蔵の中は冷えているはずなのに、悠真の背には嫌な汗が滲んでいた。
術式を読むことには慣れている。
呪具に刻まれた残滓を辿り、術者の癖を見抜き、何を目的に組まれた術なのかを解析する。
それが久我の人間として叩き込まれてきた役目だ。
だからこそ分かってしまう。この術式は異常なのだと。
ここまで精密な封印術を成立させながら、その裏で別人間へ呪いを掛け続けるなど、本来なら両立できるはずがない。
片方だけでも術者の精神は擦り切れる。
ましてや十数年維持し続けるなど、人間業ではなかった。
「……橘緋彩」
その名を口にした瞬間、紙面に残る微かな霊力がざわりと揺れた気がした。
術式に残る気配は、酷く静か。
憎悪でもない。
怨嗟でもない。
ただひたすらに、誰かを守ろうとした痕跡だけが残っている。
まるで術者自身が壊れることなど、最初からどうでもよかったと言わんばかりに。
「ここまでして、守りたかったんですか」
返事はない。あるはずもない。
だが、頁の奥から滲み出る執着だけが、確かにそこに存在していた。
音羽の声を封じた理由。
真白へ沈黙の呪いを掛けた理由。
そして十五年前の異常活性。
全てが少しずつ繋がり始めている。
もしこの仮説が正しいなら、真白は最初から真実に触れていたことになる。
触れた上で、何も言えなくされていた。
「だから、あいつは……」
悠真の脳裏に、あの陰陽師の男の姿が浮かぶ。
軽薄で、掴みどころがなく、いつも飄々としているくせに、時折、壊れそうな顔をする男。
あれは演技ではなかったのだろう。
喋れないのだ。
知っているのに、救いたいと思っているのに、口にした瞬間死ぬから嘘を吐く。
悠真はゆっくりと符紙を握り締めた。
胸の奥に、言いようのない不快感が広がっていく。
これはただの封印ではない。誰か一人を守るためだけに作られた術でもない。もっと歪で、もっと大きな何かだ。
誰かを守れば、誰かが壊れる。
誰かを生かせば、別の誰かが沈黙する。
そんな歪な均衡の上で、今まで全てが成り立っていた。そして、その均衡が最近になって崩れ始めている。
異常活性の増加。
音羽の封印の揺らぎ。
妖達の暴走。
まるで何かが、目覚めようとしている。
「……急がないとまずいですね」
ぽつりと漏らした声が、静かな蔵へ沈んでいく。
このまま放置すれば、十五年前と同じ災厄がまた起きる。
音羽の力が成長している今なら、被害は当時以上になるかもしれない。
術者社会が隠蔽できないほどに力を持つことだって有りうる。
悠真は閉じていた帳面を静かに抱え直す、その瞬間だった。
――ギィ、と。
蔵の奥から、小さな軋み音が響く。
誰もいないはずの暗がり。だが、そこには確かに、“気配”があった。
湿った妖気が、じわりと空気へ滲み出している。
「なるほど」
悠真は静かに息を吐くと、小さく呟く。
ここまで調べた時点で、既に向こうにも感づかれたらしい。
視線を向けた暗闇の奥。そこに、ぼんやりと二つの光が浮かび上がる。獣のような、濁った眼だった。
「随分と気の早いお出迎えですね」
悠真は懐へ手を差し入れ、一枚の呪符を抜き取る。
ぱきり、と、張り詰めていた蔵の空気が軋んだ。
術式を読むことには慣れている。
呪具に刻まれた残滓を辿り、術者の癖を見抜き、何を目的に組まれた術なのかを解析する。
それが久我の人間として叩き込まれてきた役目だ。
だからこそ分かってしまう。この術式は異常なのだと。
ここまで精密な封印術を成立させながら、その裏で別人間へ呪いを掛け続けるなど、本来なら両立できるはずがない。
片方だけでも術者の精神は擦り切れる。
ましてや十数年維持し続けるなど、人間業ではなかった。
「……橘緋彩」
その名を口にした瞬間、紙面に残る微かな霊力がざわりと揺れた気がした。
術式に残る気配は、酷く静か。
憎悪でもない。
怨嗟でもない。
ただひたすらに、誰かを守ろうとした痕跡だけが残っている。
まるで術者自身が壊れることなど、最初からどうでもよかったと言わんばかりに。
「ここまでして、守りたかったんですか」
返事はない。あるはずもない。
だが、頁の奥から滲み出る執着だけが、確かにそこに存在していた。
音羽の声を封じた理由。
真白へ沈黙の呪いを掛けた理由。
そして十五年前の異常活性。
全てが少しずつ繋がり始めている。
もしこの仮説が正しいなら、真白は最初から真実に触れていたことになる。
触れた上で、何も言えなくされていた。
「だから、あいつは……」
悠真の脳裏に、あの陰陽師の男の姿が浮かぶ。
軽薄で、掴みどころがなく、いつも飄々としているくせに、時折、壊れそうな顔をする男。
あれは演技ではなかったのだろう。
喋れないのだ。
知っているのに、救いたいと思っているのに、口にした瞬間死ぬから嘘を吐く。
悠真はゆっくりと符紙を握り締めた。
胸の奥に、言いようのない不快感が広がっていく。
これはただの封印ではない。誰か一人を守るためだけに作られた術でもない。もっと歪で、もっと大きな何かだ。
誰かを守れば、誰かが壊れる。
誰かを生かせば、別の誰かが沈黙する。
そんな歪な均衡の上で、今まで全てが成り立っていた。そして、その均衡が最近になって崩れ始めている。
異常活性の増加。
音羽の封印の揺らぎ。
妖達の暴走。
まるで何かが、目覚めようとしている。
「……急がないとまずいですね」
ぽつりと漏らした声が、静かな蔵へ沈んでいく。
このまま放置すれば、十五年前と同じ災厄がまた起きる。
音羽の力が成長している今なら、被害は当時以上になるかもしれない。
術者社会が隠蔽できないほどに力を持つことだって有りうる。
悠真は閉じていた帳面を静かに抱え直す、その瞬間だった。
――ギィ、と。
蔵の奥から、小さな軋み音が響く。
誰もいないはずの暗がり。だが、そこには確かに、“気配”があった。
湿った妖気が、じわりと空気へ滲み出している。
「なるほど」
悠真は静かに息を吐くと、小さく呟く。
ここまで調べた時点で、既に向こうにも感づかれたらしい。
視線を向けた暗闇の奥。そこに、ぼんやりと二つの光が浮かび上がる。獣のような、濁った眼だった。
「随分と気の早いお出迎えですね」
悠真は懐へ手を差し入れ、一枚の呪符を抜き取る。
ぱきり、と、張り詰めていた蔵の空気が軋んだ。

