聞き込みがもたらした情報は、私の胸を冷たく刺すものだった。源爺が長屋から姿を消したのは、今からちょうど十日前のこと。
「……十日。十日も、むくはあんな暗い部屋で一人、おじいちゃんを待っていたんですね。いつもお団子を買って帰ってくれるおじいさんを」
「あぁ、そうだな。ところで、雛。江戸ってのは、百万の人間がひしめき合う巨大な装置だ。その装置を止めないために、ここの役人は驚くほど仕事が早いらしい」
榊はキセルの火を見つめながら、淡々と江戸の現実を語り始めた。
「身元の分からねえ死人が出りゃ、半日で処理される。腕のいい職人だろうが、よその町内で倒れてみろ。名前を確認する暇もありゃしねえ。その日のうちに無縁仏として寺に送られ、灰にされるのが関の山だ。……町の人に愛されていようが、その場所で誰かと証明できなきゃ、ただのゴミ同然に扱われる。それがこの町の流儀だ」
「そんな……。あまりに、あんまりです……っ」
私は唇を強く噛み締めた。源爺はすでに亡くなり、無縁仏として埋葬されていたという記録があったのだ。
私たちは、源爺が最後に目撃されたという、四つ角の地蔵尊の前に立っていた。
しとしとと降る雨の中、古びた石の地蔵は、赤いよだれかけを濡らしながら黙して座っている。
「……榊さん。やっぱり、ここには何もありません。役人が片付けた後なら、遺品なんて残っているはずが……」
「いや、じいさんは考えていたはずだ。自分が倒れた後、むくが一人……一匹になることをな。……おい、石の主。そろそろ目を覚ませ。しけった雨の中で居眠りしてる時間じゃねえぞ」
榊がキセルの先端で、地蔵の膝元をコツンと叩いた。すると、何もない空間が陽炎のように揺れ、地蔵の影からひょっこりと、灰色の肌をした小さな老人のような妖が現れた
「榊さん、こちらの方は?」
「地蔵憑きだ。本来地蔵にはお釈迦様が宿るが、たまにこの手の妖がお供え物欲しさに地蔵に入り込むことがある」
『……ふぁあ。騒がしいねぇ。榊の旦那か……隣の娘さんは、えらく湿っぽい顔をしてるね』
「挨拶はいい。十日前、ここで死んだ金細工師のことを教えろ。……じいさん、何か残していっただろ」
地蔵憑きは、細い指先で自分の首筋を掻くと、慈しむような目で石の地蔵を見上げた。
『あぁ、あの爺さんかい。……立派な男だったよ。心臓が止まりかけてるってのに、自分の命乞いもしねぇ。ただ、懐からこれを取り出して、地蔵様の手に預けるようにして……「これを、あの子に」とだけ言い残して、静かに逝っちまったよ。多分俺が見えてたんだろうね』
妖が地蔵の、合掌された手の「隙間」を指差す。
そこには、他のお供え物——枯れかけた花や、供えられたばかりの握り飯——に紛れるようにして、真っ黒な煤を塗りたくられた小さな石ころのようなものが置かれていた。
「それと、悪いんだけど爺さんが一緒に置いてった団子は喰っちまったよ」
「あぁ、そっちはいいさ。これがあればな」
長屋に戻ると、むくが出迎えてくれた。私は手に持った「石ころ」を雨水で濡れた指先を使い表面を強く拭う。
すると、黒い煤がパラパラと剥がれ落ち、中から精緻な彫金が施された眩いばかりの銀の光が顔を出した。
「これ……ただの石じゃない。……ううん、おじいちゃんの匂いがする!」
「……銀の鈴。源爺さんは、自分が死んだ後、役人や泥棒にこれが盗まれないように、わざと汚してただのお供え物のフリをさせたんですね」
「……地蔵に預ければ、役人も無碍には動かせねえ。地上のゴミの中に、天上の輝きを隠しやがった。……粋な真似を」
榊はいつになく穏やかな声でそう呟いた。私がその鈴を用意した紐に通してむくの首筋に近づけると、磁石に吸い寄せられるように、鈴がむくの白い毛並みに馴染んでいった。
むくが、小さく体を揺らす。
——チリン。
雨音さえも一瞬で消し去ってしまうほど、透き通った、温かな音色。源爺が最後に込めた祈りが、江戸の貧乏長屋に、優しく、どこまでも響き渡った。
『……あったかい。おじいちゃん……ぼく、もう怖くないよ。ずっと、一緒だもんね』
むくの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。銀の鈴は、むくの涙を浴びて、なお一層美しく輝いた。
むくは妖だから、このまま長屋で一匹で暮らしていけるとは思うが、一応榊の屋敷の場所を教え、いつでも来ていいと伝えて表に出ようとしたその時。
「……えっ? な、何ですか、この音!?」
ガシャガシャッ! ボコッ! ガタガタガタッ!
路地裏に放置されていた古びた大八車、軒下に並んだ凹みだらけの鍋、さらには茶屋の古びた看板までもが、一斉に生き物のように震え出したのだ。それらは源爺の鈴の音に呼応するように、歓喜の産声を上げ、踊り狂い始めた。
「これ、全部付喪神……!? 榊さん、みんな大騒ぎですよ!」
「あぁ、じいさんの鈴が完璧すぎたんだ。周囲のボロ道具たちがその音色に当てられて、『あんな綺麗な音を出したい!』って共鳴しやがったな」
付喪神たちに悪意はない。だが、その喜びの震動は次第に激しさを増し、周囲の建物をミシミシと揺らし始めていた。このままだと、老婆の家ごと歓喜の音で崩壊しかねない。
「まずいな。大人しくさせないと」
「壊すわけにはいきません! みんな、おじいちゃんの鈴の音が大好きで喜んでるだけなのに……っ」
「……なら、雛。その神様の打った仕込みで、余計なもんだけを削ぎ落としてやれ」
榊がキセルを咥えたまま、顎で私の腰を指す。私は頷き、新たな仕込み杖の柄を握り締めた。
暴走する道具たちの中心へ、私は一歩踏み出した。銀の鈴の音が周囲の空気を震わせ、目に見える波紋となって広がっている。その音そのものが、道具たちの未練を掻き立てているのだ。
「……見えます。斬るべき音が!」
シャリンッ!
抜刀。
白銀の刀身が月光を裂き、尾を引くような美しい軌跡を描く。私は暴れる大八車も、震える鍋も斬らなかった。狙ったのは、道具たちの間を荒れ狂う音の波そのものだ。
——一閃。
神の打った刀は、物理的な実体を持たない音の振動さえも捉え、紙を裂くように両断した。
空気が一瞬だけ真空になったかのような静寂が訪れる。神の牙が放つ清浄な妖力が、道具たちの過剰な昂ぶりを優しく、そして鋭く撫で切ったのだ。
「……えっ?」
次の瞬間、狂ったように踊っていた道具たちは、嘘のように静まり返った。
形は一つも壊れていない。けれど、それらを取り巻いていたトゲトゲしい騒音だけが消え去り、代わりに穏やかで温かな空気だけが路地を満たしていた。
むくの首で、再び鈴が鳴る。今度は静かに。付喪神たちは、その音色を静かな拍手のような微かな震えで受け入れ、満足げに元の道具としての眠りについた。
「……お見事。モノの形を壊さず、概念だけを斬るとはな。天津麻羅も草葉の陰で……あぁ、あいつまだ生きてるか。神様も鼻が高いだろうぜ」
榊が低く笑い、私はゆっくりと、名残惜しむように刀を納めた。
「……結局、源爺さんは自分の作品がむくに届くところを見られませんでした。江戸は人情の町のはずなのに、残酷ですね」
「……だがな、雛。職人なんてのは、みんな自己満足の塊だ。自分が死んだ後も、自分の作った音が誰かを守ってる……そう信じて、爺さんは満足して死んだはずだぜ」
榊は不遜に言い放ち、銀のキセルから一際大きな紫煙を吐き出した。だが、その視線の先は、さっきの地蔵があった場所を、いつまでも見守るように振り返っていた。
「……榊さん。ちょっと泣いてる? 泣いてますよね?」
「雨粒だよ! ——あーあー、うるせえ! 湿っぽい話は腹が減る! 飯だ、今日は豪華に天ぷら蕎麦にするぞ、お前の奢りでな!」
「えっ、私の奢り!? ちょっと待ってください、今の話の流れならあなたが奢るべきでしょう、この性格破綻者っ!」
私の大声が雨上がりの江戸の夜に響き渡る。手には、神の打った新たな仕込み杖。心には、銀の鈴が残した温かな音色。
黒鵺の影は未だ消えず、闇は深い。けれど、私たちの間を流れる空気は、ほんの少しだけ、雨上がりの空のように澄み渡っていた。
「……十日。十日も、むくはあんな暗い部屋で一人、おじいちゃんを待っていたんですね。いつもお団子を買って帰ってくれるおじいさんを」
「あぁ、そうだな。ところで、雛。江戸ってのは、百万の人間がひしめき合う巨大な装置だ。その装置を止めないために、ここの役人は驚くほど仕事が早いらしい」
榊はキセルの火を見つめながら、淡々と江戸の現実を語り始めた。
「身元の分からねえ死人が出りゃ、半日で処理される。腕のいい職人だろうが、よその町内で倒れてみろ。名前を確認する暇もありゃしねえ。その日のうちに無縁仏として寺に送られ、灰にされるのが関の山だ。……町の人に愛されていようが、その場所で誰かと証明できなきゃ、ただのゴミ同然に扱われる。それがこの町の流儀だ」
「そんな……。あまりに、あんまりです……っ」
私は唇を強く噛み締めた。源爺はすでに亡くなり、無縁仏として埋葬されていたという記録があったのだ。
私たちは、源爺が最後に目撃されたという、四つ角の地蔵尊の前に立っていた。
しとしとと降る雨の中、古びた石の地蔵は、赤いよだれかけを濡らしながら黙して座っている。
「……榊さん。やっぱり、ここには何もありません。役人が片付けた後なら、遺品なんて残っているはずが……」
「いや、じいさんは考えていたはずだ。自分が倒れた後、むくが一人……一匹になることをな。……おい、石の主。そろそろ目を覚ませ。しけった雨の中で居眠りしてる時間じゃねえぞ」
榊がキセルの先端で、地蔵の膝元をコツンと叩いた。すると、何もない空間が陽炎のように揺れ、地蔵の影からひょっこりと、灰色の肌をした小さな老人のような妖が現れた
「榊さん、こちらの方は?」
「地蔵憑きだ。本来地蔵にはお釈迦様が宿るが、たまにこの手の妖がお供え物欲しさに地蔵に入り込むことがある」
『……ふぁあ。騒がしいねぇ。榊の旦那か……隣の娘さんは、えらく湿っぽい顔をしてるね』
「挨拶はいい。十日前、ここで死んだ金細工師のことを教えろ。……じいさん、何か残していっただろ」
地蔵憑きは、細い指先で自分の首筋を掻くと、慈しむような目で石の地蔵を見上げた。
『あぁ、あの爺さんかい。……立派な男だったよ。心臓が止まりかけてるってのに、自分の命乞いもしねぇ。ただ、懐からこれを取り出して、地蔵様の手に預けるようにして……「これを、あの子に」とだけ言い残して、静かに逝っちまったよ。多分俺が見えてたんだろうね』
妖が地蔵の、合掌された手の「隙間」を指差す。
そこには、他のお供え物——枯れかけた花や、供えられたばかりの握り飯——に紛れるようにして、真っ黒な煤を塗りたくられた小さな石ころのようなものが置かれていた。
「それと、悪いんだけど爺さんが一緒に置いてった団子は喰っちまったよ」
「あぁ、そっちはいいさ。これがあればな」
長屋に戻ると、むくが出迎えてくれた。私は手に持った「石ころ」を雨水で濡れた指先を使い表面を強く拭う。
すると、黒い煤がパラパラと剥がれ落ち、中から精緻な彫金が施された眩いばかりの銀の光が顔を出した。
「これ……ただの石じゃない。……ううん、おじいちゃんの匂いがする!」
「……銀の鈴。源爺さんは、自分が死んだ後、役人や泥棒にこれが盗まれないように、わざと汚してただのお供え物のフリをさせたんですね」
「……地蔵に預ければ、役人も無碍には動かせねえ。地上のゴミの中に、天上の輝きを隠しやがった。……粋な真似を」
榊はいつになく穏やかな声でそう呟いた。私がその鈴を用意した紐に通してむくの首筋に近づけると、磁石に吸い寄せられるように、鈴がむくの白い毛並みに馴染んでいった。
むくが、小さく体を揺らす。
——チリン。
雨音さえも一瞬で消し去ってしまうほど、透き通った、温かな音色。源爺が最後に込めた祈りが、江戸の貧乏長屋に、優しく、どこまでも響き渡った。
『……あったかい。おじいちゃん……ぼく、もう怖くないよ。ずっと、一緒だもんね』
むくの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。銀の鈴は、むくの涙を浴びて、なお一層美しく輝いた。
むくは妖だから、このまま長屋で一匹で暮らしていけるとは思うが、一応榊の屋敷の場所を教え、いつでも来ていいと伝えて表に出ようとしたその時。
「……えっ? な、何ですか、この音!?」
ガシャガシャッ! ボコッ! ガタガタガタッ!
路地裏に放置されていた古びた大八車、軒下に並んだ凹みだらけの鍋、さらには茶屋の古びた看板までもが、一斉に生き物のように震え出したのだ。それらは源爺の鈴の音に呼応するように、歓喜の産声を上げ、踊り狂い始めた。
「これ、全部付喪神……!? 榊さん、みんな大騒ぎですよ!」
「あぁ、じいさんの鈴が完璧すぎたんだ。周囲のボロ道具たちがその音色に当てられて、『あんな綺麗な音を出したい!』って共鳴しやがったな」
付喪神たちに悪意はない。だが、その喜びの震動は次第に激しさを増し、周囲の建物をミシミシと揺らし始めていた。このままだと、老婆の家ごと歓喜の音で崩壊しかねない。
「まずいな。大人しくさせないと」
「壊すわけにはいきません! みんな、おじいちゃんの鈴の音が大好きで喜んでるだけなのに……っ」
「……なら、雛。その神様の打った仕込みで、余計なもんだけを削ぎ落としてやれ」
榊がキセルを咥えたまま、顎で私の腰を指す。私は頷き、新たな仕込み杖の柄を握り締めた。
暴走する道具たちの中心へ、私は一歩踏み出した。銀の鈴の音が周囲の空気を震わせ、目に見える波紋となって広がっている。その音そのものが、道具たちの未練を掻き立てているのだ。
「……見えます。斬るべき音が!」
シャリンッ!
抜刀。
白銀の刀身が月光を裂き、尾を引くような美しい軌跡を描く。私は暴れる大八車も、震える鍋も斬らなかった。狙ったのは、道具たちの間を荒れ狂う音の波そのものだ。
——一閃。
神の打った刀は、物理的な実体を持たない音の振動さえも捉え、紙を裂くように両断した。
空気が一瞬だけ真空になったかのような静寂が訪れる。神の牙が放つ清浄な妖力が、道具たちの過剰な昂ぶりを優しく、そして鋭く撫で切ったのだ。
「……えっ?」
次の瞬間、狂ったように踊っていた道具たちは、嘘のように静まり返った。
形は一つも壊れていない。けれど、それらを取り巻いていたトゲトゲしい騒音だけが消え去り、代わりに穏やかで温かな空気だけが路地を満たしていた。
むくの首で、再び鈴が鳴る。今度は静かに。付喪神たちは、その音色を静かな拍手のような微かな震えで受け入れ、満足げに元の道具としての眠りについた。
「……お見事。モノの形を壊さず、概念だけを斬るとはな。天津麻羅も草葉の陰で……あぁ、あいつまだ生きてるか。神様も鼻が高いだろうぜ」
榊が低く笑い、私はゆっくりと、名残惜しむように刀を納めた。
「……結局、源爺さんは自分の作品がむくに届くところを見られませんでした。江戸は人情の町のはずなのに、残酷ですね」
「……だがな、雛。職人なんてのは、みんな自己満足の塊だ。自分が死んだ後も、自分の作った音が誰かを守ってる……そう信じて、爺さんは満足して死んだはずだぜ」
榊は不遜に言い放ち、銀のキセルから一際大きな紫煙を吐き出した。だが、その視線の先は、さっきの地蔵があった場所を、いつまでも見守るように振り返っていた。
「……榊さん。ちょっと泣いてる? 泣いてますよね?」
「雨粒だよ! ——あーあー、うるせえ! 湿っぽい話は腹が減る! 飯だ、今日は豪華に天ぷら蕎麦にするぞ、お前の奢りでな!」
「えっ、私の奢り!? ちょっと待ってください、今の話の流れならあなたが奢るべきでしょう、この性格破綻者っ!」
私の大声が雨上がりの江戸の夜に響き渡る。手には、神の打った新たな仕込み杖。心には、銀の鈴が残した温かな音色。
黒鵺の影は未だ消えず、闇は深い。けれど、私たちの間を流れる空気は、ほんの少しだけ、雨上がりの空のように澄み渡っていた。

