江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

 お菊さんや滝姫様との、あの凄まじくも賑やかだった女子会から数日が経った。

 最近はあの偏屈な妖屋との約束がない日を過ごしている。朝から西園寺の屋敷の道場でたっぷりと竹刀を振るい、心地よい汗を流した私は、これといった予定もないまま、のんびりとした休日を迎えていた。

 あの毒舌男に「木偶人形」などと理不尽に罵られることもなければ、囮として全身に米粒をつけられ、懐に生きた鼠を五匹も押し込まれるような悪夢もない。耳を澄ませても、ろくろ首が煙の輪をくぐる音も、座敷童が「なまくら!」とはやし立てる声もしない、実に静かで平和な朝だった。

「たまには、普通の女の子らしい一日を過ごしてもバチは当たらないわよね」


 私は、天津麻羅の打った新しい仕込み杖を手に取り、意気揚々と江戸の町へと繰り出した。

 漆黒の鞘に収まったその刀は、以前のなまくらとは違って、腰に差しているだけで不思議な安心感をもたらしてくれる。雨上がりの澄んだ陽光が、賑わう大通りを優しく照らしていた。

「あ、雛姉ちゃん! 今日は泥だらけになってないじゃん! どうしたの、お腹でも痛いの?」

 人混みの中から真っ先に声をかけてきたのは、近所の生意気盛りの少年、太一だった。その隣には、鼻をすすりながらこちらを見る三吉もいる。

「失礼ね、太一。今日の私は、どこからどう見ても品行方正で立派な武家のお嬢様でしょ。毎日泥まみれで走り回っているわけじゃないわよ」
「へえー、でもいつものボロボロの着物より、そっちのほうが少しだけ上等に見えるや。あ、でもその杖は相変わらず持ってるんだね」
「これは私の相棒なの。さあ、あなたたちも暗くならないうちに長屋へ帰りなさい」

 子供たちの頭を軽く小突き、笑顔で見送る。すれ違う町の人々からも「嬢ちゃん、元気かい?」などと声をかけられ、私はそのたびに背筋をピンと伸ばして、淑やかに会釈を返した。

 これだ。これこそが、私が本来送るべきだった、平和で健全な江戸の日常である。

 そんな風にのんびりと町を満喫していた私の足を、ある一人の女性の姿が止めた。

 歳の頃は二十代半ば。地味だが隅々まで手入れの行き届いた清潔な着物を着こなした、とても綺麗な女性だった。すっと通った鼻筋に、どこか儚げな憂いを帯びた瞳。大通りを行き交う男たちが、思わず二度見してしまうような、そんな美しい佇まいのお姉さんだ。

 だが、何かが決定的におかしかった。

「……え?」

 彼女とすれ違った瞬間、私の肌が粟立った。

 榊に力を分けてもらってからというもの、私の目には、世界の「裏側」が少しだけ見えるようになっている。その奇妙な感覚が、私の脳裏に警鐘を鳴らした。

 彼女の周囲の空気だけが、まるで夏の日の澱んだ水のように、ねっとりと不自然に歪んで見えるのだ。不穏な悪意や毒気があるわけではない。ただ、そこにあるはずのない静かな違和感が、彼女の背後に陽炎のように揺らめいていた。それは紛れもなく、人ならざる妖の気配に酷似していた。

(……私の早合点か。……でも、どうしても気になる)

 私は引き返した。武家の娘としての矜持が、そして胸の奥から湧き上がる正義感が、あの綺麗な女性をそのまま見過ごすことを許さなかった。何かに憑かれているのなら教えてあげないと。

 私はさりげなさを装い、十歩ほどの距離を置いて彼女の後をつけてみることにした。西園寺家の隠密行動である。

 だが、彼女の行動はどこまでも普通だった。
 
 彼女は近くの魚屋に立ち寄ると、愛想のいい笑顔で店主と二言三言、言葉を交わした。

「熊さん、今日の鰯、ずいぶんと活きがいいわね。二匹ほどいただこうかしら」
「おう、お蓮さん! いつもありがとよ。お蓮さんのためなら、一番いいところをまけておくぜ!」

 品よく小銭を支払い、包みを受け取るお姉さん——お蓮さんと呼ばれた彼女は、続いて八百屋へと向かい、手際よく大根の品定めを始めた。その物腰、手の動き、町の人々に向ける柔らかな眼差しは、どこからどう見ても、慎ましやかで優しい人間の町娘そのものだった。

(本当に、ただの私の勘違い?……)

 尾行を続けながら、私は自分の感覚に自信が持てなくなってきた。杖の重みを感じながら、彼女が細い路地裏へと消えていくのを見送る。

 流石にこれ以上、一般の町娘の後を追いかけるわけにはいかない。私は踵を返し、彼女が先ほど立ち寄った八百屋の店先へと向かった。

「八百屋の旦那さん、ちょっとお伺いしてもよろしいですか?」
「おや、雛お嬢様。どうしたんだい、そんなに真面目な顔をして。大根なら、今日のは一段と甘くて美味いぜ?」
「いえ、お買い物ではなくて……さっき、ここで大根を見ていた、お蓮さんという綺麗な女性のことなのですが」

 私が尋ねると、八百屋の旦那は途端に表情を和らげ、感心したように深く頷いた。

「ああ、お蓮さんかい。いやぁ、彼女は本当に、この界隈じゃあ評判の、頭が下がるような苦労人でねぇ」
「苦労人、ですか?」
「そうさ。今から二年ほど前だったかねぇ。彼女の旦那だった長屋の若い旦那が、原因不明の奇病でコロリと亡くなっちまったんだよ。腕のいい大工だったんだが。そりゃあもう、お蓮さんの嘆きようったらなかったさ」

 八百屋さんは気の毒そうに眉をひそめ、さらに声を潜めて言葉を続けた。

「普通なら、若くして未亡人になっちまったら、実家に帰るか別の男を見つけるだろ? だがお蓮さんは違った。旦那が死んだ後も長屋に残って、すっかり腰が抜けて寝たきりになっちまった義理の父親……つまり亡くなった旦那の親父さんを、一人でずっと支えてるんだよ」
「旦那様が亡くなった後も、お義父様のご不自由なお世話を、お一人で?」
「そうなんだよ。実の娘だってそこまで出来ねえって、長屋の連中もみんな涙ぐんでるさ。近くの蕎麦屋で皿洗いや針仕事の手伝いをして、細々と少ない稼ぎを得ちゃあ、全部親父さんの薬代や飯代に充ててるんだ。あんな健気で出来た嫁、江戸中探しても早々いねえよ」

 旦那の話を聞きながら、私の胸の内の違和感は、消えるどころかますます奇妙な形へと膨れ上がっていった。

 周囲の評判は、非の打ち所がない聖人のようなお嫁さん。誰もが彼女を褒め称え、その健気さに同情している。
 なのに、なぜだろう。彼女の話を聞けば聞くほど、私の背中に、冷たい汗がひとすじ流れるような感覚が収まらない。あの澱んだ空気の歪みは、本当にただの気のせいだったのだろうか。

「……ありがとうございました」

 お礼を言い、私は八百屋を離れた。

 お蓮さんが消えた、薄暗い路地裏の長屋の方向をじっと見つめる。
 
 もし、私の目が捉えたあの気配が本物だとしたら。そして、その背後にある何かが、彼女の言う旦那様の死や、お義父様の病に関わっているのだとしたら。

「……ううん、やっぱり、私一人じゃ埒が明かないわね」

 認めるのは癪だが、こういう理屈の通らない怪異の専門家は、江戸に一人しかいない。

 あの口を開けばドブ川のような毒を吐く、最悪の性格破綻者。けれど、歪んだ理を冷徹に正してみせる、あの男の顔が脳裏に浮かんだ。

「せっかくの休日なのに、あの男の顔を拝みに行くなんて、本当に不本意だけど……」

 私は仕込み杖をきゅっと握り直し、ぶらぶら歩きを切り上げた。

 胸を騒がせる不気味な違和感の正体を突き止めるため、私はあの埃っぽい、多種多様な妖たちが日常を謳歌する幽霊屋敷へと、足早に歩みを進めたのだった。