駄犬の追跡劇は、混迷を極めていった。
この平面のワンちゃん、追いかけられる側の苦労など知る由もなく、町中の面という面を遊び場に変えてしまうのだ。
「ちょ、ちょっと! 今度は空を飛んでる凧に飛び移りましたよ!」
「……根性のねえ犬だ。地を這うのが嫌なら最初から鳥にでも描いてもらえばよかったものを」
榊は毒を吐きながらも、江戸の夜空を舞う凧の影を追って路地を爆走する。
駄犬は凧から凧へ、あるいは干してある洗濯物の着物の柄の中へと、スルスルと泳ぐように移動していく。
そのたびに私は
「すみませーん! 通りまーす!」
と泥だらけの姿で謝りながら追いかける羽目になった。
駄犬はさらに調子に乗り、今度は散策を楽しんでいた町娘たちの集団へと狙いを定めた。
ひときわ艶やかな桃色の小袖を着た娘の背後に、影のようにスルスルと忍び寄ると、あろうことか彼女の帯の結び目の中にヒラリと飛び移ったのだ。
「きゃっ!? な、何? 今、背中を冷たい風が通り抜けたような……」
娘が驚いて振り返った瞬間、彼女の帯の柄であったはずの千鳥の刺繍を蹴散らして、墨色の駄犬がキャン! と勝ち誇ったように顔を出した。
「う、動いた!? 帯の絵が動いたわ! 化け物よーっ!」
「わあああ! ごめんなさい! それ、うちの……じゃないですけど、悪いワンちゃんじゃないんです! ちょっと平面なだけなんです!」
私は振り乱した髪に泥はねを撒き散らして彼女たちの間を割って入る。
町娘たちは、動く墨絵の犬よりも、その後ろから突進してくる「泥まみれの不審な女」の迫力に圧倒され、「ひ、ひぃぃぃっ!」と蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
「……おい、雛。お前、今のじゃどっちが妖か分からねえぞ」
榊は涼しい顔で私の横を追い抜きながら、銀のキセルで鼻を掻いた。
「誰のせいでこんな格好をしてると思ってるんですか! これ、お風呂に入ったらちゃんと落ちるんでしょうね!?」
「知るか。……だが安心しろ。あの駄犬が銭湯の暖簾を潜った。お前が一番求めていた洗い場が、どうやら目的地らしいぜ」
榊はニヤリと唇を吊り上げ、湯気がもうもうと立ち上る『極楽湯』の巨大な門を仰ぎ見た。
江戸でも指折りの巨大な銭湯。
極彩色の提灯と、もくもくと立ち上る巨大な湯煙。駄犬は番台の看板に張り付き、満足げに尾(のような墨の跡)を振って、建物の奥を指し示した。
「……銭湯? 榊さん、まさか黒鵺はこの中に?」
「さぁな。だが骨の匂いはこの奥から、これでもかってくらい漂ってきてるらしいぜ」
榊は迷うことなく暖簾をくぐった。私も必死に後を追うが、一歩足を踏み入れた瞬間、顔から火が出るほどの衝撃に足を止めた。
「——なっ、何なんですか、ここは!? 男女が……っ、男女が同じお湯に浸かっているではありませんか!」
「あぁ? 江戸の銭湯は混浴が当たり前だろ。何を今更、箱入り娘みたいなことを言ってやがる。……あぁ、そういえば実際、西園寺のとこの箱入り娘か」
榊は至極当然のように、湯気で霞む浴場へと進んでいく。
だが、武家の娘として、そして何より一人の乙女として、この光景はあまりにも刺激が強すぎる!
真っ白な湯気の向こうに、無防備な男女の輪郭が浮かび上がり、至るところから楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「ひ、卑猥です! 破廉恥です! 榊さん、どこを見ているんですか! 今すぐ目を閉じなさいっ!」
私は顔を真っ赤に染め、両手で顔を覆いながら(指の間から覗きつつ)、榊の着物の裾を必死に引っ張った。
「騒ぐな。俺が興味あるのは、生きている人間じゃねえ。……あれを見ろ」
榊がキセルの先で指し示したのは、浴場の一番奥——壁一面に描かれた巨大な富士山の壁画だった。
それは、普通の絵とは明らかに一線を画していた。墨の濃淡だけで表現された富士は、まるでそこに本物の山がそびえ立っているかのような圧倒的な実体感を持ち、立ち上る湯気と混ざり合って、今にも絵の中から風が吹き抜けてきそうなほど鮮烈だった。
「……何、この絵。吸い込まれそう……」
「わかったか。ここにある『絵』こそが、俺たちが探していた答えだ」
榊は、照れまくる私の反応など一顧だにせず、鋭い眼光でその富士の嶺を見据えた。
「さて、まずは風呂に入ろう」
「えぇー!」
この平面のワンちゃん、追いかけられる側の苦労など知る由もなく、町中の面という面を遊び場に変えてしまうのだ。
「ちょ、ちょっと! 今度は空を飛んでる凧に飛び移りましたよ!」
「……根性のねえ犬だ。地を這うのが嫌なら最初から鳥にでも描いてもらえばよかったものを」
榊は毒を吐きながらも、江戸の夜空を舞う凧の影を追って路地を爆走する。
駄犬は凧から凧へ、あるいは干してある洗濯物の着物の柄の中へと、スルスルと泳ぐように移動していく。
そのたびに私は
「すみませーん! 通りまーす!」
と泥だらけの姿で謝りながら追いかける羽目になった。
駄犬はさらに調子に乗り、今度は散策を楽しんでいた町娘たちの集団へと狙いを定めた。
ひときわ艶やかな桃色の小袖を着た娘の背後に、影のようにスルスルと忍び寄ると、あろうことか彼女の帯の結び目の中にヒラリと飛び移ったのだ。
「きゃっ!? な、何? 今、背中を冷たい風が通り抜けたような……」
娘が驚いて振り返った瞬間、彼女の帯の柄であったはずの千鳥の刺繍を蹴散らして、墨色の駄犬がキャン! と勝ち誇ったように顔を出した。
「う、動いた!? 帯の絵が動いたわ! 化け物よーっ!」
「わあああ! ごめんなさい! それ、うちの……じゃないですけど、悪いワンちゃんじゃないんです! ちょっと平面なだけなんです!」
私は振り乱した髪に泥はねを撒き散らして彼女たちの間を割って入る。
町娘たちは、動く墨絵の犬よりも、その後ろから突進してくる「泥まみれの不審な女」の迫力に圧倒され、「ひ、ひぃぃぃっ!」と蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
「……おい、雛。お前、今のじゃどっちが妖か分からねえぞ」
榊は涼しい顔で私の横を追い抜きながら、銀のキセルで鼻を掻いた。
「誰のせいでこんな格好をしてると思ってるんですか! これ、お風呂に入ったらちゃんと落ちるんでしょうね!?」
「知るか。……だが安心しろ。あの駄犬が銭湯の暖簾を潜った。お前が一番求めていた洗い場が、どうやら目的地らしいぜ」
榊はニヤリと唇を吊り上げ、湯気がもうもうと立ち上る『極楽湯』の巨大な門を仰ぎ見た。
江戸でも指折りの巨大な銭湯。
極彩色の提灯と、もくもくと立ち上る巨大な湯煙。駄犬は番台の看板に張り付き、満足げに尾(のような墨の跡)を振って、建物の奥を指し示した。
「……銭湯? 榊さん、まさか黒鵺はこの中に?」
「さぁな。だが骨の匂いはこの奥から、これでもかってくらい漂ってきてるらしいぜ」
榊は迷うことなく暖簾をくぐった。私も必死に後を追うが、一歩足を踏み入れた瞬間、顔から火が出るほどの衝撃に足を止めた。
「——なっ、何なんですか、ここは!? 男女が……っ、男女が同じお湯に浸かっているではありませんか!」
「あぁ? 江戸の銭湯は混浴が当たり前だろ。何を今更、箱入り娘みたいなことを言ってやがる。……あぁ、そういえば実際、西園寺のとこの箱入り娘か」
榊は至極当然のように、湯気で霞む浴場へと進んでいく。
だが、武家の娘として、そして何より一人の乙女として、この光景はあまりにも刺激が強すぎる!
真っ白な湯気の向こうに、無防備な男女の輪郭が浮かび上がり、至るところから楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「ひ、卑猥です! 破廉恥です! 榊さん、どこを見ているんですか! 今すぐ目を閉じなさいっ!」
私は顔を真っ赤に染め、両手で顔を覆いながら(指の間から覗きつつ)、榊の着物の裾を必死に引っ張った。
「騒ぐな。俺が興味あるのは、生きている人間じゃねえ。……あれを見ろ」
榊がキセルの先で指し示したのは、浴場の一番奥——壁一面に描かれた巨大な富士山の壁画だった。
それは、普通の絵とは明らかに一線を画していた。墨の濃淡だけで表現された富士は、まるでそこに本物の山がそびえ立っているかのような圧倒的な実体感を持ち、立ち上る湯気と混ざり合って、今にも絵の中から風が吹き抜けてきそうなほど鮮烈だった。
「……何、この絵。吸い込まれそう……」
「わかったか。ここにある『絵』こそが、俺たちが探していた答えだ」
榊は、照れまくる私の反応など一顧だにせず、鋭い眼光でその富士の嶺を見据えた。
「さて、まずは風呂に入ろう」
「えぇー!」

