嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 無数の眼球が、ねっとりと音羽を見つめている。
 飢えた獣だ。
 焦がれるように、縋るように、狂った信仰と変わらない執着を滲ませながら、災厄はゆっくりと音羽へ近付いてくる。

「……来ないで」

 音羽が掠れた声で呟くその瞬間、黒泥の動きがぴたりと止まった。
 地下室が静まり返る。
 崩れ落ちかけていた瓦礫も、蠢いていた無数の腕も、狂ったように唸っていた妖気すら、まるで世界そのものが“命令”を聞いたように完全に停止した。
 悠真は息を呑み、ただ目の前の光景を凝視し続けた。
 たった一言だけ。
 ただ“声を落とした”だけで、災厄を制御したのだ
 術式ではない。
 結界でもない。
 封印でもない。
 もっと原始的で、もっと根源的な何か。妖そのものが、本能で音羽へ従っているというのが最も相応しい。
 だが、そんなことは本来あり得なかった。
 妖は制御するものではなく、祓うものだ。人か人ならざるものかの二分だけで、妖は等しく祓われるべき存在。
 少なくとも、人間側の術理ではそう定義されている。
 なのに今、目の前で起きている現象は、その常識そのものを踏み潰していた。
 悠真の背筋を、冷たいものが這い上がる。
 これがもし完全に解放されたなら、もし音羽自身が、この力の本質を理解してしまったなら。
 十五年前の異常活性など、前触れに過ぎない。
 もっと大きな“何か”が始まってしまう。
 夜鷹が何故封じたのか。
 緋彩が何故命を削ったのか。
 その意味を、悠真だけでなく真白もようやく理解してしまった。

「なんと質の悪い」
「運が悪かったと言えば、それまででしょうねぇ」

 気を正しく保つためのくだらない会話をした刹那、黒泥の中心が大きく脈打った。
 どくん、と、巨大な心音が地下室へ響く。
 止まっていたはずの災厄が、ゆっくりと“息を吹き返そうとしていた”。
 音羽へ向けられた無数の眼球が、一斉に見開かれる。
 歓喜であり、恐怖ではない。希望であり、怒りでもない。
 ようやく“本物”へ辿り着いた存在だけが見せる、狂気じみた歓喜。
 どろり、と黒泥が震えるその奥で、何かが生まれようとしていた。

「っ……!」

 止め切れていない。

 確かに声は届いていて、災厄は音羽へ従おうとしている。なのに、その内側で“別の何か”が暴れていた。
 制御と拒絶。
 服従と飢餓。
 相反する衝動が、黒泥の中で無理矢理混ざり合っている。
 地下室の空気がびりびりと震えた。
 音羽は無意識に喉元を押さえる。
 熱い。
 封印を失った声が、まだ完全には馴染んでいないようだ。
 この力は、自分が思っていた以上に危うい。
 そして、ぐちゃり、と、黒泥の表面が、不自然に盛り上がった。
 助けを求めるように口を開閉しながら、音もなくこちらを見つめている。

「な……」

 その顔は一つではなく、次々と浮かび上がった。
 男。
 女。
 老人。
 子供。
 十五年前、異常活性へ呑まれた人々。
 災厄は妖だけではない。喰われた人間達まで取り込んでいる。

「姫様、見るな」

 壁へ叩き付けられた衝撃で息も乱れているのに、それでも音羽を庇うように前へ出た。
 だが、その瞬間、黒泥の中の“顔”達が一斉に口を開く。

『かえして』

『かえして』

『かえして』

 無数の口が、同じ言葉を繰り返す。
 子供の声。
 女の声。
 老人の掠れた声。
 溶け合った悲鳴が地下室中へ染み渡り、鼓膜ではなく脳へ直接張り付いてきた。

『その声を』

『よこせ』

『もっと』

 黒泥の表面から無数の腕が噴き出した。
 床を這い、壁を侵食し、天井へまで伸びていく。
 音羽へ向けられる執着が、先程までとは比べ物にならないほど膨れ上がっていた。

「っ、流石に私では及ばないんですがあ!」

 悠真が符を放ち術光が炸裂するが、今度は止まらない。
 黒泥は強引に術式を押し潰しながら迫ってくる。

「面倒なの来ましたねぇ……!」

 真白が短刀を構え直した、その時だった。

 ――パキッ。

 地下室の壁一面へ刻まれていた術式が、大きくヒビ割れる。
 次の瞬間、赤黒い光が暴走するように地下室中を駆け巡った。

「っ、術式が……!」

 限界だ。封印そのものが崩壊しかけている。
 このまま災厄が完全に解き放たれれば、地下室どころでは済まない。
 山一帯が再び異常活性へ飲み込まれる。
 その時、ずっと沈黙していた夜鷹が、ゆっくりと前へ出た。
 黄金色の双眸が、静かに災厄を見据えた。