嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 触れれば壊れてしまいそうな、あの白が再び目の前に降り落ちてくる。
 慌てて手を伸ばすと、それは霞となって消えた。
 指先に残るのは、何もない空気だけ。
 は、と息を呑む。今、確かにそこにあったはずなのに。
 もう一度、と手を伸ばしかけてやめた。どうせ、触れられない。そう思った瞬間、胸の奥がひどく静かに軋んだ。
 いつも掴めないものばかりだ。
 しばらくその手を見つめ、やがてゆっくりと下ろす。
 その時、障子の向こうから微かな物音がした。反射的に振り返って息を止める。
 廊下を行き交う足音。誰かが何かを運ぶ気配。遠くで交わされる声。けれど、それらはこの部屋の中までは入ってこない。
 それがやけに寂しく感じて、もう一度文机に視線を落とした。

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈

  さびしい

 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈

 細く揺れる筆先が白の上で踊り、何度も言葉を綴っていく。
 さびしい、さびしい、さびしい。心に浮かぶ言葉を思う度に書けば、あっという間に真っ白だった和紙が黒く染まる。
 文字を書く隙間がなくなった時、筆先が宙で静止した。

「っ……っ……!」

 目から零れ落ちてくる雫を拭いながら和紙を片付け、何事もなかったかのように硯に筆を置いた。
 部屋の隅に目をやる。
 そこには、小さな箱がある。蓋はきちんと閉じられていて、紐も解かれていない。
 中には大量の和紙が入っているのだ。外でも書けるように、軽い板も入っている。
 その箱は生きていく上で必要不可欠な代物だった。
 しばらくそれを見つめ、ほんの一歩だけ近づく。だが、手を伸ばすことはしない。代わりに、そっと視線を逸らす。
 再び机へと戻り、今度は何も持たずに座った。
 両の手を膝の上に揃え、背筋を伸ばす。誰に見せるでもない、整った所作。
 まるで、自分はこれくらい容易いと主張するように。
 そのまま、微動だにしない。深く息を吸い、壁とにらめっこを続ける。

「……?」

 やがて、何かを思い出したように顔を上げた。障子の方へと視線を向ける。
 何かの気配を感じた。誰かが見ているような気配を。
 けれど、振り返っては見たが何も起こらない。当然のように、返るものもない。
 それでも目を逸らせなくて、じっと障子を見つめる。否、その先にある何かを見つめた。

「……」

 しかし、どれだけじっと見入るように見てみても何も出てこない。
 やがて小さく息を吐き、ゆっくりと視線を落とした。
 その仕草はあまりにも自然で、まるで最初から何も期待していなかったかのようだった。