(……榊さん、壁の向こう、やっぱり何かがいます。嫌な音というより、なんだか心細そうな……)
私が耳を澄ませて囁くと、榊は「やれやれ」と肩をすくめた。
「……おい、お出ましだ。隠れてる時間は終わりだぜ」
榊が指をパチンと鳴らすと、何もない壁の僅かな継ぎ目から、一筋の白い煙がふわりと立ち上った。次の瞬間、そこには着物をしどけなく着崩した、細身の美女がしなだれかかるように立っていた。幽霊にも見えるが、若干漂うまがまがしい気配から察するに、妖だろう。
「……呼びましたぁ? 榊の旦那……」
「隙間女、悪いが、ちょっと隣の様子を見せてくれ」
彼女は「ふっ」と微笑むと、指先で壁の隙間をなぞった。すると、本来なら数寸もないはずの壁の継ぎ目が、まるでなにかの入り口のように、ぐにゃりと少しだけ口を開けた。
(……わ、すごい。壁の向こうが丸見えです……)
隙間の向こう。埃の舞う薄暗い部屋の隅で、真っ白でふわふわとした毛玉のような妖が、小さな体をさらに丸めて震えていた。
(榊さん、あれは?)
(脛こすりという妖だ。基本的には無害だから安心していい)
『……おじい、ちゃん……。ずっと、待ってるのに……。どこに、行っちゃったの……?』
聞こえてきたのは殺気などは一切なく、ただ主を求めて彷徨う、孤独な子供の泣き声だった。
「おじいちゃん? 誰のことですか?」
私が隙間を抜けて隣室へ入り、おずおずと問いかける
「……お姉さん、誰?」
「私は雛。妖屋って言って、困ってる妖の味方だよ」
「おい、妖屋は俺だろ。お前はいつから旗揚げしたんだ。あと妖屋は妖で困ってるやつが客であって妖は——」
小うるさい榊は無視して、私は妖に話しかけ続けた。
「あなたのお名前は?」
「ボクはむく」
その毛玉——「むく」と名乗った脛こすりは、私の足元にトコトコと寄ってきて、必死に体を擦り寄せた。
『金細工師の、源爺さん……。いつも、カンカンって、綺麗な音を鳴らして……優しいおじいちゃん。急に、いなくなっちゃったの……』
「妖を飼ってたってわけか。まぁ脛こすりは無害だから大丈夫だろうが、肝の据わったジジイだな」
「……よし、分かった。その源爺さんを探してあげましょう!」
「おい待てって、雛。俺たちは黒鵺の尻尾を追いに来たんだぞ。そんな時間あるのか」
案の定、榊は興味なさそうにキセルを咥えた。私はその横顔をこれ以上ないほどの冷ややかな目で見据える。
「……榊さん。あなた、この間のあの手の血は、ただの飾りだったんですか? 困っている弱者を放っておくのが妖屋の流儀なら、私は今日限りで黒鵺探しの方も辞めさせてもらいますっ!」
「……チッ。ったく、これだから正義感の強いお嬢様は……。おい隙間女、手間賃は後で払う。この長屋の連中に、源爺って爺さんのことを聞いて回れ。色っぽい女の方が話を引き出しやすいだろ」
隙間女は「うふふ、お熱いこと」と笑い残し、壁の隙間へと溶けるように消えていった。
それから一刻ほど、私たちは隙間女が収集してきた情報を頼りに、町中の住人たちへ聞き込みを続けた。行きつけの茶屋があるというので向かってみる。
「あぁ、源爺さんかい? 腕のいい金細工師だったよ。特に鈴の細工にこだわっててねぇ、あんなに透き通った音を出す鈴は他にねえって評判だったんだ。いつもうちで茶を飲んだ後、お土産に団子を包んで持って帰ってたよ。でも、十日ほど前からパタリと姿を見かけなくなっちまって。元々、心臓に持病があったから、みんなで心配してたんだが……」
茶屋にいた老婆は、寂しそうに首を振った。源爺は、あの長屋で誰からも慕われる穏やかな老人だったという。それが、ある日の夕刻、材料の買い出しに出たきり戻ってこなかった。
(……十日前から、戻っていない?)
私は足元で不安げに鳴くむくを抱き上げた。
金属を叩く「カンカン」という音。その温かな音が途絶えた部屋で、この小さな妖はずっと、冷たい壁の隙間で主を待ち続けていたのだ。
「……榊さん。買い出しの途中で倒れたのなら、役所に記録があるはずです。行きましょう」
榊は何も言わず、ただ深く紫煙を吐き出した。私たちは、源爺の足取りを追って、夕暮れ時の町へと走り出した。
私が耳を澄ませて囁くと、榊は「やれやれ」と肩をすくめた。
「……おい、お出ましだ。隠れてる時間は終わりだぜ」
榊が指をパチンと鳴らすと、何もない壁の僅かな継ぎ目から、一筋の白い煙がふわりと立ち上った。次の瞬間、そこには着物をしどけなく着崩した、細身の美女がしなだれかかるように立っていた。幽霊にも見えるが、若干漂うまがまがしい気配から察するに、妖だろう。
「……呼びましたぁ? 榊の旦那……」
「隙間女、悪いが、ちょっと隣の様子を見せてくれ」
彼女は「ふっ」と微笑むと、指先で壁の隙間をなぞった。すると、本来なら数寸もないはずの壁の継ぎ目が、まるでなにかの入り口のように、ぐにゃりと少しだけ口を開けた。
(……わ、すごい。壁の向こうが丸見えです……)
隙間の向こう。埃の舞う薄暗い部屋の隅で、真っ白でふわふわとした毛玉のような妖が、小さな体をさらに丸めて震えていた。
(榊さん、あれは?)
(脛こすりという妖だ。基本的には無害だから安心していい)
『……おじい、ちゃん……。ずっと、待ってるのに……。どこに、行っちゃったの……?』
聞こえてきたのは殺気などは一切なく、ただ主を求めて彷徨う、孤独な子供の泣き声だった。
「おじいちゃん? 誰のことですか?」
私が隙間を抜けて隣室へ入り、おずおずと問いかける
「……お姉さん、誰?」
「私は雛。妖屋って言って、困ってる妖の味方だよ」
「おい、妖屋は俺だろ。お前はいつから旗揚げしたんだ。あと妖屋は妖で困ってるやつが客であって妖は——」
小うるさい榊は無視して、私は妖に話しかけ続けた。
「あなたのお名前は?」
「ボクはむく」
その毛玉——「むく」と名乗った脛こすりは、私の足元にトコトコと寄ってきて、必死に体を擦り寄せた。
『金細工師の、源爺さん……。いつも、カンカンって、綺麗な音を鳴らして……優しいおじいちゃん。急に、いなくなっちゃったの……』
「妖を飼ってたってわけか。まぁ脛こすりは無害だから大丈夫だろうが、肝の据わったジジイだな」
「……よし、分かった。その源爺さんを探してあげましょう!」
「おい待てって、雛。俺たちは黒鵺の尻尾を追いに来たんだぞ。そんな時間あるのか」
案の定、榊は興味なさそうにキセルを咥えた。私はその横顔をこれ以上ないほどの冷ややかな目で見据える。
「……榊さん。あなた、この間のあの手の血は、ただの飾りだったんですか? 困っている弱者を放っておくのが妖屋の流儀なら、私は今日限りで黒鵺探しの方も辞めさせてもらいますっ!」
「……チッ。ったく、これだから正義感の強いお嬢様は……。おい隙間女、手間賃は後で払う。この長屋の連中に、源爺って爺さんのことを聞いて回れ。色っぽい女の方が話を引き出しやすいだろ」
隙間女は「うふふ、お熱いこと」と笑い残し、壁の隙間へと溶けるように消えていった。
それから一刻ほど、私たちは隙間女が収集してきた情報を頼りに、町中の住人たちへ聞き込みを続けた。行きつけの茶屋があるというので向かってみる。
「あぁ、源爺さんかい? 腕のいい金細工師だったよ。特に鈴の細工にこだわっててねぇ、あんなに透き通った音を出す鈴は他にねえって評判だったんだ。いつもうちで茶を飲んだ後、お土産に団子を包んで持って帰ってたよ。でも、十日ほど前からパタリと姿を見かけなくなっちまって。元々、心臓に持病があったから、みんなで心配してたんだが……」
茶屋にいた老婆は、寂しそうに首を振った。源爺は、あの長屋で誰からも慕われる穏やかな老人だったという。それが、ある日の夕刻、材料の買い出しに出たきり戻ってこなかった。
(……十日前から、戻っていない?)
私は足元で不安げに鳴くむくを抱き上げた。
金属を叩く「カンカン」という音。その温かな音が途絶えた部屋で、この小さな妖はずっと、冷たい壁の隙間で主を待ち続けていたのだ。
「……榊さん。買い出しの途中で倒れたのなら、役所に記録があるはずです。行きましょう」
榊は何も言わず、ただ深く紫煙を吐き出した。私たちは、源爺の足取りを追って、夕暮れ時の町へと走り出した。

