もしもあの時

 卒論発表の準備は、思っていたよりずっと手強くて、レジュメの紙は増えるし、スライドの画像はなぜか縦に伸びたり縮んだり、時間の方はこっそり裏口から逃げていくみたいに減っていって、気づけばゼミ室に残っているのは、私と貴矢くんだけになっていた。

「志保、車で送るよ」

 貴矢くんは、車の鍵を手に持ってそう言ってくれた。
 帰りたい気持ちと、まだ終わらない作業と、そうしたものがうねうねと混ざり合う。
 電車とバスを乗り継げば帰れるけれど、その道のりの長さを思うと気が重くなってくる。

 貴矢くんは、同じ研究室でいつも笑い合ってきた仲だ。
 友達以上、恋人未満。
 私は勝手にそう思っていた。
 忙しい毎日でも、彼の横顔だけは輝きを保っていて、それを見るたびに、ほんの少しだけ貴矢くんとの未来を想像してしまったりもした。
 男の子の車に二人きり、なんて本当は危ないのかもしれない。
 けれども、こういう「もしも」が積み重なって、気づいたら一緒に歩いている、そんな未来だってあるのかもしれない、と都合のいい方向へ思考は転がっていく。

「……ありがとう。お願いしようかな」

 言葉を出した途端に、自分の声が少しだけ明るかったことに気づいて、少し恥ずかしくなる。
 二人で大学の駐車場へ向かうと、夜はすっかり更けていて、車の影はまばらだった。
 空気はひんやりと耳の裏にまで入り込んできた。

「貴矢くんの車って……」

 言いかけた私の視線の先で、長いあいだ放っておかれたみたいな、泥だらけの車がこちらを向いていた。

「今日、遅くなりそうだったから、親父の車、借りたんだ」

 ああ、そうだったんだと理解するより先に、勝手に想像していた「きっとかっこいい車」の幻が、霧のように消えていった。

 貴矢くんは運転席にすっと乗り込む。
 私は助手席のドアを開ける。

「おじゃまします……」

 座った途端、タバコの匂いが鼻の奥に染みてきた。

「貴矢くん、タバコ吸うの?」

「いや。俺は吸わない。親父は吸うけどな」

 灰皿には吸い殻が折り重なり、床にはお菓子の空袋がしなしなと眠っていた。窓には細い手垢の線がうっすらとついている。
 期待していた「ドライブ」のイメージとはずいぶん違うみたい。
 現実にがっかりして、なんだか興冷めした気持ちになってしまった。