江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

「……はぁ、はぁ。……本当、もう。吉原のお姉様は、カマイタチよりよっぽど手強いです……」

 嵐のような女性の手管講習から命からがら逃げ出した私は、乱れた襟元を整えながら、畳の上にへたり込んだ。

 隣では、榊がお菊さんの淹れた二杯目のお酒を悠然と啜っている。

 この男、私が揉みくちゃにされている間、一度も助けてくれなかったどころか、猫又と一緒になって面白そうに眺めていたのだ。

「事態が落ち着いたなら仕事だ。……お菊、最近このあたりで、黒鵺の紋様……妙な入れ墨を入れた男を見かけなかったか?」

 榊の問いに、お菊さんは豊満な胸元に手を当て、首を横に振った。

「うーん、鵺なんて不気味な彫り物は記憶にないわねぇ。……でも、別の店の子が変な入れ墨の客がいて気味が悪いって零してた気がするわ」
「変な入れ墨?」
「ええ。何でも、絵は立派だけど、様子がおかしいんだって。……紹介してあげましょうか?」
「頼むよ」


 お菊さんの紹介で、私たちは別の楼閣の裏手で、お蝶という若い遊女から話を聞くことができた。

 彼女が怯えながら語ったのは、先日やってきた熊蔵という名の、しがない博徒の背中にあった入れ墨の話だった。

「……すごく大きな、竹林を駆ける虎の彫り物なんです。でも、なぜか……両目だけが、描かれていないんです。まるで、空っぽの骸骨というか、なんて言えばいいのか……」
「虎、ねぇ。鵺の手足は虎だが、目がない虎は鵺とは無関係かな」

 少し残念そうな榊さんの声。

 お蝶さんにお礼を言い、私たちは夜の吉原を後にした。大門を出て、再び見返り柳の道を歩きながら、私は隣の毒舌男に疑問を投げかける。

「……榊さん、なぜここで聞き込みなんてしたんですか? 黒鵺のやつらがこんなところに堂々と現れるとは思えませんが」
「黒鵺は妖を捕まえて、この間の医者や絵師みたいに、力を欲しがる人間に売り捌いて金を稼いでる。……ところで、幹部は知らんが、実務をこなす下っ端には喧嘩で捕まるようなただのごろつきが混じっている」

 榊はキセルの先で夜空を指した。

「そんな奴らがあぶく銭を手に入れてやることは、大体相場が決まってる。……博打に女、それから箔を付けるための派手な入れ墨だ。奴らの足取りを掴むには、欲望の集まる場所を洗うのが一番早い」
「……なるほど。でも、お蝶さんが言っていた目のない虎って……黒鵺とは本当に無関係なんですか?」
「さてな。鵺の紋様じゃねえが、話のキナ臭さは一級品だ。……行くぞ、雛。その熊蔵って男、今夜は近くの賭場にいるらしい」


 吉原のきらびやかな灯りを離れ、私たちは場末の長屋の一角にある非合法な賭場へと向かった。父上が前々から江戸の清浄化のためにつぶしたがっているが、こういう場所も庶民には必要だからつぶすにつぶせないとぼやいていた。

 建物の中から漏れ聞こえるのは、荒っぽい男たちの怒声と、賽を振る乾いた音。榊は無造作に扉を蹴り開け、中の熱気を一気に冷ました。

「おい、熊蔵はどこだ」
「あぁ? 何だお前ら……」

 奥でサイコロを振っていた大男が、苛立ち紛れに振り返る。その視線で榊は目当ての男が分かったらしい。奥の男、熊蔵が立ち上がった瞬間、暑さで脱ぎ散らされた羽織の隙間から、その背中が露になった。

 そこに描かれていたのは、一世を風靡した伝説の絵師・雪舟斎の筆致を思わせる、見事な虎。しかし、お蝶の言った通り、その虎の顔には「瞳」がない。

「……っ! 榊さん、あの入れ墨……動いてます!」

 微妙に蠢くその背中、私と榊の目は釘付けになる。

「黒鵺と関係あるかはわからんが、とりあえずこっちに来てもらおうか」

 榊が近づいた瞬間、熊蔵が白目を向いた。と同時に、背中の虎が先ほど以上に激しく動く。

「あのアホ、足りねえ墨で無理やり彫らせやがったな。雪舟斎の骨を混ぜた墨は、絵が完成しねえ限り、永遠に不足している何かを求めて暴走し続ける」

 その瞬間、熊蔵が苦悶の声を上げてのけぞった。

 彼の背中から、黒い霧のような墨の奔流が噴き出し、それが実体を持った「虎の脚」となって畳を切り裂く。

「見えねえ! 何も見えねえぞ! 誰だ、俺の目を盗んだのはッ!」

 熊蔵自身の叫びか、あるいは虎の咆哮か。

 目がない虎は、完全な実体感を持たないまま、周囲にあるあらゆる動くものを敵と見なし、見えない牙を剥き出しにして襲いかかってきた。

「……ッ! 来ます!」

 私は仕込み杖を握り直し、腰を落とす。

 不気味な墨の虎は、視界を持たないゆえに、音と気配だけで正確に私の喉元を狙ってきた。

「雛、なまくらでその盲の牙を捌いてみせろ! こいつは視界を奪おうとする。目を逸らすなよ!」
「言われなくても、分かってますっ!」

 墨染めの虎が空を駆ける。江戸の暗い賭場が、一瞬にして墨の地獄へと変貌した。

 吉原の艶やかな余韻を振り払い、私はこの哀れな入れ墨男を救うべく、見えない刃を振るい始めた。