江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

 翌朝、私は約束通り榊の屋敷へと向かった。相変わらず泥にまみれたボロ屋敷だが、今日は門の前で、榊が珍しく退屈そうに地面を蹴って待っていた。

「……来たか。ネジの巻き忘れはなさそうだな」
「失礼ですね。準備は万端です。……それで、刀鍛冶のお知り合いというのは?」
「あぁ。少し歩くぞ。江戸の喧騒から外れた、風通しのいい場所だ」

 並んで歩き出し、私はふと昨夜、自分の屋敷で感じた奇妙な気配について口を開いた。

「……榊さん。昨夜、家に帰ってから、床の間に飾ってある家宝の刀から不思議な気配を感じたんです。まるで、生きているような……」
「あぁ、そいつは付喪神だろうな。百年も経てば、物にも心が宿る。西園寺の家宝なら、それくらいの年月は余裕で経ってるだろ」
「やっぱり、そうなんですね。……なんだか、昨夜から急に、世の中が妖でいっぱいに見えてきました」

 私が溜息をつくと、榊は前を見据えたまま、静かに言葉を繋いだ。

「妖に限った話じゃねえ。この世はな、人よりそれ以外の方がはるかに多いんだ。動物、木、草、虫……。数で言えば人間なんてほんの一握りでしかない。俺たちは、八百万の神や妖が作ったこの江戸に、少しだけ場所を借りて住まわせてもらってるだけなんだよ」
「……なんだか、いいこと言いますね、榊さん。少し見直しました」
「ふん。……そろそろ到着だぞ、木偶人形。その錆びた思考を少しは研ぎ澄ませておけ」
「……前言撤回です。やっぱり嫌なことも言いますね、あなたという人は!」


 案内されたのは、町外れの深い森の奥にある、岩壁を切り出したような不思議な工房だった。

 中に入ると、一人の男が黙々と鉄を打っていた。

「あの方は?」
「今紹介する」

 その男が振り向いた瞬間、工房内の空気がピリリと震えたような気がした。

「……榊か。また面倒な依頼を持ち込みにきたのか」
「あぁ。こいつに合う刀が欲しくてな、天津麻羅(あまつら)」

 私は、その男の名前を聞いて、思わず自分の耳を疑った。

「……あ、あの、榊さん。天津麻羅って……それ、妖どころか、日本神話に出てくる刀鍛冶の神様ではありませんか!?」
「そうだよ。刀を打つなら、神様に頼むのが一番手っ取り早いだろ」
「な、何を言っているんですか! 滅相もありません! あなたは、お腹が空いている人に、大名が食べるようなご馳走をいきなり用意するんですか!?」
「え、別にしてもよくないか? 喜ぶだろ」

 この男の常識は、やはりどこまでも破綻している。

「……っ、今のは私の例えが悪かったです! でも、分相応というものがあるでしょう!私のような未熟な剣士に、神様が打った刀なんて……!」

 私が慌てふためいていると、榊はいつになく真剣な、それでいて少しだけ柔らかな視線を私に向けた。

「お前は、昨夜あの状況で、折れた刃を蹴り上げて逆転してみせた。……それくらいの度胸がある奴なら、この爺の打つ刀を持っても罰は当たらねえと思うぞ」
「…………っ」

 ……ずるい。

 そんな風に、真っ直ぐな言葉で肯定されたら、言い返せるはずがないではないか。

 私は顔が急速に熱くなるのを感じ、俯いて仕込み杖(今はただの杖)の柄をぎゅっと握りしめた。

「……も、もう、知りません。後で高額な請求をされても、私は一文も払いませんからね!」
「あぁ、代金ならもう済ませてある。……お前の正義感で、たっぷり働いてもらうからな」

 榊の不敵な笑みに、私はまた一つ、逃げられない約束を交わしてしまったことを悟った。

 工房の奥に設えられた、神聖さすら感じる炉の熱気が、私の頬をじりじりと焼く。私は意を決して、手に持った相棒——真っ二つに折れてしまった仕込み杖を、天津麻羅へと差し出した。

「……お願いします」

 老鍛冶は、煤に汚れた大きな手で、無造作にそれを受け取った。折れた断面を凝視し、鼻を鳴らす。

「ふん。仕込み杖か。……娘、分かっているとは思うが、これのような直刀は日本刀特有の反りがない。衝撃を逃がす術がなく、強度の面では致命的に脆いぞ。そんななまくら、わしに言わせりゃあ棒切れと大差ないわ」

 その言葉は、まるで今の私自身を否定されたようで、胸の奥がチクリと痛んだ。けれど、横で腕を組んでいた榊が、ぶっきらぼうに言葉を挟む。

「……だからあんたに頼んでんだ。そんな棒切れでも黒鵺の首を叩き切る極上の牙に仕上げるのが、あんたの仕事だろクソ親父」
「……相変わらず口の減らん若造だ」

 天津麻羅は呆れたように肩をすくめたが、その瞳には鍛冶職人としての静かな熱が灯っていた。彼は折れた刀身を鉄床の上に置くと、大きな金槌を握り直す。

「わかった。打ち上がるまでには、それなりに刻がかかるぞ。また来い」
「……はい。ありがとうございます」

 工房を後にし、私たちは再び、ひんやりとした林の空気に包まれた。背後からは、キンッ、キンッと、この世界そのものを叩き直すような、高く澄んだ音が響いてくる。

 仕込み杖を持っていないと、体全体が心細いくらいに軽い。黙って歩く榊の横顔を盗み見ると、彼は珍しく険しい表情で、道端の笹をキセルの先で払っていた。

「……おい、雛」
「はい?」
「刀ができるまでは、絶対に無茶はするなよ」

 いつもの冷やかしではない、低く、重い声。彼は私を振り返ることなく、言葉を続ける。

「丸腰のお前なんて、ただの歩く標的でしかないんだからな。……いいか、大人しく引っ込んでろ」
「……はい、分かっていますよ。もう」

 相変わらず一言多いのだ、この人は。けれど、昨夜彼が握りしめていた拳を思い出せば、その毒舌さえも、私を繋ぎ止めるための不器用な鎖のように感じられた。

 牙を失った私は、榊の少し後ろを歩幅を合わせて歩き続けた。