嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 だが、その直前に黒泥が突然爆発したように膨れ上がる。
 地下室の空気が一瞬で押し潰され、びきびき、と床下の術式が悲鳴を上げて赤黒い光が明滅した。

「っ!?」

 悠真が目を見開き、呪符を結んでいた手を解いてしまう。
 次の瞬間、地下室中の妖気が一斉に真白へ殺到した。
 狙われている。
 音羽を最も近くで守る存在だと、本能的に理解しているのだ。

「真白!!」

 地下室の隅にいた音羽が身を乗り出してその名を叫ぶ。
 すると、無数の黒い腕が四方八方から真白へ襲い掛かる。
 避け切れないと悟った真白は、咄嗟に音羽を背後へ庇おうとした。

「姫様、下がっ――」

 振り返った直後、どんっ、と鈍い衝撃が響いた。

「が、っ……!」

 真白の身体が大きく吹き飛ぶ。
 壁へ激突した瞬間、地下室全体が揺れた。

「真白さん!」

 悠真が符を放つが、黒泥は止まらない。
 壁へ叩き付けられた真白へ向かって、さらに無数の腕が伸びる。
 真白は短刀を振るうが、一本斬っても十本伸びてきた。

「っ、くそ……!」

 腕が足へ絡み付き、肩を掴まれ、冷たい妖気が皮膚を侵食するように全身へ這い回った。
 視界がぐらりと揺れる。呼吸が上手くできない。
 肺の奥へ冷たい泥を流し込まれるような不快感が襲ってくる。
 身体の感覚が少しずつ遠くなり、力が上手く入らない。
 黒泥の奥で、無数の眼球が笑っていた。嬉しそうに、飢えた獣がようやく獲物へ辿り着いたように。
 立ち上がろうと見を動かせば、激しく骨が軋んだ。
 真白は苦しげに息を漏らしながら、それでも無理矢理視線だけを前へ向ける。
 青白い顔をして、自分を見ている音羽がいた。
 その顔を見た瞬間、不思議と意識が途切れなかった。
 まだ倒れるわけにはいかない。
 掠れる意識の中、真白は震える指先で短刀を握り直す。

『じゃま』

『じゃま』

『おまえがいるから』

 耳元で囁かれているように、頭の中へ直接声が流れ込んでくる。

「っ……るせぇなぁ……」

 地の果てから絞り出した声が落ちる。すぐ傍で聞いた音羽が震えがるほど、それが真白から発されたものとは思えない。
 だが次の瞬間、黒い腕が真白の喉元へ絡み付いた。

「――っ!?」

 強引に締め上げられ、真白の身体が宙へ持ち上がった。

「真白っ」

 音羽の悲痛な悲鳴が響き、牢屋の中の緋彩が苦しげに目を逸らした。
 真白は苦しげに顔を歪めながらも、必死に腕を掴む。
 だが、外れない。
 妖気が体内へ流れ込んでくる。
 寒い身体の奥から凍っていくようだ。

「っ、離れろ!」

 悠真が術式を叩き込み、青白い光が炸裂させると真正面から受けた妖の腕が数本吹き飛ぶ。
 それでも、残った腕がさらに強く真白を締め上げた。
 みし、と嫌な音が響く。

「ぁ、が……っ」

 真白の顔色が一気に青白くなる。
 指先から力が抜け、短刀が床へ転がった。
 その瞬間、音羽の中でブツンと音を立てて何かが切れた。

「――やめて」

 声が響くと、地下室全体がびたりと静止した。
 黒泥も、妖気も、術式すらも全てが音羽の声へ反応している。
 音羽は震える瞳で真白を見つめた。
 苦しそうに息を掻きながら、それでも自分を庇おうとしている。
 そんな顔をもう見たくなかった。

「返して」

 揺らした鈴が鳴ったような、凛とした小さな声が空気を震わせる。
 次の瞬間、真白を拘束していた黒い腕が一斉に弾け飛んだ。