江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~


 約束の場所、大門へと続く見返り柳のたもと。そこには既に、人混みの中でも一際目立つ長身の男が、欠伸を噛み殺しながら壁に背を預けていた。

「……遅いぞ、雛。木偶人形のくせに、ネジを巻くのに手間取ったか? いつからゼンマイ仕掛けになった」

 榊は銀のキセルを懐に仕舞い、呆れたように私を振り返った。だが、私の顔を凝視した瞬間、眉が怪訝そうに跳ねる。

「……何だ、その茹で上がった蛸みたいな面は。熱でもあるのか?」
「なっ……! ち、違います! これは、その、夕焼けのせいです! 空が赤いから、照り返してるだけですっ!」

 既に日は落ち、空は濃藍に染まり始めている。私の苦しい言い訳を、榊は「ふーん」とだけ鼻で笑い飛ばした。

「勝手にしろ。行くぞ。ここからは江戸で一番、欲と厄が煮詰められた場所だ」


 大門をくぐり抜けた瞬間、そこは別世界だった。両側に立ち並ぶ楼閣からは、眩いばかりの灯りが溢れ出し、三味線の音と艶めかしい笑い声が夜風に乗って流れてくる。

「あら、妖屋の旦那じゃない! 久しぶりねぇ!」
「榊さーん、こっち向いて! 今夜は空いてるんでしょ?」

 歩き出した途端、格子の中から、あるいは道行く遊女たちから、次々と声が掛かる。

 榊はといえば、それを「あぁ」「後でな」と適当に受け流しながら悠然と歩いている。この男、どこへ行ってもその絶世の顔立ちのせいで人気者なのだ。性格の悪さを知らない女たちは、実にもったいない。

 ……それに引き換え。

 私は、着飾った遊女たちの、溜息が出るような美しさと自分を見比べ、思わず仕込み杖を握る手に力が入った。

 彼女たちの肌は透き通るように白く、着こなしはどこまでも色っぽい。泥を洗ったばかりで、色気も何もない武家の娘である自分がいかにも場違いに思えて、小さく肩を丸める。

「……おい、迷子になるなよ。こっちだ」

 榊が案内したのは、中堅どころだが品格のある一軒の置屋だった。


「おや、榊の旦那! よくおいでくださいましたわ」

 部屋に上がるなり出迎えてくれたのは、お菊という名の、見事な……それはもう、目が釘付けになるほど立派な胸元をしたお姉様だった。

「お連れさんは……あら、可愛いお嬢さん」
「西園寺のとこの娘だ」
「あら、なつかしい名前」
「え! 父上もここに来てたんですか!」
「男には誰にでも息抜きがいるんだよ」

 頭がくらくらする。なんてことだ。

「お嬢さん、大丈夫よ。仕事で来てただけで、全然遊ばない人だったから。それより旦那、今日はどうしたの?」
「あぁ。ちょっと野暮用があってな」

 榊が座布団に腰を下ろすと、部屋の隅で丸まっていた黒猫が、音もなく立ち上がってこちらへ歩いてきた。……いや、よく見ると尻尾が二つに分かれている。普通の猫ではない。

「……あ、あの。榊さん、あの子は何ですか? 普通の猫じゃありませんよね」
「あぁ、半分妖の存在——猫又だよ」

 榊は寄ってきた猫又の喉元を器用に撫でながら、言葉を続ける。

「猫は良いぞ。遊女たちに、男を惑わす『しな』の作り方を教えてくれる師匠でもあるし、冬場は極上の湯たんぽにもなる。吉原じゃあ欠かせねえ人気もんだ」
「し、しな……? 猫が、色気を教えるんですか?」

 驚く私を見て、お菊さんが「あ、なるほど」と何かに気づいたように手を打った。

「旦那、このお嬢さん、あまりに初心すぎますわ。これじゃあ吉原の闇に呑まれてしまいます。……ちょうどいいわ、私に女性の手管を仕込んでほしいんですね」
「は……? 手管って、何ですか?」
「ふふ、まずは男を骨抜きにする視線の投げ方、それから……こーんな風に、着物の襟を少しだけ寛げて……」

 お菊さんが、艶やかな笑みを浮かべながら、私の肩に手を回して着物に手をかけようとしてきた。

「ひ、ひ、ひゃあああああっ!? な、何を、何をするんですかっ! 破廉恥です! 不潔です! 榊さん、助けてくださいっ!」
「あはは、お嬢さん、そんなに暴れないで。大丈夫、痛くも痒くもないから……ただ気持ちいいだけ」
「いーやーでーすーっ! 榊さんのスケベ! 変態! ドブ川の知り合いはやっぱり淫乱!」

 私は部屋中を逃げ回り、お菊さんは「待ってちょうだい」と笑いながら追いかけ、猫又はその様子を「ニャー」と呆れたように眺めている。

 榊はといえば、差し出された酒を飲みながら

「……賑やかで結構なこった」

 と完全に他人事として楽しんでいた。