その瞬間、夜鷹の袖口から、黒い靄のようなものが溢れ出す。
どろり、と粘つく影。それは生き物のように床を這い、真白目掛けて牙を剥く。
空気が腐り、畳がじわじわと黒く染まり、障子に貼られた札がばちばちと音を立てた。
人のものではない。
妖の力。
影は一瞬で真白の喉元へ迫る。常人なら反応すらできない速度だった。
「おっと」
だが、真白は笑ったまま片手を軽く上げる。
チリン。
鈴が鳴ったその瞬間、白い光がふわりと広がる。まるで、薄雪みたいに柔らかな光だった。
けれど、夜鷹の放った影が触れた途端――弾け飛ぶ。
バチンッ、と、激しい音と共に黒い靄が霧散し、室内へ突風が吹き荒れた。
障子が大きく揺れる。
積まれていた紙が宙を舞い、灯りがばちばちと明滅した。それでも真白は、机の端に腰掛けたまま微動だにしない。
「怖いですねえ」
口ではそう言いながら、声色は少しも怖がっていなかった。むしろ愉快そうですらある。
夜鷹は僅かに目を見開き、困惑を露わにしていた。
今の一撃は、脅しではない。
本気だった。
妖を喰らうほどの呪を孕んだ影。それを、この男は鈴一つで防いだのだ。
「夜鷹の大旦那。貴方が言ったんでしょう? 俺は“腕だけは立つ”と」
真白は散った紙を指先で摘み上げながら、くつくつと喉を鳴らす。
鋭く細められた瞳が、真っ直ぐ夜鷹を射抜いた。
「姫様の声を奪ったのも、今みたいな力ですか?」
先程の異能には、明らかな殺意が籠もっていた。真白を生かしてはおけないと、排除しようとする意図が丸見えだ。
どれだけ息の詰まる緊張感が流れようと、真白は余裕の態度を葛粉とはしなかった。そんな真白の言葉により、ぴたり、と空気が止まる。
この張り詰めた空気すら真白の狙いであり、期待通りに夜鷹の眉が僅かに動いた。その変化を真白は見逃さない。
「おや」
にやり、と口角を吊り上げると、摘んでいた紙を口元に当てた。
「違うんですか」
わざとらしく首を傾げる仕草は、まるで獲物を追い詰める猫のようだった。
ちらりと手中にある紙に目を落とすと、声高らかに問い掛ける。
「じゃあ、もっと前に何かやらかしたとか?」
「……貴様」
「人間の女を愛した妖が、娘を閉じ込めてる。しかも、母親は死んでる」
真白は指折り数えるように、長らく隠されてきていた事実を並べていく。
「いやあ、どう考えても碌でもない過去がありそうだ」
チリン。
鈴が鳴る。
「例えば」
真白は机に手を着いて前屈みになると、紙を夜鷹に向けて掲げた。
その紙は、『橘嫁入り・緋彩は声を失った姫』と大々的に書かれた縁談記事だった。
「愛した女の声でも奪ったとか?」
その瞬間、夜鷹の瞳がはっきり揺れた。
先程まで感情を押し殺していた夜鷹の表情に、初めて明確な動揺が走る。
それは怒りよりももっと深く、長年触れないようにしていた傷を無理矢理抉られたような顔だった。
真白の笑みが深まり、部屋の中は空気が張り詰める。
「――ああ、図星ですか」
びり、と、室内の空気が再び軋む。今度は先程よりも濃い妖気が肌を刺した。
怒り。
殺意。
それとも、触れられたくない過去を暴かれた動揺か。
明確な殺意を向けられても、真白はそんな圧すら楽しむように笑っている。
「成程成程」
頬杖をつきながら、面白い玩具を見つけた子供のように目を細めた。
「それで姫様まで閉じ込めてるわけだ」
その声音だけ、ほんの少し冷えていた。
どろり、と粘つく影。それは生き物のように床を這い、真白目掛けて牙を剥く。
空気が腐り、畳がじわじわと黒く染まり、障子に貼られた札がばちばちと音を立てた。
人のものではない。
妖の力。
影は一瞬で真白の喉元へ迫る。常人なら反応すらできない速度だった。
「おっと」
だが、真白は笑ったまま片手を軽く上げる。
チリン。
鈴が鳴ったその瞬間、白い光がふわりと広がる。まるで、薄雪みたいに柔らかな光だった。
けれど、夜鷹の放った影が触れた途端――弾け飛ぶ。
バチンッ、と、激しい音と共に黒い靄が霧散し、室内へ突風が吹き荒れた。
障子が大きく揺れる。
積まれていた紙が宙を舞い、灯りがばちばちと明滅した。それでも真白は、机の端に腰掛けたまま微動だにしない。
「怖いですねえ」
口ではそう言いながら、声色は少しも怖がっていなかった。むしろ愉快そうですらある。
夜鷹は僅かに目を見開き、困惑を露わにしていた。
今の一撃は、脅しではない。
本気だった。
妖を喰らうほどの呪を孕んだ影。それを、この男は鈴一つで防いだのだ。
「夜鷹の大旦那。貴方が言ったんでしょう? 俺は“腕だけは立つ”と」
真白は散った紙を指先で摘み上げながら、くつくつと喉を鳴らす。
鋭く細められた瞳が、真っ直ぐ夜鷹を射抜いた。
「姫様の声を奪ったのも、今みたいな力ですか?」
先程の異能には、明らかな殺意が籠もっていた。真白を生かしてはおけないと、排除しようとする意図が丸見えだ。
どれだけ息の詰まる緊張感が流れようと、真白は余裕の態度を葛粉とはしなかった。そんな真白の言葉により、ぴたり、と空気が止まる。
この張り詰めた空気すら真白の狙いであり、期待通りに夜鷹の眉が僅かに動いた。その変化を真白は見逃さない。
「おや」
にやり、と口角を吊り上げると、摘んでいた紙を口元に当てた。
「違うんですか」
わざとらしく首を傾げる仕草は、まるで獲物を追い詰める猫のようだった。
ちらりと手中にある紙に目を落とすと、声高らかに問い掛ける。
「じゃあ、もっと前に何かやらかしたとか?」
「……貴様」
「人間の女を愛した妖が、娘を閉じ込めてる。しかも、母親は死んでる」
真白は指折り数えるように、長らく隠されてきていた事実を並べていく。
「いやあ、どう考えても碌でもない過去がありそうだ」
チリン。
鈴が鳴る。
「例えば」
真白は机に手を着いて前屈みになると、紙を夜鷹に向けて掲げた。
その紙は、『橘嫁入り・緋彩は声を失った姫』と大々的に書かれた縁談記事だった。
「愛した女の声でも奪ったとか?」
その瞬間、夜鷹の瞳がはっきり揺れた。
先程まで感情を押し殺していた夜鷹の表情に、初めて明確な動揺が走る。
それは怒りよりももっと深く、長年触れないようにしていた傷を無理矢理抉られたような顔だった。
真白の笑みが深まり、部屋の中は空気が張り詰める。
「――ああ、図星ですか」
びり、と、室内の空気が再び軋む。今度は先程よりも濃い妖気が肌を刺した。
怒り。
殺意。
それとも、触れられたくない過去を暴かれた動揺か。
明確な殺意を向けられても、真白はそんな圧すら楽しむように笑っている。
「成程成程」
頬杖をつきながら、面白い玩具を見つけた子供のように目を細めた。
「それで姫様まで閉じ込めてるわけだ」
その声音だけ、ほんの少し冷えていた。

