江戸妖屋始末録 ~偏屈なキセル男がお嬢様に振り回され~

 無縁仏の墓場に建つ、泥にまみれたボロ屋敷。その門をくぐる直前、榊が私の肩を掴んで足を止めさせた。

「……雛、ここから先は遊びじゃねえぞ。時代が変わって力はかなり落ちたが、それでもあいつは平将門の娘だ。その気になれば、江戸じゅうの妖を集めて総大将になれるだけの器を持っていやがる。……いいか、絶対に失礼な真似はするなよ」

 榊の真剣な眼光に、私はゴクリと唾を呑み込んだ。平将門の娘。日本史上、最大級の怨霊とも称される英雄の血を引く姫君。……さぞかし、恐ろしくて威厳のある女性なのだろう。

 榊は一つ呼吸を置くと、建付けの悪い扉を

 どんどん!

 と乱暴に叩いた。

「滝姫! いるか!」
「……滝姫? 榊さん、滝夜叉姫じゃないのですか?」
「あいつは呼び名がたくさんあるんだ。滝夜叉姫、滝姫、五月姫、あるいは髑髏姫……。ま、本人が気に入ってるのはどれか知らねえがな」
「へえ、さすがは伝説の姫君。異名まで物々しいですね……」

 私が緊張で仕込み杖を握りしめていた、その時だった。

「——はーい! どしたしー? うちになんか用?」

 ガタガタッ、と扉が開いた。

 現れたのは、真っ黒な生地に不気味な髑髏の刺繍がびっしりと施された着物を纏った女性だった。だが、驚くべきはその着こなしだ。なんと、着物の丈を膝の上まで大胆に短く切り詰め、まるで町娘の遊び着のような……いや、それ以上にはしたないほど奔放な姿だったのだ。

「…………え?」

 私の思考が停止した。

 目の前の伝説の姫君は、長い髪を高い位置で結び、手には派手な飾り扇子を持って、ひらひらと手を振っている。

「あれ? 滝姫。お前、前まで言葉遣いは『わっち』じゃなかったか? 『うち』ってのは何だ」

 榊が呆れたように眉をひそめると、彼女は

「あー!」

 と声を上げて榊の胸に飛びつかんばかりに身を乗り出した。

「あー! ぜんちゃんじゃん! 遊びに来てくれたの? 超ウケるんだけど! あ、言葉遣い? 前までは廓言葉にハマってたんだけどさー。最近、江戸に上方から来た花魁がいて、自分のこと『うち』って言ってたのがマジ可愛くてマネしてるんだよね!」

(……ぜ、ぜんちゃん!? 榊さんのこと、ぜんちゃんって呼んだの!?)

 私は驚愕のあまり、榊を背後から小突き、声を潜めて耳打ちした。

「……ちょっと、榊さん! なんなんですか、あの軽さは! 威厳は? 怨念は? 総大将の器はどうしちゃったんですか! てかぜんちゃんって?」
「……俺に聞くな。時代に合わせて毒気が抜けてるらしい。もう朝廷だ復讐だのは、あいつにとってはどうでもいいらしいからな。『ぜん』ってのは俺の下の名だ。榊繕」
「そんなに仲いいんですか?」
「酒飲み友達、くらいかな」

 榊は深く溜息をつくと、キセルを咥え直し、相変わらず

「どしたのー? その隣の子、ぜんちゃんのメカケ?」
「妾じゃありません!」

 騒いでいる滝夜叉姫——もとい、江戸最新流行系姫君を冷めた目で見つめた。

 江戸の理を知るための鍵が、まさかこんなに浮ついた姫君の手に握られているとは。私は自分の正義感と常識が、本日二度目の大きな音を立てて崩れ去るのを感じていた。