嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 その札は真白と音羽を取り囲むようにして周り、悠真を外野へと追いやる。

「無詠唱……」
「いやあ、詠唱って長くて面倒でしょう」

 浮かび上がった札から放たれる霊力は凄まじかった。詠唱が無くとも術が発動できることがどれだけの技量を必要とするのか、悠真だからこそ分かる。
 空気が震え、廊下の柱がみしり、と軋んだ。
 真白は鈴を鳴らしたまま、面倒臭そうに妖を見据える。

「さて」

 鈴の音に呼応するように術式が脈打ち、張り詰めた空気を静かに塗り替えていった。
 その姿は軽薄な陰陽師というより――妖を狩る側の人間そのものだった。

「姫様怖がらせた落とし前、つけてもらいましょうか」

 妖の巨体が廊下の奥まで吹き飛ばされ、壁を破壊しながら叩き付けられた。
 久我家の使用人達の顔から血の気が引いていく。誰もが言葉を失っていた。
 第三蔵へ封じられていた妖を、たった一撃でねじ伏せたのだ。
 あり得ないものを見るような視線が、一斉に真白へ向けられる。

「なんだと……」
 
 瓦礫の奥で、異形の影がびくりと震える。
 まるで、何かへ引き寄せられるように、辺りへ散っていた妖気が渦を巻くように動き出した。
 悠真ですら言葉を失うのに、真白はそんな周囲など気にも留めず、ゆるりと歩き出す。
 だが、妖はまだ終わっていなかった。
 瓦礫の奥で、ぐちゃり、と肉が蠢く。
 裂けた口が大きく開く。
 次の瞬間、廊下中の妖気が、一気に音羽へ向かって流れ始めた。

「……っ!?」

 息を吸うだけで、肌の内側へ妖気が入り込んでくるような錯覚に襲われる。
 無数の視線。
 飢えた獣みたいな気配。
 それら全てが、音羽だけを狙っていた。

「まずい……!」
「でしょうねえ」

 妖気が渦巻く中、真白だけが妙に落ち着き払っていた。
 焦る様子も、驚く様子もない。
 むしろ「やっぱりこうなったか」とでも言いたげに肩を竦めると、懐から一枚の紙を取り出す。
 そして、それを悠真へ向かってひらりと放った。
 悠真は怪訝そうに紙を受け取り、目を細める。そこに書かれていた文字を見た瞬間、表情が変わった。

『姫様の声は妖を誘う』

 紙を握る悠真の指先へ、僅かに力が籠もる。
 先程まで余裕を崩さなかった瞳に、はっきりと動揺が走っていた。

「……っ」

 真白はその反応を見ながら、悪戯っぽく笑った。

「いやあ、察しの良い人は助かりますねえ」

 悠真は紙を握り締めたまま、ゆっくりと音羽を見る。
 その目には先程までの好奇心だけではない、明確な驚愕が滲んでいた。

「……そんなもの、存在するはずが」
「するから目の前で起きてるんでしょう?」

 真白は肩を竦めて軽い口調で言う。けれど、その瞳だけは妙に冷えていた。

「姫様、自覚ないみたいですけど」
 
 真白は楽しげに鈴を揺らす。
 澄んだ音色が響いた瞬間、妖の身体が大きく痙攣した。
 まるで、何かを必死に探しているように、裂けた口から低い唸り声が漏れる。

「ほら……妖って、耳が良いんですよ」

 白い術式の上で、妖が執拗に身体を捩る。
 封じ込めているはずなのに、妖気は逆に膨れ上がっていた。
 廊下へ張られた札が、ばちばちと嫌な音を立てる。
 理性を失ったように、妖は音羽だけを見ていた。ぞわっと音羽の背筋は粟立つ。

「……まだ霊力が増している?」
「そりゃあ餌を目の前にしてますからねえ」

 その瞬間だった。
 真白の首筋へ、ひび割れのような黒い紋様が浮かび上がる。
 ぞくり、とするほど禍々しいそれは、一瞬だけ肌の上を這うように広がった。

「……?」

 音羽が息を呑む間に消えてしまい、それはほんの一瞬のことだった。
 けれど確かに、肌の下を這うみたいに黒い亀裂が走ったのだ。
 真白は何事もなかったように口元を押さえる。

「おっと」

 くつくつと喉を鳴らしながら、前を見据えた。

「危ない危ない」

 その態度とは裏腹に、指先だけが僅かに震えていた。
 一瞬の異変は悠真も見逃しておらず、真銀の後ろ姿を見る目を細める。

「……貴方、何を隠しているんです」
「秘密主義なもので」

 いつも通りの胡散臭い笑みを背後にいる二人に向ける。
 けれど、その笑顔の奥に、妙な切迫感が滲み始めていた。