嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
 だが、緋彩の瞳は本気だった。怯えと絶望を滲ませながら、それでも必死に音羽へ訴え掛けている。

「何言って――」
「もう、抑えきれないの……!」

 緋彩が叫ぶと同時に、地下室の術式がさらに赤く染まった。

「その子は……ずっと音羽の声を喰べ続けてる……!」

 ぞわり、と、黒泥の奥で無数の眼球が一斉に音羽を見た。
 歓喜するように、飢えた獣のように、唸る妖を前に緋彩は泣きながら叫んだ。

「だから封じたの……! 音羽を守るために……!」

 地下室が大きく揺れた。天井が軋み、壁が崩れ、術式が悲鳴を上げるように明滅する。
 そして、夜鷹が静かに口を開いた。

「……もう限界だ」

 その黄金の瞳が、ゆっくりと音羽へ向く。真白も悠真も、緋彩すら眼中にない。
 目に映すのは、言葉はなくとも声だけで妖を惹き付ける声を持つ少女。そして、自身の愛娘だ。

「選べ、音羽」

 かつて屋敷の中に監禁し、約束を破れば罰を与えてきた父親とはもう違う。

「封印を維持したまま全員で死ぬか」

 今目の前にいる夜鷹の方が、よっぽど恐ろしく、それでいて哀れに見えた。

「――声を解き放つかだ」

 赤黒い術式が脈打つたび、空気そのものが悲鳴を上げる。
 音羽は息を呑んだまま立ち尽くしていた。
 解放する。
 つまり、自分の“声”を、ずっと封じられていた力を取り戻すということ。

「駄目……!」

 緋彩が牢を掴みながら叫ぶ。
 白い指先から血が滲むほど強く鉄格子を握り締め、それでも首を横に振った。

「音羽、駄目……! その声を解いたら、貴方は……!」

 最後まで言い切れない。
 恐れているのだ。自分が守り続けてきた娘が、本当に“妖へ堕ちてしまう”ことを。
 だが、地下室の奥では災厄が蠢く。
 どろり、と黒泥が広がり、無数の腕が壁を這い始めた。
 結界は既に限界だった。
 悠真が歯噛みをすれば、気持ちの起伏に呼応して術式も揺らぐ。

「真白さん! 後どれくらい保ちます!?」
「保たせる気あります?」

 真白は舌打ち混じりに返す。
 短刀で妖の腕を斬り払いながらも、その表情には焦りが浮かんでいた。
 再生が速すぎる。
 斬っても、祓っても、終わらない。
 むしろ妖気は膨れ続けて、力を取り戻すだけでは留まらなくなっている。

「このままだと地下ごと飲まれますよ……!」

 悠真の叫びと同時に、天井の一部が崩落した。
 怖い。
 母親の言葉も、夜鷹の視線も、目の前の化け物も。
 何より、自分自身が一番怖い。
 もし本当に、自分の声が妖を呼ぶのだとしたら。
 もしそのせいで、また誰かを傷付けるのだとしたら。
 音羽は無意識に喉元を押さえた。
 封印の熱が脈打っている。まるで、内側から“何か”が出たがっているのだ。

「……姫様」

 不意に、真白の声が聞こえた。
 音羽が顔を上げれば、真白は妖を睨み据えたまま静かに口を開く。

「貴方がどうしたいかです」
「……?」
「化け物になるとか、ならないとか、そんなの知りません」

 短刀が妖の腕を断ち切ると、黒い飛沫が舞った。

「でも」

 振り返った真白は、ただ音羽の姿を静かに見つめた。
 夜鷹が向ける目とも、緋彩が向ける目とも違う。
 真白が向ける目には、愛おしさと優しさが溢れんばかりに滲んでいた。

「俺は、貴方が選んだことを否定しません」

 この場所にいる者の中で、味方でいてくれるのは夜鷹でも緋彩でも悠真でもない。
 ここまでずっと傍にいてくれた、真白だけ。

「だから、自分で決めてください」

 その言葉に、音羽は息を呑んだ。
 ずっと誰かに決められて生きてきた。
 声を封じられて、閉じ込められて、守られるまま生きてきた。
 けれど、今だけは違う。
 自分自身で選べと言われている。

「!!」

 音羽が迷いのない目で頷いた時、地下室が大きく揺れた。
 黒泥が咆哮を上げ、術式が悲鳴を上げるように明滅した。
 そして、音羽はゆっくりと呪いを覆い隠すために包帯が巻かれた喉元へ触れる。
 熱い。
 震える指先で封印術式へ触れた、次の瞬間だった。
 ぱきり、と、何かが砕ける音がした。