滝夜叉姫に教えられた墓地は、江戸の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
無縁仏の墓場ほど荒れ果ててはいないが、立ち並ぶ墓石はどれも苔むし、夜露に濡れて鈍い光を放っている。
「……ここですね。でも、見たところ変わった様子はありませんけど」
私は仕込み杖を構え、周囲を警戒しながら足を進める。
風が笹を揺らす音以外、生き物の気配すらしない。榊はキセルを口にせず、鼻をひくつかせながら墓石の間を縫うように歩いていく。そして、墓の一角で足を止め、目をつぶりながら両手を合わせた。
「どう……したんですか? お知り合いのお墓ですか?」
「いや、ここに少し妖力の残骸を感じる。おそらくここが滝姫の部下の祓われた場所だ」
「そう、ですか」
私も手を合わせ、拝んだ。少しだけ目を開け、榊さんの横顔をのぞき込む。
決して泣いてはいないが、悲しそうな顔。こんな顔もするんだ……。
しばらくして、また私たちは歩き出した。
「お、あったぞ。……ここだ」
榊が立ち止まったのは、墓地の最奥。大きな銀杏の木に守られるようにひっそりと佇む、一際古い墓の前だった。そこだけが不自然に土が湿り、新しく掘り返されたような跡がある。
「……本当だ。これ、誰かが中を弄った跡ですよね? お供え物を盗む墓荒らしの仕業でしょうか」
「いや、盗まれたのは骨だ。それも、ただの骨じゃねえ」
榊は腰を落とし、掘り返された土を指先で弄った。
「ここは江戸初期の伝説的な絵師——雪舟斎(せっしゅうさい)の墓だ。描いた妖を実体化させることができたっていう、とんでもねえ逸話を持つ男のな」
「雪舟斎……名前くらいは聞いたことがあります。でも、どうしてそんな昔の絵師の骨を?」
「黒鵺の目的は、おそらくその骨を粉にして『墨』に混ぜることだ。雪舟斎の遺骨が混ざった墨で札を書けば、呪術の威力は跳ね上がる。……描いた悪夢を永遠に現世へ繋ぎ止めることも、それこそ新たに妖を生むことも可能だろうよ」
榊の声には、いつになく冷徹な響きがあった。死者の眠りを妨げ、その骨を道具として利用する。そんな冒涜的な行為に、私の正義感はふつふつと煮えくり返る。
「許せません……。榊さん、すぐに追いましょう! 犯人の足取りは掴めますか?」
「普通なら無理だが……こういう時こそ、妖の出番だ」
榊は懐から、黄ばんだ古い和紙の切れ端を取り出した。そこには、墨の滲んだ「犬」のような、それでいて何だかよく分からない下手くそな落書きが描かれている。
「……なんですか、その……ええと、味のある絵は」
「雪舟斎が修行時代の極初期に、遊びで描いたっていう落書きだ。……出てこい、駄犬」
榊が指先で紙を弾くと、和紙から墨が溢れ出し、地面へと滴り落ちた。
すると、その墨が生き物のように蠢き、私の膝丈ほどの大きさの「犬」の形を作り上げた。
だが、その姿はあまりにも奇妙だった。この世界において、その犬だけが白黒の平面的な墨絵のまま動いているのだ。
「きゃ、何これ!? ワンちゃんなのに……ペラペラしてる!」
「雪舟斎の失敗作——通称、落書きの駄犬だ。立体化に失敗して二次元のまま固定されちまったが、その分、墨の匂いを嗅ぎ分ける能力だけは超一流だ。普段は書物や記録を探させる時に助けてもらっている。まさか生みの親を探させる日が来るとは」
「……ちょっと思ったんですけど、榊さんも普通に妖を悪用してません? 黒鵺のこと言える立場ですか?」
「俺はちゃんとエサもやってるし、力づくじゃねぇ」
駄犬は「キャン!」と一鳴きすると、空を仰いで鼻をひくつかせた。そして、あろうことか近くの墓石の表面に「飛び移り」、その中をスルスルと泳ぐように移動し始めた。
「ええっ!? 墓石の中を走ってる!?」
「平面のあいつには、壁や地面が道なんだよな。……おい駄犬、遊びは終わりだ。主人の骨が混ざった墨の匂いを辿れ」
榊が命令すると、駄犬は墓石の中から榊に向かって、真っ黒な墨の「ベロ」をぺろりと出して見せた。そして、まるで見せつけるかのように、榊の着物の裾に墨をペッとはきかけてから、猛スピードで走り去っていった。
「……ッ! このクソ犬が……!」
「あはは! 榊さん、嫌われてるじゃないですか! さすがの妖屋も、落書きには威厳が通じないみたいですね!」
私は思わずお腹を抱えて笑った。榊の眉間には、これでもかというほど深い皺が寄っている。
「……笑ってんじゃねえ、雛。置いていくぞ」
「待ってくださいってば! ……よしよし、ワンちゃん、あっちね!」
町の壁から看板、果ては路上の水たまりへと飛び移りながら進む駄犬を追い、私たちは江戸の闇へと駆け出した。
無縁仏の墓場ほど荒れ果ててはいないが、立ち並ぶ墓石はどれも苔むし、夜露に濡れて鈍い光を放っている。
「……ここですね。でも、見たところ変わった様子はありませんけど」
私は仕込み杖を構え、周囲を警戒しながら足を進める。
風が笹を揺らす音以外、生き物の気配すらしない。榊はキセルを口にせず、鼻をひくつかせながら墓石の間を縫うように歩いていく。そして、墓の一角で足を止め、目をつぶりながら両手を合わせた。
「どう……したんですか? お知り合いのお墓ですか?」
「いや、ここに少し妖力の残骸を感じる。おそらくここが滝姫の部下の祓われた場所だ」
「そう、ですか」
私も手を合わせ、拝んだ。少しだけ目を開け、榊さんの横顔をのぞき込む。
決して泣いてはいないが、悲しそうな顔。こんな顔もするんだ……。
しばらくして、また私たちは歩き出した。
「お、あったぞ。……ここだ」
榊が立ち止まったのは、墓地の最奥。大きな銀杏の木に守られるようにひっそりと佇む、一際古い墓の前だった。そこだけが不自然に土が湿り、新しく掘り返されたような跡がある。
「……本当だ。これ、誰かが中を弄った跡ですよね? お供え物を盗む墓荒らしの仕業でしょうか」
「いや、盗まれたのは骨だ。それも、ただの骨じゃねえ」
榊は腰を落とし、掘り返された土を指先で弄った。
「ここは江戸初期の伝説的な絵師——雪舟斎(せっしゅうさい)の墓だ。描いた妖を実体化させることができたっていう、とんでもねえ逸話を持つ男のな」
「雪舟斎……名前くらいは聞いたことがあります。でも、どうしてそんな昔の絵師の骨を?」
「黒鵺の目的は、おそらくその骨を粉にして『墨』に混ぜることだ。雪舟斎の遺骨が混ざった墨で札を書けば、呪術の威力は跳ね上がる。……描いた悪夢を永遠に現世へ繋ぎ止めることも、それこそ新たに妖を生むことも可能だろうよ」
榊の声には、いつになく冷徹な響きがあった。死者の眠りを妨げ、その骨を道具として利用する。そんな冒涜的な行為に、私の正義感はふつふつと煮えくり返る。
「許せません……。榊さん、すぐに追いましょう! 犯人の足取りは掴めますか?」
「普通なら無理だが……こういう時こそ、妖の出番だ」
榊は懐から、黄ばんだ古い和紙の切れ端を取り出した。そこには、墨の滲んだ「犬」のような、それでいて何だかよく分からない下手くそな落書きが描かれている。
「……なんですか、その……ええと、味のある絵は」
「雪舟斎が修行時代の極初期に、遊びで描いたっていう落書きだ。……出てこい、駄犬」
榊が指先で紙を弾くと、和紙から墨が溢れ出し、地面へと滴り落ちた。
すると、その墨が生き物のように蠢き、私の膝丈ほどの大きさの「犬」の形を作り上げた。
だが、その姿はあまりにも奇妙だった。この世界において、その犬だけが白黒の平面的な墨絵のまま動いているのだ。
「きゃ、何これ!? ワンちゃんなのに……ペラペラしてる!」
「雪舟斎の失敗作——通称、落書きの駄犬だ。立体化に失敗して二次元のまま固定されちまったが、その分、墨の匂いを嗅ぎ分ける能力だけは超一流だ。普段は書物や記録を探させる時に助けてもらっている。まさか生みの親を探させる日が来るとは」
「……ちょっと思ったんですけど、榊さんも普通に妖を悪用してません? 黒鵺のこと言える立場ですか?」
「俺はちゃんとエサもやってるし、力づくじゃねぇ」
駄犬は「キャン!」と一鳴きすると、空を仰いで鼻をひくつかせた。そして、あろうことか近くの墓石の表面に「飛び移り」、その中をスルスルと泳ぐように移動し始めた。
「ええっ!? 墓石の中を走ってる!?」
「平面のあいつには、壁や地面が道なんだよな。……おい駄犬、遊びは終わりだ。主人の骨が混ざった墨の匂いを辿れ」
榊が命令すると、駄犬は墓石の中から榊に向かって、真っ黒な墨の「ベロ」をぺろりと出して見せた。そして、まるで見せつけるかのように、榊の着物の裾に墨をペッとはきかけてから、猛スピードで走り去っていった。
「……ッ! このクソ犬が……!」
「あはは! 榊さん、嫌われてるじゃないですか! さすがの妖屋も、落書きには威厳が通じないみたいですね!」
私は思わずお腹を抱えて笑った。榊の眉間には、これでもかというほど深い皺が寄っている。
「……笑ってんじゃねえ、雛。置いていくぞ」
「待ってくださいってば! ……よしよし、ワンちゃん、あっちね!」
町の壁から看板、果ては路上の水たまりへと飛び移りながら進む駄犬を追い、私たちは江戸の闇へと駆け出した。

