深い竹藪を抜け、私は見慣れたボロ屋敷の門をくぐった。相変わらず不自然な陰が落ちる庭を抜け、軋む廊下を進んで一番奥の座敷へ向かう。いつもなら榊がだらしなく寝転がっているはずのその場所は、今朝もまた別の意味で大賑わいだった。
「ほら、そこは一回休みだ。字が読めねえならサイコロを振るんじゃねえ、小豆洗い」
「ひぇぇ、また休みけぇ! このすごろく、鬼ばっかりじゃ!」
座敷の真ん中、大きな紙のすごろくを囲んで、数体の妖たちが車座になっていた。小豆洗いや座敷童、さらには天井から首を伸ばしたろくろ首までが、真剣な目で紙面を見つめている。
その中心で、榊はだらしなく片膝を立てて座り、銀のキセルをぷかぷかとふかしていた。文字の読めない妖たちのために、めんどくさそうにマス目の内容を教えてやっているらしい。その姿は、妙に面倒見の良い寺子屋の師匠のようでもあり、見ていて少し調子が狂う。
「……何しに来た、雛。今日は約束はねえはずだぞ。ネジの巻き忘れなら、そこの座敷童にでも巻いてもらえ」
「木偶人形って言わなくなったのは進歩ですけど、勝手にゼンマイ仕掛けにしないでください。……榊さん、ちょっと真面目な相談があるんです」
私の真剣な声に、榊はめんどくさそうに片目を開け、妖たちに「お前ら、あっちでやれ」と手で追いやった。妖たちがすごろくを抱えて部屋の隅へと退散するのを見届け、私は居住まいを正して正座した。
「今朝、町でお蓮さんという綺麗な女性を見かけたんです。普通に買い物をしていたのですが……雰囲気が明らかにおかしかったの。彼女の周りだけ、空気が澱んだ水みたいに歪んで見えました。間違いなく、妖の気配です」
「ほう」
「気になって八百屋の旦那さんに話を聞いたら、彼女、二年前に旦那さんを原因不明の奇病で亡くしているそうで。今は、寝たきりになった義理の父親を一人で介護しながら、近くの蕎麦屋で細々と働いている苦労人だって、町中から健気だと大評判なんです」
榊はキセルの灰を青銅器に落とし、私の話をじっと聞いていた。だが、その切れ長の瞳には、いつもの冷徹な光が宿っている。
「で? そのお蓮って女は、何かに憑かれてるのか、あるいは妖そのものが化けてるのか」
「それが、直接見た感じでは、何かに取り憑かれているような悍ましい雰囲気はなかったんです。ただ、本人の気配そのものが歪んでいるというか……。でも、旦那様が亡くなって、お義父様まで体が悪くなっているなんて、家ごと呪われている可能性だってありますよね?」
「直接見ねえことには、何とも言えねえな」
榊は立ち上がり、首をコキコキと鳴らした。
「だが、町中から愛されている嫁、ねぇ。……よし、まずはその長屋の爺さんから当たってみるか。雛、そこらの店で適当な菓子折りでも買ってこい。囮の次は、手土産持ちの使い走りだ」
「もう、人使いが荒いんだから! ……でも、分かりました」
菓子折りを買い求め、指定された路地裏の長屋へと向かう道中。密集する古い家々の隙間に、ひっそりと佇む小さなお稲荷さんを見つけた。
木造の鳥居は赤みがすっかり褪せ、至るところに蜘蛛の巣が張っている。雨風に晒された社は小さく傾き、本来なら神聖であるはずのその空間は、まるで忘れ去られた遺物のようだった。
「……随分と荒れていますね。お供え物の一つもありません」
私が足を止めると、榊もキセルを咥えたまま、珍しく怪訝そうに眉をひそめてその社を見つめた。
「……おかしいな」
「何がですか?」
「妖気がねえのは当然だが、神気すら枯れ果ててやがる。いいか、雛。お稲荷さんってのは、江戸の至るところにある。人間に忘れられたボロ社だろうが、大抵は神の使いである狐の妖が一匹くらいは居着いて、縄張りを張ってるもんなんだよ」
榊はキセルの先で、誰もいない小さな台座を指した。
「ここにはそれがねえ。狐が眷属ごと、この場所をごっそり見限って逃げ出したか、あるいは……何かに追い出されたかだ」
「神様のお使いが追い出されるなんてことがあるんですか? 単に、あまりに社が汚れているから、神様が見限ってどこかへ行ってしまったんじゃ……」
「さぁな」
榊は吐き捨てるように言うと、珍しくキセルを懐に仕舞い、その寂れた社の前で静かに背筋を伸ばした。
そして、大きな手のひらを合わせ、目を閉じて深く一礼した。
口を開けば毒ばかり吐く、いかがわしい商売の男。けれど、八百万の神仏が作った江戸を誰よりも愛し、敬意を払っているのは、紛れもなくこの男なのだ。
「……神様、お騒がせして申し訳ありません」
私も彼の隣に並び、仕込み杖を傍らに立てて、そっと両手を合わせた。
路地裏の長屋は、昼間だというのに薄暗く、ひっそりと静まり返っていた。
お蓮さんの住む部屋の前まで来ると、榊はふと足を止め、右の耳元にそっと指を当てた。彼の周囲の空気が、微かにピリついたような気がする。
「……榊さん、何をしてるんですか?」
「順風耳(じゅんぷうじ)の力を少し借りてる。遠くの微かな声や、壁の向こうの呼吸音を聞き取る妖だ。……中にいるのは爺さん一人。お蓮って女は不在だな。……よし、雛。その菓子折りを持って、部屋を訪ねてこい。俺はここで聞いてる」
「えっ、私一人でですか!? ……う、分かりました」
ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、私は一歩前に出た。手には、途中の和菓子屋で買った包みがある。
深呼吸をして、古びた格子戸を軽く叩いた。
「す、すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
少しの沈黙の後、奥の方から「はい……」と、ひどくかすれた弱々しい声が返ってきた。
「開いておるよ。すまないが、動けなくてね……入っておくれ」
「失礼します……」
戸を開けて中に入ると、そこは三畳ほどの狭い部屋だった。薄暗い万年床の上に、一人の痩せこけた老人が仰向けに寝たきりになっていた。部屋の中には、微かに湿った薬の匂いが漂っている。
「あの……突然押しかけてしまって申し訳ありません。私、雛と申します。昔、こちらの若旦那様に、我が家の物置の修理をしてもらったことがありまして。その時、とても良くしていただいたんです。近くを通りかかったので、ご挨拶にと思いまして……」
とっさに考えた嘘を口にしながら、私は老人の枕元へとにじり寄った。老人は、私の声のする方へゆっくりと顔を向け、申し訳なさそうに薄い唇を震わせた。
「おぉ、息子の知り合いの方かね……。わざわざ来てもらったのに、起き上がれなくてすまないねぇ。なにぶん、もう長いことこの通りの年寄りでな。……だが、せっかく来てくれたのに、本当に悪いんだが……息子は、二年も前に死んでしまったんだよ。お蓮も今はいなくて」
「そう……だったのですか。それは、存じ上げず、大変失礼なことをいたしました。……あの、これ、本当にささやかなものですが、お菓子を置いておきますね。召し上がってください」
私は胸を痛めながら、お菓子の包みを老人の手元へ差し出そうとした。だが、老人はその包みに手を伸ばそうとはしなかった。ただ、空間のまったく違う方向——私の頭上のはるか上の方を見つめたまま、虚ろな目を泳がせていた。
「あ、あの……?」
違和感を覚え、私は老人の顔を覗き込んだ。
彼の濁った瞳は、私の姿を一切捉えていない。光を反射することなく、ただ暗闇の奥をじっと見つめるように、焦点が完全に合っていなかった。
「あぁ、すまないねぇ、お嬢さん。せっかく持ってきてもらったのに、私はここ何年も、目が全く見えなくてね。そこらの机の上にでも、置いといておくれ。娘が帰ってきたらいただくよ」
——目が、見えない。
老人の口から告げられたその事実に、私は息を呑んだ。寝たきりで、さらに盲目。
そんなお義父様を、あの美しいお蓮さんは、二年もの間、この暗い長屋でたった一人で世話し続けているというのか。
私は無言で菓子折りを机に置きながら、部屋の隅の暗がりに、今朝見たお蓮さんのあの歪みが、じっと息を潜めてこちらを見つめているような、強烈な悪寒を感じていた。
「ほら、そこは一回休みだ。字が読めねえならサイコロを振るんじゃねえ、小豆洗い」
「ひぇぇ、また休みけぇ! このすごろく、鬼ばっかりじゃ!」
座敷の真ん中、大きな紙のすごろくを囲んで、数体の妖たちが車座になっていた。小豆洗いや座敷童、さらには天井から首を伸ばしたろくろ首までが、真剣な目で紙面を見つめている。
その中心で、榊はだらしなく片膝を立てて座り、銀のキセルをぷかぷかとふかしていた。文字の読めない妖たちのために、めんどくさそうにマス目の内容を教えてやっているらしい。その姿は、妙に面倒見の良い寺子屋の師匠のようでもあり、見ていて少し調子が狂う。
「……何しに来た、雛。今日は約束はねえはずだぞ。ネジの巻き忘れなら、そこの座敷童にでも巻いてもらえ」
「木偶人形って言わなくなったのは進歩ですけど、勝手にゼンマイ仕掛けにしないでください。……榊さん、ちょっと真面目な相談があるんです」
私の真剣な声に、榊はめんどくさそうに片目を開け、妖たちに「お前ら、あっちでやれ」と手で追いやった。妖たちがすごろくを抱えて部屋の隅へと退散するのを見届け、私は居住まいを正して正座した。
「今朝、町でお蓮さんという綺麗な女性を見かけたんです。普通に買い物をしていたのですが……雰囲気が明らかにおかしかったの。彼女の周りだけ、空気が澱んだ水みたいに歪んで見えました。間違いなく、妖の気配です」
「ほう」
「気になって八百屋の旦那さんに話を聞いたら、彼女、二年前に旦那さんを原因不明の奇病で亡くしているそうで。今は、寝たきりになった義理の父親を一人で介護しながら、近くの蕎麦屋で細々と働いている苦労人だって、町中から健気だと大評判なんです」
榊はキセルの灰を青銅器に落とし、私の話をじっと聞いていた。だが、その切れ長の瞳には、いつもの冷徹な光が宿っている。
「で? そのお蓮って女は、何かに憑かれてるのか、あるいは妖そのものが化けてるのか」
「それが、直接見た感じでは、何かに取り憑かれているような悍ましい雰囲気はなかったんです。ただ、本人の気配そのものが歪んでいるというか……。でも、旦那様が亡くなって、お義父様まで体が悪くなっているなんて、家ごと呪われている可能性だってありますよね?」
「直接見ねえことには、何とも言えねえな」
榊は立ち上がり、首をコキコキと鳴らした。
「だが、町中から愛されている嫁、ねぇ。……よし、まずはその長屋の爺さんから当たってみるか。雛、そこらの店で適当な菓子折りでも買ってこい。囮の次は、手土産持ちの使い走りだ」
「もう、人使いが荒いんだから! ……でも、分かりました」
菓子折りを買い求め、指定された路地裏の長屋へと向かう道中。密集する古い家々の隙間に、ひっそりと佇む小さなお稲荷さんを見つけた。
木造の鳥居は赤みがすっかり褪せ、至るところに蜘蛛の巣が張っている。雨風に晒された社は小さく傾き、本来なら神聖であるはずのその空間は、まるで忘れ去られた遺物のようだった。
「……随分と荒れていますね。お供え物の一つもありません」
私が足を止めると、榊もキセルを咥えたまま、珍しく怪訝そうに眉をひそめてその社を見つめた。
「……おかしいな」
「何がですか?」
「妖気がねえのは当然だが、神気すら枯れ果ててやがる。いいか、雛。お稲荷さんってのは、江戸の至るところにある。人間に忘れられたボロ社だろうが、大抵は神の使いである狐の妖が一匹くらいは居着いて、縄張りを張ってるもんなんだよ」
榊はキセルの先で、誰もいない小さな台座を指した。
「ここにはそれがねえ。狐が眷属ごと、この場所をごっそり見限って逃げ出したか、あるいは……何かに追い出されたかだ」
「神様のお使いが追い出されるなんてことがあるんですか? 単に、あまりに社が汚れているから、神様が見限ってどこかへ行ってしまったんじゃ……」
「さぁな」
榊は吐き捨てるように言うと、珍しくキセルを懐に仕舞い、その寂れた社の前で静かに背筋を伸ばした。
そして、大きな手のひらを合わせ、目を閉じて深く一礼した。
口を開けば毒ばかり吐く、いかがわしい商売の男。けれど、八百万の神仏が作った江戸を誰よりも愛し、敬意を払っているのは、紛れもなくこの男なのだ。
「……神様、お騒がせして申し訳ありません」
私も彼の隣に並び、仕込み杖を傍らに立てて、そっと両手を合わせた。
路地裏の長屋は、昼間だというのに薄暗く、ひっそりと静まり返っていた。
お蓮さんの住む部屋の前まで来ると、榊はふと足を止め、右の耳元にそっと指を当てた。彼の周囲の空気が、微かにピリついたような気がする。
「……榊さん、何をしてるんですか?」
「順風耳(じゅんぷうじ)の力を少し借りてる。遠くの微かな声や、壁の向こうの呼吸音を聞き取る妖だ。……中にいるのは爺さん一人。お蓮って女は不在だな。……よし、雛。その菓子折りを持って、部屋を訪ねてこい。俺はここで聞いてる」
「えっ、私一人でですか!? ……う、分かりました」
ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、私は一歩前に出た。手には、途中の和菓子屋で買った包みがある。
深呼吸をして、古びた格子戸を軽く叩いた。
「す、すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」
少しの沈黙の後、奥の方から「はい……」と、ひどくかすれた弱々しい声が返ってきた。
「開いておるよ。すまないが、動けなくてね……入っておくれ」
「失礼します……」
戸を開けて中に入ると、そこは三畳ほどの狭い部屋だった。薄暗い万年床の上に、一人の痩せこけた老人が仰向けに寝たきりになっていた。部屋の中には、微かに湿った薬の匂いが漂っている。
「あの……突然押しかけてしまって申し訳ありません。私、雛と申します。昔、こちらの若旦那様に、我が家の物置の修理をしてもらったことがありまして。その時、とても良くしていただいたんです。近くを通りかかったので、ご挨拶にと思いまして……」
とっさに考えた嘘を口にしながら、私は老人の枕元へとにじり寄った。老人は、私の声のする方へゆっくりと顔を向け、申し訳なさそうに薄い唇を震わせた。
「おぉ、息子の知り合いの方かね……。わざわざ来てもらったのに、起き上がれなくてすまないねぇ。なにぶん、もう長いことこの通りの年寄りでな。……だが、せっかく来てくれたのに、本当に悪いんだが……息子は、二年も前に死んでしまったんだよ。お蓮も今はいなくて」
「そう……だったのですか。それは、存じ上げず、大変失礼なことをいたしました。……あの、これ、本当にささやかなものですが、お菓子を置いておきますね。召し上がってください」
私は胸を痛めながら、お菓子の包みを老人の手元へ差し出そうとした。だが、老人はその包みに手を伸ばそうとはしなかった。ただ、空間のまったく違う方向——私の頭上のはるか上の方を見つめたまま、虚ろな目を泳がせていた。
「あ、あの……?」
違和感を覚え、私は老人の顔を覗き込んだ。
彼の濁った瞳は、私の姿を一切捉えていない。光を反射することなく、ただ暗闇の奥をじっと見つめるように、焦点が完全に合っていなかった。
「あぁ、すまないねぇ、お嬢さん。せっかく持ってきてもらったのに、私はここ何年も、目が全く見えなくてね。そこらの机の上にでも、置いといておくれ。娘が帰ってきたらいただくよ」
——目が、見えない。
老人の口から告げられたその事実に、私は息を呑んだ。寝たきりで、さらに盲目。
そんなお義父様を、あの美しいお蓮さんは、二年もの間、この暗い長屋でたった一人で世話し続けているというのか。
私は無言で菓子折りを机に置きながら、部屋の隅の暗がりに、今朝見たお蓮さんのあの歪みが、じっと息を潜めてこちらを見つめているような、強烈な悪寒を感じていた。

