奉行所へと引き渡された熊蔵は、逃げ場のない檻の中へと放り込まれた。
前回の玄安の二の舞を演じぬよう、榊は自ら筆を執り、牢屋の四隅に強力な妖除けのお札を貼り付けた。
「……これで、外からの呪いも、中からの暴走も防げるはずだ。……いいな、役人衆。次こそ口封じなんて醜態を見せるんじゃねえぞ」
榊の冷徹な一喝に、奉行所の役人たちは顔を青くして頷くしかなかった。私たちは夜の静寂が戻りつつある町を、並んで歩き始めた。
「……はぁ。やっと、終わったんですね」
私は腰に差した、柄と半分だけの刀身しか残っていない仕込み杖を寂しげに見つめた。父上から授かり、数々の危機を共に乗り越えてきた相棒。折れてしまった断面は、今夜の激闘を物語るように鋭く、そして虚しく光っている。
「……榊さん。明日、新しい仕込み杖を新調しようと思います。さすがに折れたままでは、次の黒鵺の刺客が来た時に、文字通りの木偶人形になってしまいますから」
「新調、か。……ふん。なら、俺が用意してやるよ」
榊は前を向いたまま、素っ気なくそう言った。
「えっ? 榊さんがですか? いいですよ、そんな。西園寺家御用達の鍛冶屋もありますし、代金だって……」
「四の五の言うな。俺がお前に使いにくいと文句を言わせねえ極上のやつを、知り合いの伝手で打たせてやる。……明日、いつもの屋敷に来い」
あまりに強引な申し出に、私は呆れながらも、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……。ふふ、ありがとうございます。でも、榊さん。お金、あるんですか? というか、前から気になっていたんですけど、榊さんってどうやって生計を立てているんですか? 妖屋なんていかがわしい商売、そんなに儲かるとは思えませんけど」
というか、なにをするのかすら未だにわかってない。
「余計なお世話だ。……ま、ボチボチやってるよ。妖に困っているのは、お前さんみたいな木偶人形だけじゃねえからな」
榊はそれ以上語るのを拒むように、ひらひらと片手を振った。
「じゃあな、雛。……寝坊してネジを切らすんじゃねえぞ」
榊の背中が、夜の闇に消えていく。私はその姿を見送っていたが——彼が最後に上げた右手の違和感に、ふと目を奪われた。
「…………っ、え?」
月明かりの下、一瞬だけ見えた彼の右手のひら。そこには、痛々しいほど深く、四つの赤い筋が刻まれていた。手のひらの肉に爪が食い込み、そこから一筋、鮮やかな血が指を伝って流れている。
(……あれは、まさか)
私の脳裏に、先ほどの賭場での戦闘が蘇る。私が窮地に陥り、刀が折れ、虎の牙が迫ったあの瞬間。榊は助けに入らず、ただ悠然と眺めているだけに見えた。
……けれど、現実は違ったのか? 彼は助太刀をしたい衝動を、私の成長を信じて我慢するために。己の拳を、皮膚が裂けるほどの力で握り締めていたのだ。
(……あの、大馬鹿者)
私は、折れた杖を強く抱きしめた。冷淡な言葉と不遜な態度の裏に隠された、あまりにも不器用で、痛々しいほどの情熱。
夕焼けのせいにして誤魔化したはずの顔が、再び熱くなるのを感じた。江戸の夜風が、私の火照った頬を優しく撫でて通り過ぎる。
明日、あの屋敷へ行けば、また彼はいつもの毒舌で私を迎えるのだろう。けれど、流れた血の数だけ、私はあの性格破綻者の横顔に、また一歩近づけた気がしていた。
家に戻り、静まり返った自室で折れた仕込み杖を傍らに置いた。
脳裏に浮かぶのは、別れ際にひらひらと振られた榊の右手だ。手のひらに刻まれた深い爪痕と、そこから滴っていた赤い血。あの人はいつも、あんな風に自分を律しながら、目に見えない危うい境界線の上を歩いているのだろうか。
ふと、床の間に飾られた伝来の宝刀に目が留まる。以前は何とも思わなかった。ただの歴史ある美術品だと。けれど今は、暗がりの中で鞘が微かに呼吸しているような、奇妙な実体感があった。
(……ここにも、いるんだな)
それはきっと、妖と呼ばれる存在の欠片。かつての私には見えなかっただけで、この世界は最初から、人ならざる隣人たちで溢れていたのだ。
榊は、ずっとこの騒がしくて、どこか寂しい世界で一人、生きてきた。そして今、私もまた、その世界の片隅に触れている。庭を照らす月明かりは昨日までと同じはずなのに、今の私には、影の形さえ違って見える。
明日、あの屋敷へ行けば、また新しい何かに気づくのかもしれない。不器用な妖屋の横顔を思い出しながら、私は静かに、夜の静寂へと身を沈めた。
前回の玄安の二の舞を演じぬよう、榊は自ら筆を執り、牢屋の四隅に強力な妖除けのお札を貼り付けた。
「……これで、外からの呪いも、中からの暴走も防げるはずだ。……いいな、役人衆。次こそ口封じなんて醜態を見せるんじゃねえぞ」
榊の冷徹な一喝に、奉行所の役人たちは顔を青くして頷くしかなかった。私たちは夜の静寂が戻りつつある町を、並んで歩き始めた。
「……はぁ。やっと、終わったんですね」
私は腰に差した、柄と半分だけの刀身しか残っていない仕込み杖を寂しげに見つめた。父上から授かり、数々の危機を共に乗り越えてきた相棒。折れてしまった断面は、今夜の激闘を物語るように鋭く、そして虚しく光っている。
「……榊さん。明日、新しい仕込み杖を新調しようと思います。さすがに折れたままでは、次の黒鵺の刺客が来た時に、文字通りの木偶人形になってしまいますから」
「新調、か。……ふん。なら、俺が用意してやるよ」
榊は前を向いたまま、素っ気なくそう言った。
「えっ? 榊さんがですか? いいですよ、そんな。西園寺家御用達の鍛冶屋もありますし、代金だって……」
「四の五の言うな。俺がお前に使いにくいと文句を言わせねえ極上のやつを、知り合いの伝手で打たせてやる。……明日、いつもの屋敷に来い」
あまりに強引な申し出に、私は呆れながらも、少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……。ふふ、ありがとうございます。でも、榊さん。お金、あるんですか? というか、前から気になっていたんですけど、榊さんってどうやって生計を立てているんですか? 妖屋なんていかがわしい商売、そんなに儲かるとは思えませんけど」
というか、なにをするのかすら未だにわかってない。
「余計なお世話だ。……ま、ボチボチやってるよ。妖に困っているのは、お前さんみたいな木偶人形だけじゃねえからな」
榊はそれ以上語るのを拒むように、ひらひらと片手を振った。
「じゃあな、雛。……寝坊してネジを切らすんじゃねえぞ」
榊の背中が、夜の闇に消えていく。私はその姿を見送っていたが——彼が最後に上げた右手の違和感に、ふと目を奪われた。
「…………っ、え?」
月明かりの下、一瞬だけ見えた彼の右手のひら。そこには、痛々しいほど深く、四つの赤い筋が刻まれていた。手のひらの肉に爪が食い込み、そこから一筋、鮮やかな血が指を伝って流れている。
(……あれは、まさか)
私の脳裏に、先ほどの賭場での戦闘が蘇る。私が窮地に陥り、刀が折れ、虎の牙が迫ったあの瞬間。榊は助けに入らず、ただ悠然と眺めているだけに見えた。
……けれど、現実は違ったのか? 彼は助太刀をしたい衝動を、私の成長を信じて我慢するために。己の拳を、皮膚が裂けるほどの力で握り締めていたのだ。
(……あの、大馬鹿者)
私は、折れた杖を強く抱きしめた。冷淡な言葉と不遜な態度の裏に隠された、あまりにも不器用で、痛々しいほどの情熱。
夕焼けのせいにして誤魔化したはずの顔が、再び熱くなるのを感じた。江戸の夜風が、私の火照った頬を優しく撫でて通り過ぎる。
明日、あの屋敷へ行けば、また彼はいつもの毒舌で私を迎えるのだろう。けれど、流れた血の数だけ、私はあの性格破綻者の横顔に、また一歩近づけた気がしていた。
家に戻り、静まり返った自室で折れた仕込み杖を傍らに置いた。
脳裏に浮かぶのは、別れ際にひらひらと振られた榊の右手だ。手のひらに刻まれた深い爪痕と、そこから滴っていた赤い血。あの人はいつも、あんな風に自分を律しながら、目に見えない危うい境界線の上を歩いているのだろうか。
ふと、床の間に飾られた伝来の宝刀に目が留まる。以前は何とも思わなかった。ただの歴史ある美術品だと。けれど今は、暗がりの中で鞘が微かに呼吸しているような、奇妙な実体感があった。
(……ここにも、いるんだな)
それはきっと、妖と呼ばれる存在の欠片。かつての私には見えなかっただけで、この世界は最初から、人ならざる隣人たちで溢れていたのだ。
榊は、ずっとこの騒がしくて、どこか寂しい世界で一人、生きてきた。そして今、私もまた、その世界の片隅に触れている。庭を照らす月明かりは昨日までと同じはずなのに、今の私には、影の形さえ違って見える。
明日、あの屋敷へ行けば、また新しい何かに気づくのかもしれない。不器用な妖屋の横顔を思い出しながら、私は静かに、夜の静寂へと身を沈めた。

