嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 理由も分からず涙が流れ続ける。
 霞んだ視界を涙を拭って晴らせば、目の前には必死に腕を伸ばす音羽の姿があった。
 屋敷にいた時とは違う質素な着物の袖が頬へ触れる。
 柔らかな布越しに、拭われた涙の感触だけがやけに鮮明だった。

「ちょ、姫様」

 ゴシゴシと強く拭われて頬が痛い。それに年端もいかない音羽に心配されるのが小恥ずかしく、やめさせようと手首を掴んだ。
 けれど、音羽はやめない。
 困ったように眉を下げながら、ぽろぽろと零れ続ける涙を拭おうとしている。
 まるで泣いている子供を宥めるようだ。

「いや……ほんと……何なんですかこれ……」

 真白は片手で顔を覆い、まとまらない気持ちをあれこれ呟く。
 喉が直接火で炙られたように焼けた気がした。
 胸の奥がぐちゃぐちゃに掻き回され、感情が自分でも分からないほど溢れてくる。
 海を見た瞬間からずっと妙だった。
 懐かしいような。
 苦しいような。
 泣きたくなるような。
 そんな感覚が、ずっと胸の奥へ渦巻いている。

「……」

 見上げてくる瞳は、不安そうに揺れている。
 どうしたの、と。
 声にはならない問い掛けが、真っ直ぐ伝わってきた。
 その瞬間、どくり、と胸が脈打つ。

『怖がらせたくない』

 反射的に浮かんだ本音と同時に、喉の奥へ激痛が走った。

「っ……!」

 ぴしり、と黒い紋様が首筋から頬へ浮かび上がる。
 今まで一番深い。
 まるで呪いそのものが、感情を押し潰そうとしているよう。
 これだけの距離であればはっきりと目にしてしまう。今まではすぐに消えていた紋様は、どれだけ経っても消えることはない。
 明らかな異変を感じた音羽の目が大きく見開かれる。
 だが、真白は、それでも笑った。
 笑うしかなかった。

「……はは」

 笑えば、当たり前に鋭い痛みが紋様を通して走る。
 呼吸をする度に紋様が波を打ち、首中に広がっていった。

 「姫様、そんな顔しないでくださいよ」

 その言葉と同時に黒い紋様がびきり、と大きく軋む。

「――っ」

 その時、一際鋭い痛みを感じるなり真白の膝が砂浜へ落ちた。
 どく、どく、と脈打つように紋様が広がっていく。
 首筋から頬へ。
 頬から目元へ。
 まるで、身体そのものを侵食していくようだった。

「……ぁ、は……」

 呼吸が上手くできない。
 喉を押さえれば、焼けた鉄でも飲み込んだかと思うほどに熱かった。
 音羽が慌てたように真白の肩へ触れる。
 その瞬間だった。
 ぶつり、と、何かが切れるような音がした。

「――……あ」

 目の前の光景が砂嵐のように霞んで、聞こえてくる音を雑音が邪魔をする。自分が今何処にいるのかすら分からなくなる。
 ただ方に触れる音羽の気配だけを感じていた時、視界の奥へ知らない光景が流れ込んできた。
 
 赤い空。
 燃える屋敷。
 血の匂い。

『……真白』

 そして、やけに耳馴染みのある女の声。
 親しみを込めて、優しく自分のが名を呼ぶ声が鼓膜を揺らした。

『あの子を、お願い』

「……っ!」

 頭が割れそうに痛む。脳みそを掻き回されるような、鈍器で殴られたような、兎に角言葉にできない激しい痛みが襲う。
 はっきりと音羽が息を呑む音が聞こえた。
 首元の紋様が、まるで何かに反応するように激しく明滅してする。
 そして、ぽたり、と真白の唇から血が零れた。

「……!?」

 声にならない音羽の呼び掛け。
 その震える指先が、真白の袖を掴む。すると真白は、霞む視界のままゆっくり顔を上げた。