江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

 今日は、久々に妖屋との約束がない日だった。

 朝から自分の屋敷で竹刀を振るい、汗を流した後は、特にやることもない。あの毒舌男に木偶人形呼ばわりされることも、無理やり鼠を懐に入れられることもない、穏やかな休日だ。

(……たまには、普通の女の子らしい一日を過ごしてもバチは当たらないわよね)

 新調したばかりの仕込み杖を手に取り、私は江戸の町へと繰り出した。

 陽光は柔らかく、町を歩けば

「雛姉ちゃん、また泥だらけになってないの?」

 と、子供たちが生意気に声をかけてくる。

「失礼ね。今日の私は、どこからどう見ても立派な武家のお嬢様でしょ」

 そんな軽口を叩きながら町をぶらぶらしていると、人混みの中に、一際艶めかしい空気を纏った女性の後ろ姿を見つけた。

 派手すぎないが上質な着こなし。その隣には、音もなく歩く、尻尾が二つに分かれた黒猫——。

「……あれ? お菊さん?」

 私が思わず声をかけると、その女性はしなやかに振り返った。吉原の置屋で出会った、あの立派な胸元と包容力を持つお姉様、お菊さんだった。

「あら、雛のお嬢さんじゃない! 奇遇ねぇ」
「お菊さん、どうしてこんなところに? 今日はお買い物ですか?」
「ええ、今日はお休みでね。たまには下界の空気を吸いながら、自分へのご褒美を買おうと思って。……もしよかったら、お嬢さんも一緒においでよ。可愛い女の子が隣にいてくれた方が、お買い物も楽しいわ」

 お菊さんの華やかな笑顔に誘われ、私は二つ返事で彼女の買い物に同行することにした。


 お菊さんの買い物は、実に手際が良く、かつ優雅だった。

 最初に向かったのは、老舗の香道具店。

「妖屋の旦那はいつもキセルの匂いばかりだけど、私はこっちの方が好きなの」

 そう言って彼女が選んだのは、白檀にほんの少し甘い花の香りを混ぜたお香だった。

 お菊さんが香りを確かめる仕草一つとっても、吉原で培われた「しな」が滲み出ていて、私は思わず見惚れてしまう。

「お次はここよ。この反物、お嬢さんにも似合いそうじゃない?」
「お嬢さんはやめてください……雛って呼んでもらえると嬉しいです」
「そう? わかったわ。雛ちゃん、これなんかどう?」

 次に入った呉服屋では、鮮やかな桃色や落ち着いた藍色の布地が所狭しと並んでいた。お菊さんは自分のための派手な髑髏柄……ではなく、品の良い小紋を選びつつ、私の体に合わせて布を当てては「可愛いわ」と目を細めている。

 傍らでは、猫又が退屈そうにあくびをしながら、時折私の足元にすり寄ってきた。

「……ふふ、猫又さんも今日はのんびりですね」
『ニャー(……たまには、外の鼠でも追いかけたいもんだがな)』

 そんな声が聞こえた気がして、私は苦笑いした。

 最後に向かったのは、江戸でも評判の菓子屋だ。

「買い物の後は甘いもの。これが江戸っ子の、いえ、女の子の鉄則よ」

 お菊さんは、山盛りの団子や金平糖を買い込み、その一部を「内緒よ」と言って私に握らせてくれた。

 榊といる時は、いつも不気味な事件や血の匂いがつきまとっていたけれど、こうしてお菊さんと並んで歩く江戸の町は、どこまでも明るく、賑やかで、そして温かい。

 私は、お菊さんの荷物を少しだけ持ち、猫又の足取りに合わせてゆっくりと歩いた。夕暮れ時の江戸の空が、いつになく美しく、優しく、私たちの影を長く伸ばしていた。

(……榊さんがいなくても、江戸はこんなに素敵なんだわ。……まぁ、あの人がいたらいたで、騒がしくて楽しいんでしょうけど)

 私の鼻先を、お菊さんの選んだお香の香りがふわりと掠めていった。

「帰る前に、どこかでお茶でも飲みましょうか。喉が渇いちゃった」

 お菊さんが、柳腰を少しくねらせて笑う。その仕草一つで、行き交う町人たちがふらふらと引き寄せられそうになるのだから、やはり吉原の女性の引力は凄じい。

「お茶屋さん、ですか」

 私は、手に持った仕込み杖を軽く突きながら考えた。

 このあたりなら、洒落た菓子を出す大きな店も多い。けれど、今の私の頭に浮かんだのは、もっと小さくて、温かな湯気が立ち上る場所だった。

「それなら、一つ心当たりがあります。……少し、歩きますけれど」
「雛ちゃんの案内なら、どこまでだって付いていくわよ」

 私たちは賑やかな大通りを折れ、少し落ち着いた路地へと足を踏み入れた。向かったのは……。


 私たちが辿り着いたのは、江戸の華やかな喧騒からは遠く離れた、町外れの無縁仏が眠る墓地だった。

「あら……。ここ、まさかあの髑髏姫の……」

 お菊さんが、少しだけ目を見開いて周囲を見渡す。吉原という情報の集積地にいる彼女のことだ、この不気味な墓場に伝説の姫君が隠れ住んでいるという噂は、当然耳にしていたのだろう。

「ええ。榊さんに連れてきてもらってから、たまにこうして遊びに来るんです」

 私は、泥に沈むようなボロ屋敷の門の前に立ち、慣れた手つきで建付けの悪い扉を叩いた。

「滝姫様ー! 西園寺の雛です、遊びに来ました!」

 返事の代わりに聞こえてきたのは、カタカタという乾いた骨の鳴る音だった。門の隙間から数体の骸骨が覗き、私とお菊さんの姿を確認すると、慌てて奥へと引っ込んでいく。

「へぇ、本当に骸骨が動いてる。アホ面した猫又より、よっぽど気が利きそうじゃない」

 お菊さんが面白そうに、連れている黒猫の頭を軽く小突く。猫又の方は「フンッ」と鼻を鳴らし、墓石に腰掛けて毛繕いを始めた。

 やがて、奥の扉が景気よく開き、真っ黒な髑髏柄の短丈着物を翻して、あの伝説の姫君が飛び出してきた。

「あー! 雛ちゃんじゃん! マジで暇してたんだよね、超いいころ合いで!」

 滝姫は、高い位置で結った髪を揺らしながら、ひらひらと手を振った。その視線が私の隣のお菊さんに止まると、彼女の瞳がキラキラと輝き始める。

「えっ、ちょ、待って……。その超絶セクシーなお姉さん、誰!? 吉原の本物の花魁様系!? マジでスタイル良すぎ、うち、一瞬で虜になったんだけど!」
「お初にお目にかかるわ、お姫様。吉原の置屋でお菊と呼ばれているわ。今日は雛ちゃんにお買い物に付き合ってもらってたの」

 お菊さんが、吉原仕込みの優雅な会釈を披露する。その所作に、滝姫は「ひゃー!」と歓声を上げて身を悶えさせた。

「やばい、本物の色香じゃん! よし、決まり! 今日はもう、骨に最高級の茶を淹れさせるから、うちに上がって上がって! 女子会、開催しちゃうし!」

 こうして、無縁仏の墓場にあるボロ屋敷で、武家の娘、吉原の遊女、そして伝説の亡霊姫という、あまりにも異色な三人の「女子会」が幕を開けた。