春の風が、開け放たれた窓からゆっくりと吹き込んでくる。
街中にある小さな甘味処は、昼下がりということもあって穏やかな賑わいに包まれていた。
湯気の立つ茶。
甘い餡の香り。
店員の笑い声。
数ヶ月前まで、到底想像もできなかったくらい平和な時間だった。
「それで、その後本当に屋敷を抜け出したんですか?」
「抜け出したというか、半分追い出されたというか……」
音羽は困ったように笑いながら湯呑みへ口を付ける。
その仕草を見た悠真も、小さく目を細めた。
音羽が“普通に”声を出して話している。
たったそれだけのことなのに、未だに少しだけ不思議な感覚があった。
「まあ、あの後の橘家は色々大変でしたからねぇ」
「他人事みたいに言わないでよ……」
思わず頬を膨らませれば、悠真は肩を竦める。
「私は巻き込まれただけなので」
「絶対楽しんでたでしょ」
「否定はしません」
くすり、と音羽が笑った。
その笑い声は柔らかくて、暖かくて、もう妖を狂わせるような不気味さは何処にもない。
ただ、一人の少女の声だった。
「正直、親から見合いの話を持ち込まれてきた時は何を言っているんだこの人達はって思っていました」
元を辿れば、悠真は“将来の伴侶候補”として音羽に宛てがわれた相手だった。
それは恋愛や本人達の意思を尊重したものではない。
呪具を扱う名家である久我家と縁を結び、橘家、そして音羽自身をより強固に管理するため。
全ては、夜鷹が敷いた“檻”の一部だったのだ。
「姫君、私のことを嫌っていましたでしょう?」
「え……?」
「縁談もなくなりましたし、今となっては気を遣う必要もありませんからね。だから正直に言います」
悠真は湯呑みを手にしたまま、何でもないことを語るように笑った。
「私は、もう長くない」
音羽ははっと目を見開いて、憂いげのある悠真の横顔を見る。
初めて会った時のことを思い出した。
血の気の薄い顔。
細い身体。
今にも倒れてしまいそうな危うさ。
けれど、それ以上に印象へ残っているのは、あの夜だ。
夜鷹と対峙し、災厄を前にしても最後まで退かなかった背中。
軽薄そうに笑いながら、それでも命懸けで戦ってくれた姿。
今ではもう、大切な友人だと思っている。
「代々、久我家は早死にする家系なんですよ」
悠真は自嘲気味に肩を竦めた。
「呪具を扱う代償、とでも言えばいいんでしょうか。身体の方が先に壊れる」
さらりと告げられた言葉に、音羽は何も返せない。
湯呑みを握る手に力を込めて、続く言葉に耐えようとした。
「私も恐らく、あと一年生きられるかどうかですね」
悠真は、最初から音羽との縁談を受け入れるつもりなどなかった。
余命幾ばくもない身体で、呪具を扱う久我の血筋で、常人では耐え切れない妖気へ晒され続ける宿命を抱えている。
そんな自分が誰かと未来を誓ったところで、残せるものは後悔だけだと分かっていたのだ。
だからこそ、あの時も。見合いの席で、何処か一歩引いたように笑っていた。
どうせ長くは生きられない。
そんな諦めを、悠真はずっと抱えたまま生きてきたのだろう。
「そんな、寂しいこと言わないでよ」
音羽は思わず顔を顰めて呟いた。
悠真がいたから。
悠真が真実へ辿り着いてくれたから。
今、自分はこうして当たり前のように声を出して笑えている。
本来なら、音羽の呪いなど久我家にとって関係のない話だったはずだ。
それでも彼は橘家を調べ、危険を承知で真実を暴き、最後まで共に戦ってくれた。
その行動の全部が、悠真なりの優しさだったのだと思う。
悠真はそんな音羽を見て、小さく笑った。
「姫君は優しいですね」
何処か安心したような声音で呟き、嬉しそうに笑う顔が音羽の目に焼き付いた。

