嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 避けられない。そう理解した瞬間、音羽の身体から一気に血の気が引いていった。
 裂けた口が開き、濁った無数の目が姿を捉え、ぐちゃぐちゃに溶けた腕が、獲物を捕らえるように伸びてくる。
 怖い。怖い。怖い。怖い。
 息が詰まってその場に崩れ落ちる。逃げたいのに、身体が動かなかった。

「……っ…」

 目の前には、今にも喰らいつこうとする異形の妖。あんなものに襲われればひとたまりもない。
 助けを呼ぶ声すら出せず、ただ震えるだけ。
 現実から意識を逸らすために目を閉じる。
 脳裏に浮かんだのは、白い髪と陰陽師の装束を靡かせる一人の男だった。
 薄暗い部屋の中で見た軽薄な笑み。
 胡散臭い声。

『何かあれば、俺を呼ぶといい』

 音羽は反射的に口を開いた。

「――」

 喉を貪る呪は、音羽の声を奪ったまま。助けなど声にすらならない。
 開いた口からは掠れた空気が溢れるだけだった。
 それでも、震える唇が確かにその名を形作る。

 ……ま、しろ。

 次の瞬間、ふわりと爽やかな風邪が音羽の頬を撫でた。
 チリン。
 鈴の音が響く。
 音に呼応して妖気が震え、辺りの空気が変わった。
 飛び掛かっていた妖が、何かを恐れるようにぴたりと動きを止めた。

「……え」

 悠真が目を見開く、その直後だった。
 バチンッ!! と、眩い白光が空間を裂いた。
 瞬きする間もなく、廊下を満たしていた妖気が一気に掻き消えていく。
 廊下の札が一斉に燃え上がり、荒れ狂う妖気を押し返すように白い術式が床一面へ広がっていった。
 
 ――ギャァァァァッ!!

 耳を劈くような叫び声が響き渡る。
 どろりと蠢いていた黒い影が、白い光に焼かれるようにばちばちと弾けていく。
 先程まで圧し潰されそうだった空気が、一瞬で塗り替えられた。

「いやあ」

 白く散った光の残滓が、ひらひらと廊下を舞う。
 張り詰めていた空気へ水を差すように、間延びした声だけが妙に軽かった。

「随分と派手にやってますねえ」

 聞き慣れた声が聞こえ、音羽がはっと顔を上げる。
 まるで、散歩の途中にでも立ち寄ったような気安さだった。
 崩れた札の向こう。床一面へ広がった白い術式が、この場の妖気を完全に押さえ込んでいる。
 白い髪を揺らしながら、真白がゆるりと立っていた。
 指先で鈴を揺らして、にこりと笑う。

「ちゃんと呼べたじゃないですか、姫様」