もしもあの時

 社会人になってからの私は、毎日を慌ただしく過ごしていた。
 職場では研修に追われ、夜には覚えきれない言葉たちが頭の中でざらざらこすれ合って、もはや学生時代を思い出す余裕なんてすっかりなくなっていた。

 それでも、数ヶ月が経つころには、仕事の手順はゆっくり身体に馴染んでいき、週末の休日だけがぽつんと救いの形で光っていた。

 休みの日、ショッピングモールで買い物をした。
 駐車場に戻り、親から借りた車に乗り込む。
 エンジンをかけようとした瞬間、私の前を一台の車がすっと横切っていった。
 そして、目の前のスペースに迷いもなく入って停まった。
 私もあんなふうに車庫入れできるようになりたいな。
 そう思いながら、シフトレバーを[P]から[D]へ動かした。
 そのとき、目の前の車から降りてくる影が私の呼吸を止めた。

 え?! もしかして……

 咄嗟にシフトを[P]に戻し、目を凝らす。
 間違いない、貴矢くんだ。
 こんな場所で再会だなんて、世界がちょっとした悪戯を仕掛けてきたみたい。
 あの日とは違う車──真っ赤なスポーツカー。
 そして、降りてきた貴矢くんも、あの日のままではなかった。
 おしゃれで、空気のまとい方まで変わっていて、私は遠くから見ているだけで胸がざわついた。

 降りて話しかけようと、車のドアに手をかけた。
 でも……できなかった。
 今の私じゃ、彼の変化に追いつけていない。
 髪型もメイクも、服の選び方だって、私は学生時代とほとんど変わっていない気がして。
 貴矢くんは私に気づかないまま、ショッピングモールへと入っていった。

 彼の背中が消えるまで見送ってから、私は車を降りた。
 真っ赤なスポーツカーに近づいてみる。
 近くで見ると、光が車体に溶けているみたいにピカピカで、学生時代に乗せてもらったくたびれた車とはまったく違う車だった。
 中を覗いてみると、車内はきれいでゴミひとつない。

 私は自分の車に戻ってドアを閉めた。
 その瞬間、息がひとつ漏れた。
 数ヶ月で、貴矢くんはあんなにも変わった。
 それに比べて、私は──
 車を発進させて家に向かう道すがら、“取り残された”という感覚が膝のあたりからじわじわ上がってきて、暗い影となって心に貼りついた。