嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 その名前が女将の口から飛び出した瞬間、音羽の肩がびくりと揺れた。
 思わず傍にいた真白の袖を掴む。
 その反応を見て、女将は「ああ」と何かを察したように目を細めた。

「ごめんよ、驚かせるつもりじゃなかったんだ」

 女将は目尻へ皺を寄せながら、何処か遠くを見るように目を細めた。
 その声音には警戒や探り合いの色はなく、ただ純粋な懐旧だけが滲んでいる。

「昔ねぇ、よく来てくれてたんだよ」
「橘の大旦那が?」

 意外そうに真白が片眉を上げる。音羽もまた、小さく息を呑んだ。
 女将はそんな二人の反応を見ながら、懐かしむように微笑む。

「奥さんと一緒にね」

 そう言いながら、女将は柔らかく微笑んだ。
 その表情だけで、どれほど深く記憶に残っている人物なのかが分かる。
 音羽は思わず息を呑み、知らず知らずのうちに女将の言葉を待っていた。

「へえ。どんな人だったんです?」
「そりゃあもう、綺麗な人だったよ」

 女将の声が、少しだけ柔らかくなる。
 まるで、大切な思い出を撫でるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「長い黒髪の人でねぇ。お人形さんみたいで、よく笑う人だった」

 その言葉に、音羽が小さく息を呑んだ。
 よく笑う。
 その言葉が、どうしてか胸へ引っ掛かる。
 音羽の知る“母”は、暗い部屋の奥で眠るように横たわる影でしかなかったから。

「夜鷹さんはそうだねぇ……気難しそうな人だけど愛想は良かったよ」

 女将はくすくすと喉を鳴らして笑う。
 恐ろしい妖として語られる今の夜鷹からは、とても想像できない話に音羽は目を瞬かせる。
 一方で真白は、静かに目を細めたまま話を聞いていた。

「祭りの度によく泊まりに来てくれてね。二人で花火見に行ったりしてたんだよ」

 真白の視線が、ゆっくり音羽へ向く。
 先程まで花火を見上げていた横顔が脳裏を過った。

「娘が生まれたら、いつか一緒に連れて来るって言ってたっけねぇ」
「……」

 その言葉に、音羽の目が大きく見開かれる。
 知らなかった。
 そんな話を父がしていたことも。
 自分が生まれる前、確かに誰かに望まれていたことも。

「まさか本当に来てくれるなんてねぇ」

 女将は目を細めながら、ゆっくりと音羽を見つめる。
 懐かしむような、愛おしむような視線だった。
 音羽は落ち着かなさそうに視線を揺らしたが、その言葉の続きを聞き逃すまいと黙ったまま立ち尽くしていた。

「しかも、あの奥さんそっくりになって」
「……!」

 音羽ははっと目を見開き、思わず自分の髪に触れた。
 母に似ている。
 その言葉は、今まで誰からも言われたことがなかった。
 橘家では“姫”として扱われるばかりで、誰も音羽自身を見ようとはしなかったから。
 女将はそんな音羽を見て、ふっと優しく笑う。

「目元なんてそっくりだよ」

 音羽は何かを誤魔化すように俯いた。
 胸の奥が、じわじわと熱い。
 知らないはずの母の面影が、少しだけ自分の中にある気がしてただ嬉しかった。

「いやあ……姫様、随分と良いとこ取りしましたねえ」

 隣から間延びした声が聞こえて、音羽と女将は真白へと視線を移す。
 真白がくつくつと喉を鳴らして笑った。

「母親似の美人ってことじゃないですか」

 その瞬間、ぴしり、と真白の首筋へ黒い紋様が浮かび上がった。

「……っ」

 一瞬だけ、真白の呼吸が止まった。
 喉を焼くような痛みは、本心に近いことを口にした代償だった。
 だが、真白は顔色一つ変えない。すぐに口元を押さえ、何事もなかったように笑った。

「……まあ、橘の血が濃いとも言えますけど」

 前言を誤魔化すために、わざとらしく付け足す。
 すると音羽は、むっとしたように真白を睨んだ。けれど、その頬はほんのり赤い。
 女将はそんな二人を見比べると、何処か安心したように目を細めた。

「……良い人に会えたんだねぇ」

 その言葉に、今度は真白の笑みがほんの僅かだけ止まった。