります!」
私は大股で歩き出した榊の背中を、小走りで追いかけた。
長屋がひしめく薄暗い路地裏を抜け、大通りへと出ると、そこは夕刻の活気に満ちあふれていた。仕事を終えた職人や町人たちが足早に行き交い、家々の軒先からは夕餉の支度の香ばしい匂いが漂ってくる。
目的の蕎麦屋は、大通りから一本入った賑やかな辻に店を構えていた。白地のはためく暖簾には、大きく「あづま庵」と染め抜かれている。店の前を通りかかっただけで、鰹節の上品な出汁の香りが鼻をくすぐり、私の食欲は完全に火がついた。
「ここですね」
「あぁ、出汁の引き方は悪くねえな。入るぞ」
榊が暖簾を押し上げ、ガラガラと格子戸を開けて店内に足を踏み入れる。
店内は、すでに仕事帰りの男たちや近所の常連客でほぼ満席だった。
「いらっしゃい!」
という威勢の良い声が飛び交い、茹であがる蕎麦の白い湯気が天井へと立ち上っている。私たちは運良く空いていた壁際の小さな卓へと腰を下ろした。
「……あ、あの方ですね」
私は、店内の狭い通路を忙しなく立ち回っている一人の女性に目を留めた。それこそが、今朝私が町で見かけたお蓮さんだった。
地味な藍色の前垂れを締め、髪を後ろで綺麗にまとめた彼女は、男たちの注文を小気味よく捌いていた。
「はい、お待たせしました! かけ蕎麦のお客さん、お熱いから気を付けてね!」
その笑顔は、湯気に煙る店内の空気を一瞬で爽やかに変えてしまうほど、瑞々しく、そして美しかった。町中で「出来た嫁」と絶賛されるのも無理はない。彼女が近くを通るたび、職人たちが嬉しそうに鼻の下を伸ばしているのがよく分かる。
しかし、私は彼女が私たちの卓へと近づいてくるにつれ、再び背筋に冷たいものが走るのを感じた。やはり、おかしい。
彼女の顔立ちや、町人に向ける丁寧な物腰には、一点の曇りもないように見える。なのに、私の目が捉える彼女の輪郭は、まるで水底に沈んだ鏡のように、ゆらゆらと不自然に歪んでいるのだ。何かに取り憑かれているというより、彼女の存在そのものが、この現世の理からほんの少しだけ浮き上がっているような、そんな奇妙な錯覚を覚えた。
「お待たせいたしました。おや、お見かけしないお顔ですね。ご注文は何にいたしましょう?」
お蓮さんが、私たちの卓の前に立ち、鈴を転がすような綺麗な声で微笑みかけてきた。その瞳は澄んでいて、どこまでも親切な人間のそれだった。
「あぁ、かけそばを一枚。熱いやつな」
榊が、いつもの気だるげな調子で品書きも見ずに注文する。相変わらず、食に対する執着が薄い男だ。
「はい、かけ蕎麦おひとつ。……そちらのお嬢さんは、何にいたしますか?」
お蓮さんの優しい視線が私へと向けられる。私は、壁に貼られた品書きの木札をじっと見つめ、喉を鳴らした。
周りの客の話を総合するに、この店はお揚げさんにもの凄くこだわっている。手作りで、絶品なのだと。
ならば、それを試さないわけにはいかない。しかし、道場での稽古を終えた私の胃袋は、それだけでは満足できないと猛烈に主張していた。
「私は、きつね蕎麦をお願いします。……あ、それから、もしよろしければ、その上にかき揚げと生卵も一緒に盛り込んでいただけますか?」
私の豪快な注文に、お蓮さんは一瞬、驚いたように大きな目を丸くした。だが、すぐに破顔し、嬉しそうに前垂れを揺らした。
「まぁ! きつね蕎麦に、かき揚げと卵のせですね。見た目によらず、ずいぶんと気持ちの良い食べっぷりのお嬢さんだこと。はい、喜んでお作りしますね。少々お待ちください」
お蓮さんが軽やかな足取りで厨房へと下がっていく。その背中を見送りながら、私はふぅと息を吐いた。
しかし、正面からの冷ややかな視線に気づき、私はハッと我に返った。
榊が、これ以上ないほどジトっとした目で、私を値踏みするように見つめていた。
「……おい、お前。よく食うな」
「な、何ですか、藪から棒に」
「きつね蕎麦にかき揚げを乗せて、さらに卵だと? どんだけ欲張れば気が済むんだ。ヒダル神でも憑いてんのか」
榊は呆れたように大きな溜息をつき、銀のキセルを指先で弄んだ。店内の人目がなければ、今すぐにでも煙を吹きかけてきそうな勢いだ。
「失礼なことを言わないでください! これには明確な道理があるんです。さっき八百屋の旦那さんが言っていたでしょう? このお店は、お揚げさんにもの凄くこだわっているって。すべて手作りで、大人気なんですって。そんな職人さんの魂がこもった一品を食さないなんて、非礼というものです」
「そうかいそうかい」
「それに、たくさん食べるのは武家の娘のたしなみです! いざという時に江戸の平明を守るためには、人一倍の体力を蓄えておかなければならないのです。西園寺家の教えにも『腹が減っては戦はできぬ』とあります!」
「……嘘つけ。お前の親父さんは毎日『少しは淑やかになれ』って嘆いてるんだろ。たしなみってのは、もっと雀の涙ほどしか食わねえ、お上品な振る舞いのことを言うんだよ。自分の底なしの食い意地を武士の誇りで正当化するな」
「大食いって言いましたね!? ひどすぎます!」
私が顔を真っ赤にして抗議していると、厨房から「はい、お待たせしました!」と、お蓮さんがお盆を抱えて戻ってきた。
「こちら、かけ蕎麦ですね。そして、お嬢さんの、特製きつねかき揚げ卵蕎麦です。ごゆっくりどうぞ」
お蓮さんが手際よく卓の上に丼を並べていく。
私の前に置かれた丼は、まさに圧倒的な威容を誇っていた。丼の表面の半分を覆い尽くさんばかりの、黄金色に輝く巨大なお揚げ。その隣には、小エビや野菜がぎっしりと詰まった、サクサクと音を立てそうな分厚いかき揚げが鎮座している。そして中央には、まるでお月様のようにぷっくりと盛り上がった生卵が、美しい橙色の光を放っていた。出汁の濃厚な香りが湯気と共に立ち上り、私の鼻を激しく揺さぶる。
「美味しそう……! いただきます!」
私は箸を割り、まずは一番お目当てのお揚げを一口かじった。
ジュワッ……。
口の中に広がる、圧倒的な旨味。甘辛く、しかし決して下品ではない、奥深い出汁の味が、丁寧に煮込まれたお揚げの繊維から溢れ出してくる。大豆の豊かな風味と、鰹の絶妙に利いたお汁が完璧に調和していた。
「おいしい……! 榊さん、これ、本当に絶品です!」
「あぁ、そうかい」
榊はといえば、私の大騒ぎを完全に無視し、目の前のかけそばを静かに啜っていた。だが、その目は、蕎麦の味を楽しんでいるというより、やはりどこか冷徹だった。
私が夢中でかき揚げを崩し、卵の黄身を絡めながら蕎麦を啜っている間も、お蓮さんは他のお客の対応に追われていた。酔っ払った職人が
「おい、お蓮ちゃん、今度うちに遊びに来てくれよ!」
と絡んでも、彼女は嫌な顔一つせず
「まぁ、嬉しい。でも、お義父様が待っていますから、また今度ね」
と、実に見事に、そして優しくあしらっている。
誰もが彼女を絶賛し、その健気さに心を打たれる理由が、この店の中を見ているだけでも本当によく分かった。彼女は間違いなく、江戸の町を照らす一輪の美しい花だった。
しかし、ふと隣を見たら、榊はすでに蕎麦を平らげ、お蓮の動きをじっと観察していた。その切れ長の瞳は、彼女の美しさに見惚れているわけでは決してない。
お蓮さんが厨房の奥へと下がった瞬間、榊は小さく鼻をひくつかせ、誰にも聞こえないほどの低い声で呟いた。
「……そういうことか」
「え? 何が分かったんですか?」
私が蕎麦を飲み込みながら尋ねると、榊は何も答えず、懐から小銭を取り出して卓の上に置いた。
「勘定はここに置くぞ。行くぞ、雛」
「あ、待ってください! お汁を最後まで飲み干してから……っ」
「太るぞ。とっとと立て」
私は名残惜しそうに丼を見つめつつ、慌てて杖を手に取り、席を立ったのだった。
店を出ると、江戸の町はすっかり夜の帳に包まれていた。通りに並ぶ店々の軒先には提灯が灯り、夜風が火照った体を心地よく冷やしてくれる。
「ふぅ、美味しかった……。お揚げさんもおそばも、本当に職人さんの技が光る逸品でしたね。榊さんも、少しは満足しましたか?」
私が満足感に浸りながらお腹をさすっていると、前を歩く榊の足がピタリと止まった。
「……雛。あそこを見ろ」
榊がキセルの先で指し示したのは、蕎麦屋の敷地のすぐ脇、細い路地の辻にひっそりと佇む、小さな祠だった。
小さなお稲荷さん。しかし、近づいていくにつれ、私は妙な違和感に襲われた。
「……あれ?」
そのお稲荷さんは、驚くほど綺麗だった。
数町離れた長屋の近くで見た、あの蜘蛛の巣だらけで荒れ果てたお稲荷さんとは、何もかもが対照的だった。
木造の小さな社は、まるですぐ昨日、誰かが丁寧に磨き上げたかのように、木肌がしっとりと光り輝いている。周囲の地面には、一枚の落ち葉も、一粒の砂埃すら落ちていないほど完璧に掃き清められていた。
そして、何より目を引いたのは、台座の前に供えられた物だった。
小さな折敷の上、丁寧に重ねられた、きつね色の立派なお揚げさんが二枚。
ふわりと、夕風に乗って、香ばしい、解き難いほど嗅ぎ覚えのある匂いが漂ってくる。榊がふいと腰を落とし、そのお揚げに顔を近づけて鼻をひくつかせた。
「……さっきの店のお揚げだ」
「えっ……?」
私も慌てて屈み込み、そのお供え物を見つめた。間違いない。この独特の、甘辛く煮込まれた奥深い出汁の香り、そしてふっくらとした肉厚な質感。先ほど私が蕎麦の上で、至福の表情と共に噛み締めた、あの蕎麦屋の特製お揚げそのものだった。
「食うなよ」
「お供え物は食べませんよ! ……これ、お蓮さんかお店の人がここにお供えしたのでしょうか? このお稲荷さんを、こんなに綺麗に手入れして……。やっぱり、信心深くて本当に良い人じゃないですか。自分の大切な旦那様を亡くして、お義父様が病気だから、神様に必死に祈っているんですよ」
私は、お蓮さんの健気な姿を想像し、少しだけ胸が熱くなった。しかし、榊はゆっくりと立ち上がると、瞳を冷たく光らせ、地を這うような低い声で呟いた。
「……あぁ。まぁ、そういうことだな」
その声には、私の感動を粉々に打ち砕くような、冷徹なまでの確信が宿っていた。
「え……? どういうことですか? 何か不吉なことでも分かったんですか、榊さん!」
「そんないい人なら、なんで自分の家の近くのお稲荷さんは綺麗にしないんだ?」
「え? あぁ、そう言えば、確かに。榊さんには理由がわかるんですか?」
私は、たまらず彼の着物の裾を引っ張って詰め寄った。信心深い苦労人の嫁が、お稲荷さんにお揚げを供えている。それだけの、美しくも涙ぐましい景色のはずなのに、この男の反応はあまりに不穏すぎる。
だが、榊はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。無造作にキセルを懐へと仕舞い込み、大股で踵を返す。
「——一旦、屋敷に戻ろう」
「ちょっと、待ってください! 説明してくださいよ、妖屋! 私を大食い木偶人形扱いしておいて、自分だけ納得して帰るなんてずるいです!」
私の必死の抗議の声を、江戸の夜の始まりを告げる冷たい風が、暗闇の奥へとさらっていった。
目に見える美談の裏側で、江戸の闇が、また一つ静かに、その口を開けようとしているのを、私は仕込み杖の重みと共に、確かに感じていたのだった。

