嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 山へ入った途端、空気が変わった。
 肌に纏わりつくような湿気。
 木々の隙間を吹き抜ける風は妙に生温く、耳鳴りにも似た微かな雑音が絶えず鼓膜を揺らしている。
 深夜だというのに、虫の声一つ聞こえない。
 まるで、この山だけ世界から切り離されているようにすら錯覚する。

「……気持ち悪いですねぇ」

 先頭を歩いていた真白がぼそりと呟く。
 蝋燭の光が、濡れた地面をゆっくりと撫でていく。
 その後ろを音羽と悠真が続いていた。

「当然です。結界の内側ですから」

 悠真は周囲を警戒しながら淡々と返す。
 山へ踏み込んでから既に半刻以上。普通ならとっくに目的地へ着いていてもおかしくない距離だった。
 だが、景色が変わらない。
 同じ木。
 同じ分かれ道。
 同じ岩。
 山そのものが侵入者を拒絶している。

「認識阻害と方位封じを同時に掛けてますね……厄介だ」

 悠真が低く舌打ちすると、音羽の背後を気にするように辺りを見渡した。
 術者が侵入者を迷わせるための結界が張り巡らされていることには、真白もすでに気づいている。
 だが、ここまで大規模なものは異常だった。

「大旦那が?」

 まさかそんなはず……とでも言いたげな真白へ、悠真は僅かに視線を向ける。

「恐らくは。少なくとも、普通の術者が張れる規模じゃありません」

 その時だった。
 ざわり、と、木々の奥で何かが揺れた。
 真白が即座に足を止め、音はと悠真を庇うように前に出る。

「……いますね」

 背後から聞こえる悠真の低い声を聞き流しながら、すっと目を細める。
 その直後、闇の奥からぬるりと影が現れた。
 人型だった。だが、人ではない。
 異様に長い手足。
 裂けた口。
 濁った眼球。
 音羽が小さく息を呑む。
 妖だ。
 しかも一体ではない。次々と木々の間から現れ、三人を囲むように滲み出してくる。

「歓迎されてますねぇ……!」

 真白が笑うように吐き捨てる。だが、その目は全く笑っていない。
 妖達は低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
 その視線は全て、音羽へ向けられていた。

「っ……」

 音羽の肩が強張り、咄嗟に真白の背中に身を寄せた。
 辺りに蔓延る妖は、まるで飢えた獣だ。
 いや、違う。もっと質が悪い。
 焦がれるような、縋るような、狂信にも似た視線が音羽にだけ集中している。

「……姫君、下がって」

 音羽を庇うのは真白に任せ、悠真が二人の前に悠然と飛び出す。

「耳を塞いでください」

 そう呟いた刹那、悠真が指先で符を弾いた。
 瞬間、眩い光が森を切り裂く。
 バチバチ、と青白い術光が地面を走り、妖達の身体を貫いた。
 耳障りな悲鳴が辺りの木々を揺らす。
 数体がその場で崩れ落ちたが、その後ろから再び妖が顔を出した。

「……まだ来るか」

 倒れた妖の奥。さらに濃密な妖気が蠢いていた。
 木々の隙間。
 地の底。
 闇そのものから滲み出るように、新たな妖達が姿を現していく。

「異常活性の中心地ってわけですか……!」

 悠真が忌々しげに吐き捨てる。
 ここまで大量の妖が、一つの領域へ集まり続けるなど本来あり得ない。
 しかも、どの個体も異様なほど興奮している。
 飢餓にも似た執着。
 その視線の先にいるのはただ一人、音羽だけだった。

「……っ」

 その瞬間だった。
 ぞわり、と、山全体を包んでいた妖気が一斉に静まり返る。
 先程まで唸り声を上げていた妖達が、まるで何かを恐れるように動きを止めた。
 風も止む。
 木々のざわめきすら消え失せ、辺りには不気味な静寂だけが落ちた。
 嫌な気配だった。空気そのものが重く沈み込み、肺の奥まで冷えていくような圧迫感。
 悠真が咄嗟に呪符を構える。
 真白もまた、音羽を庇うように半歩前へ出た。
 そして、カラン、と、何処か遠くで下駄の音が鳴る。
 次の瞬間、木々の奥の闇が、ゆっくりと揺らいだ。そこから現れた男を見た瞬間、音羽の瞳が大きく見開かれる。
 長い黒髪。
 闇よりなお深い和装。
 人の姿をしているのに、人ではないと本能が理解してしまう異質さ。
 黄金色の双眸が、静かに音羽を捉えていた。
 妖達が一斉に頭を垂れる。その光景だけで十分だった。
 この場にいる全ての妖の頂点が、誰なのか。

「今まで何処に行っていたんだ。音羽」

 低く響くその声に、音羽の喉がひゅっと震えた。