嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 どろり、と黒泥が床へ崩れ落ちる。
 解放された真白の身体が落下しかけ――その寸前、音羽が駆け出した。

「真白!」

 咄嗟に抱き留めた身体は驚くほど冷たい。
 真白は苦しげに咳き込みながら、それでも無理矢理笑おうとした。

「……は、姫様……怒ると怖いんですね」
「喋らないで……!」

 声が震えて、喉の奥が熱くなっていく。
 もう胸の中がぐちゃぐちゃだった。
 怖かった。
 失うのが。
 真白が、自分のせいで死ぬかもしれないことが。
 地下室の奥で災厄が絶叫した。先程までとは違う、苦鳴だった。
 音羽の“声”に逆らえないが、本能は欲している。
 矛盾した衝動に耐え切れず、災厄そのものが崩壊を始めていた。
 無数の眼球が潰れ、腕が千切れ、黒泥が狂ったように蠢く。

「今しかありません!」

 悠真はそう叫ぶと、呪符を妖に向かって放ち胸元に風穴を開ける。

「あれ、核が剥き出しになってる……!」

 黒泥の中心、脈打つ赤黒い塊が完全に露出していた。
 夜鷹が静かに前へ出る。その背中を見た瞬間、緋彩が目を見開いた。

「夜鷹、駄目……!」

 緋彩が鉄格子越しに手を伸ばすが、夜鷹は止まらない。
 黒泥が発する唸り声を真正面から受けながらも、ゆっくりと災厄へ歩み寄っていく。
 無数の腕が夜鷹へ伸びるが、その全てを圧倒的な妖気が喰い潰していく。

「……十五年」

 低い夜鷹の声が黒泥の動きを止める。

「随分と長く、苦しませた」

 その声音は、災厄へ向けたものなのか。
 それとも、緋彩へ、音羽へ、あるいは自分自身へ向けた懺悔なのか、誰にも分からなかった。
 夜鷹が核へ手を伸ばした瞬間、災厄が狂ったように暴れ始めた。
 天井から砂埃が降り落ちてきて、地下室全体が崩れ落ちる予兆を感じる。

「っ、もう保ちません!」

 悠真が術式を展開しながら叫んだ。真白も音羽を庇うように身を寄せる。
 だが、夜鷹は振り返らず、真っ直ぐと黄金色の瞳を最後に音羽に向けた。

「音羽」

 ありったけの愛おしさを込めた声が静かに落ちる。

「お前は、俺達みたいになるな」

 夜鷹はそこで、ほんの少しだけ笑った。それは、生まれて初めて見る顔だった。
 妖でも、当主でもなく。
 ただの父親の顔。

「生きろ」

 次の瞬間、夜鷹が黒泥の核を握り潰した。
 鈍い音を立てて核を破壊された黒泥は、絶叫しながら妖気を吐き出し崩れていく。
 世界が白く染まり、地下室そのものが崩壊を始めた。

「走ってください!」

 地下室の入口と黒泥と夜鷹達がいる空間との間に結界を貼る。
 あと一歩で夜鷹に触れられる位置にいる音羽の手を真白は咄嗟に掴んだ。
 はっとなって顔を上げた音羽は、微かに涙を浮かべて振り返る。
 崩れ落ちる瓦礫の向こうで、緋彩が静かに微笑んでいた。その隣で、夜鷹が立っている。
 二人並ぶ姿は、まるで最初からそうあるべきだったように自然だった。

「お母さん――!」

 叫んだ瞬間、緋彩が優しく首を横に振った。

『行きなさい』

 声は聞こえないけれど、確かにそう言った気がした。
 真白が強く音羽の手を引く。真っ直ぐな瞳が音羽の背を押した。

「姫様!」

 音羽は涙を零しながらも前を向き、強く頷いた。三人は崩れゆく地下室を駆け抜ける。
 階段を上がり、屋敷を飛び出し、山道を走る。
 そして次の瞬間、背後で巨大な爆音が轟き、山そのものが揺れた。
 夜空へ黒い妖気が吹き上がった。
 だが、その妖気はゆっくりと光へ変わり、花弁のように崩れて消えていく。
 静かだった。
 本当に静かに、十五年間続いた呪いは終わりを迎えた。