江戸の町外れ、湿った風が笹藪を揺らす音だけが耳につく。
私は、父上に渡された一枚の紙を握りしめ、目の前の光景に呆然と立ち尽くしていた。そこにあるのは、かつてはさぞかし威容を誇ったであろう、広大な武家屋敷だ。だが、今は見る影もない。門は傾き、漆喰の壁にはひびが走り、庭は手入れを忘れられた雑草が、幽霊のように風にそよいでいる。
「……本当に、こんなところに父上の言った『妖屋(あやかしや)』はいるのか」
思わず独り言が漏れた。確かに、場所そのものが「妖」めいている。陽光が差し込んでいるはずなのに、その屋敷の周りだけが、墨を薄く流したような不自然な陰に覆われていた。
私は手に持った杖の感触を確かめる。父上からいただいたものだ。これがあるだけで、多少は心強い。私は意を決して、軋む門をくぐり、玄関へと向かった。
「ごめんください。……どなたか、いらっしゃいませんか」
声をかけてみるが、返事はない。ただ、奥のほうから
「スゥ……」
という、静かな、しかし重みのある呼吸の音が聞こえてきた。
私はその気配を頼りに、薄暗い廊下を進んだ。足元の畳は湿気を吸い、一歩進むごとに嫌な音を立てる。やがて、一番奥にある座敷に行き当たった。
そこは、庭に面した縁側が開け放たれており、ようやく外の光が差し込んでいた。乱雑に積み上げられた古い書物や、出所の知れない骨董品の山。その中心、だらしなく片膝を立てて座る一人の男がいた。
「……失礼します。私は、寺社奉行所と繋がりのある武家、西園寺家の娘、雛と申します。……貴殿が、榊さんでしょうか」
男は、すぐには答えなかった。ただ、手に持った銀のキセルをゆっくりと口元に運び、紫煙を吐き出した。
その立ち居振る舞いの艶やかさに、私は一瞬、息をするのを忘れた。
男——榊は、ヨレヨレの着流しを無造作に羽織っている。だが、その着こなしの乱れさえも、計算された美しさであるかのように錯覚させるほど、彼の存在感は圧倒的だった。
彫りの深い顔立ち。切れ長の瞳は、冷徹な知性を宿しながらも、どこか世の中のすべてを退屈に感じているような、危うい色気を帯びている。無造作に散らされた黒髪の間から覗く耳や、キセルを持つ指先は、武士のそれとは違う、しなやかで力強い美しさがあった 。
何より、その眼光だ。向けられただけで心臓を射抜かれるような鋭さがありながら、同時に、ドブ川に沈んだ宝石を見つめるような、奇妙な慈悲深さが混ざり合っている。
「……榊だ。西園寺の野郎、次はどんな不良品を送り込んできたのかと思えば、今度は身なりもいい自分の娘か」
榊はめんどくさそうに片目を開け、私を値踏みするように見つめた。その声は、低く、湿った夜の空気のように心地よく響く。不遜極まりない態度。それなのに、口を開いた瞬間にその魅力に引き込まれていくような、不思議な磁力があった 。
榊はキセルの灰を、灰皿代わりの古い青銅器に落とし、私の手元にある杖をちらりと見た 。
「木偶(でく)人形が、棒きれ一本で何をしに来た。ここは、お花や茶の湯を教える場所じゃねえぞ」
父上が「毒を以て毒を制す最悪の男だが、頼りにはなる」と言った理由が、その一言で分かった気がした。確かに最悪だ。顔はいいのに、性格がそれをドブ川に叩き落としてる。
だがこの男の放つ、理屈を超えた圧倒的な輝きに、私は抗いようのない武者震いを感じていた。
「……私は木偶ではありません。雛です。……父から、貴殿ならこの町の厄介ごとを解決できると聞いて参りました」
私は精一杯の勇気を振り絞り、榊の鋭い視線を真っ向から受け止めた。
これが私の正義感と、この性格破綻者が衝突し、混ざり合う、最悪な始まりの刻だったのだ。
私は、父上に渡された一枚の紙を握りしめ、目の前の光景に呆然と立ち尽くしていた。そこにあるのは、かつてはさぞかし威容を誇ったであろう、広大な武家屋敷だ。だが、今は見る影もない。門は傾き、漆喰の壁にはひびが走り、庭は手入れを忘れられた雑草が、幽霊のように風にそよいでいる。
「……本当に、こんなところに父上の言った『妖屋(あやかしや)』はいるのか」
思わず独り言が漏れた。確かに、場所そのものが「妖」めいている。陽光が差し込んでいるはずなのに、その屋敷の周りだけが、墨を薄く流したような不自然な陰に覆われていた。
私は手に持った杖の感触を確かめる。父上からいただいたものだ。これがあるだけで、多少は心強い。私は意を決して、軋む門をくぐり、玄関へと向かった。
「ごめんください。……どなたか、いらっしゃいませんか」
声をかけてみるが、返事はない。ただ、奥のほうから
「スゥ……」
という、静かな、しかし重みのある呼吸の音が聞こえてきた。
私はその気配を頼りに、薄暗い廊下を進んだ。足元の畳は湿気を吸い、一歩進むごとに嫌な音を立てる。やがて、一番奥にある座敷に行き当たった。
そこは、庭に面した縁側が開け放たれており、ようやく外の光が差し込んでいた。乱雑に積み上げられた古い書物や、出所の知れない骨董品の山。その中心、だらしなく片膝を立てて座る一人の男がいた。
「……失礼します。私は、寺社奉行所と繋がりのある武家、西園寺家の娘、雛と申します。……貴殿が、榊さんでしょうか」
男は、すぐには答えなかった。ただ、手に持った銀のキセルをゆっくりと口元に運び、紫煙を吐き出した。
その立ち居振る舞いの艶やかさに、私は一瞬、息をするのを忘れた。
男——榊は、ヨレヨレの着流しを無造作に羽織っている。だが、その着こなしの乱れさえも、計算された美しさであるかのように錯覚させるほど、彼の存在感は圧倒的だった。
彫りの深い顔立ち。切れ長の瞳は、冷徹な知性を宿しながらも、どこか世の中のすべてを退屈に感じているような、危うい色気を帯びている。無造作に散らされた黒髪の間から覗く耳や、キセルを持つ指先は、武士のそれとは違う、しなやかで力強い美しさがあった 。
何より、その眼光だ。向けられただけで心臓を射抜かれるような鋭さがありながら、同時に、ドブ川に沈んだ宝石を見つめるような、奇妙な慈悲深さが混ざり合っている。
「……榊だ。西園寺の野郎、次はどんな不良品を送り込んできたのかと思えば、今度は身なりもいい自分の娘か」
榊はめんどくさそうに片目を開け、私を値踏みするように見つめた。その声は、低く、湿った夜の空気のように心地よく響く。不遜極まりない態度。それなのに、口を開いた瞬間にその魅力に引き込まれていくような、不思議な磁力があった 。
榊はキセルの灰を、灰皿代わりの古い青銅器に落とし、私の手元にある杖をちらりと見た 。
「木偶(でく)人形が、棒きれ一本で何をしに来た。ここは、お花や茶の湯を教える場所じゃねえぞ」
父上が「毒を以て毒を制す最悪の男だが、頼りにはなる」と言った理由が、その一言で分かった気がした。確かに最悪だ。顔はいいのに、性格がそれをドブ川に叩き落としてる。
だがこの男の放つ、理屈を超えた圧倒的な輝きに、私は抗いようのない武者震いを感じていた。
「……私は木偶ではありません。雛です。……父から、貴殿ならこの町の厄介ごとを解決できると聞いて参りました」
私は精一杯の勇気を振り絞り、榊の鋭い視線を真っ向から受け止めた。
これが私の正義感と、この性格破綻者が衝突し、混ざり合う、最悪な始まりの刻だったのだ。
