座敷の空気が、不意に数度下がったような気がした。それまで漂っていた古い紙の匂いが、ひどく湿った、あるいは獣に近い生々しい「気配」へと変色していく。
私は無意識に、左手に携えていた杖を両手で握り直した。
左手は杖の中ほどより上、右手はそれを受け止めるように添える。右手の親指が、左手の親指と向かい合わせになる位置——いつでも動けるように。
「……安心しろ。刀を抜く必要はねえし、そもそも刀で勝てる相手じゃねえ」
榊が、キセルの煙を吹きかけながら鼻で笑った 。
「なぜ、これが仕込み杖だと……」
「西園寺の屋敷からここまで、確かに遠いが、健脚なお前さんの足で杖が必要な距離じゃねえ。さっき歩いてきた足音を聞けば、どこも患っちゃいないことも分かる」
榊は座椅子に深く身を沈めたまま、私の構えを顎でしゃくった。
「不穏な気配を感じた瞬間のその手の位置、そして左手の親指の付け根にある、うっすらとした切り傷。抜刀と納刀を繰り返す、剣客にしかできねえ傷跡だ」
見抜かれていた。この男は、私の歩き方一つから手の傷一つまで、まるで見透かしているのだ。
「……それで。この気配は何なのですか? 刀で勝てないというのは?」
「……そんななまくら一本で、八百万の神仏や妖と渡り合おうなんて、武家の娘さんは度胸があるなって意味だ」
榊は立ち上がり、首をコキコキと鳴らす。
「気配を感じられるなら、素質はあるな。……いいか、木偶人形。少しだけ『力』を分けてやる。驚いて腰を抜かすんじゃねえぞ」
榊がそう言うと、唇を動かして低く、呪文のような言葉を紡いだ。
一瞬、視界がぐらりと歪んだ。榊の言葉が耳を打った瞬間、まるで白黒だった世界に極彩色の絵具をぶちまけたような、凄まじい「異変」が目に飛び込んできた。
「…………っ!!?」
思わず息を呑む。さっきまで埃っぽく静かだったはずの座敷は、今や大混雑の茶屋のような騒ぎに包まれていた。
「……っ!?」
咄嗟に杖を構え直した私の目に飛び込んできたのは、江戸の八百万が「日常」を謳歌する、目も眩むような狂乱の光景だった。
見上げれば、天井の太い梁に、とぐろを巻くような異様な影。首が九尺はあろうかというろくろ首だ。その蛇のごとき首を複雑にうねらせ、榊が吐き出す銀のキセルの紫煙を、首の輪で器用に捉えては輪投げのように興じている。
ゆらゆらと揺れる首は、まるで生き物のように動く煙の輪を潜り抜けるたび、満足げに喉を鳴らしていた。
視線を部屋の奥へと転ずれば、格式高いはずの床の間さえも、妖の遊び場と化している。そこには巨大な一つ目を持つ提灯お化けが鎮座し、どこから仕入れたのか、最近江戸の町で流行りの瓦版を熱心に読み耽っていた。
「ふむふむ、奇跡の名医が登場、しかし薬代は高いと。命にも値段が付く時代だね」
と言い、大きな目玉をギョロつかせ、提灯のひだを震わせてはケラケラと笑い声を上げている。
さらに、榊のすぐ背後には、どんよりとした漆黒の空気を纏った小柄な影がへばり付いていた。ボロボロの着物を纏った貧乏神だ。
あろうことか、榊が手元に置いていた酒の瓶を勝手に開け、うっとりとした表情でその香りを嗅いでいる。
榊の不運を吸い取るどころか、まるで馴染みの居候のように、酒の残り香に身を委ねて幸せそうに鼻を鳴らしていた。
そして、一番賑やかなのは部屋の隅だった。数人の座敷童たちが、私の持つ仕込み杖を囲んで、腹を抱えて笑い転げている。
「なまくらだ! なまくらだ!」
無邪気な、しかし容赦のない子供たちの声。彼らは私の杖を指差しては、ひっくり返って追いかけっこを始め、畳の上を縦横無尽に跳ね回っていた。
「……な、なんなんですか、この騒ぎは!」
「言っただろ。ここは江戸の吹き溜まりだ。あいつらみたいな連中には、最高の居心地なんだよ」
榊は、ろくろ首に煙の輪を器用に放ちながら、相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。
先ほどまでただの廃屋だと思っていた場所が、今やどの場所よりも生々しく躍動している。
「じゃあ、そろそろここに来た目的を聞かせてもらえるかい」
榊の言葉を受け、心を落ち着けながら正座をし、居住まいを正した。
私は無意識に、左手に携えていた杖を両手で握り直した。
左手は杖の中ほどより上、右手はそれを受け止めるように添える。右手の親指が、左手の親指と向かい合わせになる位置——いつでも動けるように。
「……安心しろ。刀を抜く必要はねえし、そもそも刀で勝てる相手じゃねえ」
榊が、キセルの煙を吹きかけながら鼻で笑った 。
「なぜ、これが仕込み杖だと……」
「西園寺の屋敷からここまで、確かに遠いが、健脚なお前さんの足で杖が必要な距離じゃねえ。さっき歩いてきた足音を聞けば、どこも患っちゃいないことも分かる」
榊は座椅子に深く身を沈めたまま、私の構えを顎でしゃくった。
「不穏な気配を感じた瞬間のその手の位置、そして左手の親指の付け根にある、うっすらとした切り傷。抜刀と納刀を繰り返す、剣客にしかできねえ傷跡だ」
見抜かれていた。この男は、私の歩き方一つから手の傷一つまで、まるで見透かしているのだ。
「……それで。この気配は何なのですか? 刀で勝てないというのは?」
「……そんななまくら一本で、八百万の神仏や妖と渡り合おうなんて、武家の娘さんは度胸があるなって意味だ」
榊は立ち上がり、首をコキコキと鳴らす。
「気配を感じられるなら、素質はあるな。……いいか、木偶人形。少しだけ『力』を分けてやる。驚いて腰を抜かすんじゃねえぞ」
榊がそう言うと、唇を動かして低く、呪文のような言葉を紡いだ。
一瞬、視界がぐらりと歪んだ。榊の言葉が耳を打った瞬間、まるで白黒だった世界に極彩色の絵具をぶちまけたような、凄まじい「異変」が目に飛び込んできた。
「…………っ!!?」
思わず息を呑む。さっきまで埃っぽく静かだったはずの座敷は、今や大混雑の茶屋のような騒ぎに包まれていた。
「……っ!?」
咄嗟に杖を構え直した私の目に飛び込んできたのは、江戸の八百万が「日常」を謳歌する、目も眩むような狂乱の光景だった。
見上げれば、天井の太い梁に、とぐろを巻くような異様な影。首が九尺はあろうかというろくろ首だ。その蛇のごとき首を複雑にうねらせ、榊が吐き出す銀のキセルの紫煙を、首の輪で器用に捉えては輪投げのように興じている。
ゆらゆらと揺れる首は、まるで生き物のように動く煙の輪を潜り抜けるたび、満足げに喉を鳴らしていた。
視線を部屋の奥へと転ずれば、格式高いはずの床の間さえも、妖の遊び場と化している。そこには巨大な一つ目を持つ提灯お化けが鎮座し、どこから仕入れたのか、最近江戸の町で流行りの瓦版を熱心に読み耽っていた。
「ふむふむ、奇跡の名医が登場、しかし薬代は高いと。命にも値段が付く時代だね」
と言い、大きな目玉をギョロつかせ、提灯のひだを震わせてはケラケラと笑い声を上げている。
さらに、榊のすぐ背後には、どんよりとした漆黒の空気を纏った小柄な影がへばり付いていた。ボロボロの着物を纏った貧乏神だ。
あろうことか、榊が手元に置いていた酒の瓶を勝手に開け、うっとりとした表情でその香りを嗅いでいる。
榊の不運を吸い取るどころか、まるで馴染みの居候のように、酒の残り香に身を委ねて幸せそうに鼻を鳴らしていた。
そして、一番賑やかなのは部屋の隅だった。数人の座敷童たちが、私の持つ仕込み杖を囲んで、腹を抱えて笑い転げている。
「なまくらだ! なまくらだ!」
無邪気な、しかし容赦のない子供たちの声。彼らは私の杖を指差しては、ひっくり返って追いかけっこを始め、畳の上を縦横無尽に跳ね回っていた。
「……な、なんなんですか、この騒ぎは!」
「言っただろ。ここは江戸の吹き溜まりだ。あいつらみたいな連中には、最高の居心地なんだよ」
榊は、ろくろ首に煙の輪を器用に放ちながら、相変わらず不敵な笑みを浮かべていた。
先ほどまでただの廃屋だと思っていた場所が、今やどの場所よりも生々しく躍動している。
「じゃあ、そろそろここに来た目的を聞かせてもらえるかい」
榊の言葉を受け、心を落ち着けながら正座をし、居住まいを正した。

