店を出た音羽は、春風に髪を揺らしながら石畳の道を駆けていた。
悠真は最後まで見送ることなく、ただ「行ってらっしゃい」とだけ笑っていた。
きっと最初から分かっていたのだろう。音羽が誰に会いに行くのか。
見慣れた町並みを抜け、人気の少ない山道へ入る。
昼間だというのに木々の影は濃く、細い坂道は昔と変わらず歩きづらい。
けれど、不思議と足取りは軽かった。
何度も転びそうになりながら登った道。
真白と一緒に花火を見た、小さな山。
あの日は怖かった。
隣にいる彼のことが分からなくて、自分の気持ちすら整理できなくて、それでも、夜空へ咲く花火を見上げた瞬間だけは、全部を忘れられた気がした。
「はあっ……はっ…」
あの時は、どれだけ息が切れても声を出せなかった。
今は木々のざわめきに混ざって音羽の吐息が聞こえる。疲れたら疲れたと、暑ければ暑いと言えるのだ。
ざわり、と風が吹き、視界が少しずつ開けていく。
あと少し。
そう思うと、胸が妙にうるさかった。
鼓動が速い。緊張しているのかもしれない。いや、多分、それだけではない。
会いたかった。
声を取り戻した今だからこそ、ちゃんと伝えたい言葉があって、あの日々の中では、どうしても言えなかった想いがある。
だから、歩みは止まらない。そして、最後の木立を抜けた瞬間だった。
視界を遮るように、ひらり、と、一枚の紙が風に乗って音羽の前へ舞い落ちる。
「……?」
音羽は足を止め、そっとそれを拾い上げた。
指先へ触れた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
どれだけ見慣れていても、もう必要なくなったはずのもの。
音羽が声を出せなかった頃の名残のように、紙の中央には短く言葉が記されていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
遅いですよ、姫様
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「……っ」
音羽ははっと息を呑んだ。
次の瞬間、耳の奥へ聞き慣れた声が落ちてくる。
「迷子にでもなりました?」
聞き慣れた、気怠げな声がして、音羽は勢いよく顔を上げる。
春風が吹き抜ける小山の上、満開の桜の向こう側に、その人は立っていた。
陰陽師の装束ではない。
黒を基調とした、シンプルな着物。
肩の力を抜いたような立ち姿も、少し眠たげな灰色の瞳も、何も変わっていない。
それなのに、どうしてだろう。
今までよりずっと遠くなくて、今までよりずっと温かく見えた。
風に揺れる銀髪へ桜の花びらが引っ掛かる。
その光景があまりにも綺麗で、音羽は一瞬、息をすることすら忘れた。
「真白……」
喉を震わせてちゃんと名前を呼ぶ。
その瞬間、真白の目がほんの少しだけ見開かれた。
きっともう聞き慣れているはずなのに。音羽が当たり前に自分を呼ぶ声へ、まだ慣れていないようだった。
「はい」
柔らかく返された声に、胸の奥がじわりと熱くなる。
音羽は呆然としたまま、その姿を見つめ続けた。
「ぁ……っ」
夢みたいだった。
こうして名前を呼べることも、声で返事が返ってくることも、何より、目の前にいる彼がちゃんと生きていることも。
「……ほんとに、真白?」
思わず零れた声は、ひどく弱々しい。
あの地下室で見た光景が、まだ脳裏に焼き付いていた。
傷だらけになって、それでも最後まで自分を守ろうとしてくれた背中。
もう二度と会えないかもしれないと、本気で思った瞬間。
真白はそんな音羽を見て、困ったように小さく笑った。
「そうだって言ってるでしょう」
呆れたような口調なのに、その声音は何処までも優しい。
音羽はそこでようやく、目の前にいる存在が幻なんかではないのだと理解した。
悠真は最後まで見送ることなく、ただ「行ってらっしゃい」とだけ笑っていた。
きっと最初から分かっていたのだろう。音羽が誰に会いに行くのか。
見慣れた町並みを抜け、人気の少ない山道へ入る。
昼間だというのに木々の影は濃く、細い坂道は昔と変わらず歩きづらい。
けれど、不思議と足取りは軽かった。
何度も転びそうになりながら登った道。
真白と一緒に花火を見た、小さな山。
あの日は怖かった。
隣にいる彼のことが分からなくて、自分の気持ちすら整理できなくて、それでも、夜空へ咲く花火を見上げた瞬間だけは、全部を忘れられた気がした。
「はあっ……はっ…」
あの時は、どれだけ息が切れても声を出せなかった。
今は木々のざわめきに混ざって音羽の吐息が聞こえる。疲れたら疲れたと、暑ければ暑いと言えるのだ。
ざわり、と風が吹き、視界が少しずつ開けていく。
あと少し。
そう思うと、胸が妙にうるさかった。
鼓動が速い。緊張しているのかもしれない。いや、多分、それだけではない。
会いたかった。
声を取り戻した今だからこそ、ちゃんと伝えたい言葉があって、あの日々の中では、どうしても言えなかった想いがある。
だから、歩みは止まらない。そして、最後の木立を抜けた瞬間だった。
視界を遮るように、ひらり、と、一枚の紙が風に乗って音羽の前へ舞い落ちる。
「……?」
音羽は足を止め、そっとそれを拾い上げた。
指先へ触れた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
どれだけ見慣れていても、もう必要なくなったはずのもの。
音羽が声を出せなかった頃の名残のように、紙の中央には短く言葉が記されていた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
遅いですよ、姫様
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
「……っ」
音羽ははっと息を呑んだ。
次の瞬間、耳の奥へ聞き慣れた声が落ちてくる。
「迷子にでもなりました?」
聞き慣れた、気怠げな声がして、音羽は勢いよく顔を上げる。
春風が吹き抜ける小山の上、満開の桜の向こう側に、その人は立っていた。
陰陽師の装束ではない。
黒を基調とした、シンプルな着物。
肩の力を抜いたような立ち姿も、少し眠たげな灰色の瞳も、何も変わっていない。
それなのに、どうしてだろう。
今までよりずっと遠くなくて、今までよりずっと温かく見えた。
風に揺れる銀髪へ桜の花びらが引っ掛かる。
その光景があまりにも綺麗で、音羽は一瞬、息をすることすら忘れた。
「真白……」
喉を震わせてちゃんと名前を呼ぶ。
その瞬間、真白の目がほんの少しだけ見開かれた。
きっともう聞き慣れているはずなのに。音羽が当たり前に自分を呼ぶ声へ、まだ慣れていないようだった。
「はい」
柔らかく返された声に、胸の奥がじわりと熱くなる。
音羽は呆然としたまま、その姿を見つめ続けた。
「ぁ……っ」
夢みたいだった。
こうして名前を呼べることも、声で返事が返ってくることも、何より、目の前にいる彼がちゃんと生きていることも。
「……ほんとに、真白?」
思わず零れた声は、ひどく弱々しい。
あの地下室で見た光景が、まだ脳裏に焼き付いていた。
傷だらけになって、それでも最後まで自分を守ろうとしてくれた背中。
もう二度と会えないかもしれないと、本気で思った瞬間。
真白はそんな音羽を見て、困ったように小さく笑った。
「そうだって言ってるでしょう」
呆れたような口調なのに、その声音は何処までも優しい。
音羽はそこでようやく、目の前にいる存在が幻なんかではないのだと理解した。

