嘘言〜声を失った姫と嘘つき陰陽師の邂逅〜

 


 庭に落ちた花弁を指先でそっと拾い上げた。
 白く、小さなそれは、触れれば壊れてしまいそうなほど薄い。

「もう! 姫様ったらまた一人で庭に出て!」

 背後から幼い少女の声が聞こえ、はっと振り返る。
 着物の袖を捲り上げた姿で立っているのは、女中見習いの少女である。

「駄目でしょう? 昨日まで風邪を引いていたんですから、早くお部屋に戻って!」

 屈んでいるところを腕を掴んで無理矢理立たせようとする。
 まだ庭にいたい。掌に乗せていた花弁が何処かに飛んでいっても、もう少し見ていたい。
 そう訴えるように強く首を振りながら、その場に踏み止まる。

「早く部屋に戻らないと、旦那様に見つかってしまいますよ。そろそろお仕事からお帰りになられます」
「っ……!」

 それは駄目だ。
 父親が帰って来る前に部屋に戻らないと、また“罰”を与えられる。

「あたしがお部屋で話を聞きます。だから、一緒に戻りましょう?」
「……!」

 手を握って見上げてくる女中の言葉に強く頷きながら、早足で部屋に戻る。
 女中が部屋の障子を閉じる様子を眺め、パタリと閉まるとようやく羽織ものを脱いだ。
 部屋から出る時は絶対に着ろと父親に言われている。父親の言うことには従わないと、“罰”が与えられるのだ。
 羽織を脱ぐ時、着物裾が引っ掛かって腕が見えた。
 普段から部屋に籠もって陽の光を浴びずにいる白い腕には、無数の火傷があった。

「姫様。何かお茶菓子を持ってきますね」

 にこやかに笑う女中の言葉に頷くと、素早い動きで部屋を出ていく。
 障子が閉まる音が、やけに大きく響いた。
 それきり、部屋はしんと静まり返る。先程までそこにあった人の気配が、嘘のように消えてしまった。
 何かが足りない気がする。なのに何が足りないのか分からない。

「……」

 ――音だ。
 と、ふとそう思う。
 人の声。衣擦れ。足音。笑い声。当たり前にあったそれらは、今や遠いものになっていた。
 聞こえないわけではない。けれど、届かない。
 まるで薄い膜を隔てているように、全てが遠い。
 着物を引き摺りながら部屋の端へと進み、ゆっくりと座り込む。傍に置かれていた文机へと手を伸ばした。
 紙と筆。
 それだけが、今残された“言葉”だった。
 筆を取る。しかし、すぐには動かない。
 書きたいことはたくさんあるはずなのに、何を書けばいいのか分からない。
 白い紙の上に、ただ沈黙が広がる。
 やがて、微かに筆先が震えた。一文字、落とす。

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  いたい

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 書いた瞬間、びくりと肩が揺れた。
 慌ててその文字を見つめる。
 違う。
 こんなことを書きたかったわけではない。
 すぐに手のひらで擦り、滲ませる。墨が広がり、文字はあっという間に形を失った。
 まるで、最初から何もなかったかのように。
 ほっとしたのか、それとも――。自分でも分からないまま息を吐いた。
 音は、やはりない。静寂だけが、そこにあった。

「っ……」

 ふと、視線が腕へと落ちる。
 着物の袖口から覗いた白い肌。そこに刻まれた、幾つもの痕。
 指先でそっとなぞっても痛みはもうほとんどない。随分と前にできた傷は、痛みだけを消して形に残っていた。
 それなのに、何故かズキリとした痛みを感じる。
 腕の火傷痕から感じるように思えるし、もっと顔に近くて深い場所からのようにも感じる。
 何かを探るように筆を握り直して、また紙に文字を綴った。

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  こえ

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 ズキリ、と次は胸の奥が痛んだ。

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  はなし

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 ズキリ、ズキリと何度も胸の奥が痛む。

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  だれか

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 手が震えて筆先が紙に押し付けられる。じわりと墨が広がり、今書いた言葉は消えてしまった。
 けれど、消えてしまってよかったと思う。
 誰にも届かない言葉は、誰にも届かぬまま消えてしまった方がいい。
 静かな部屋。何も聞こえない世界。
 それでも、先程庭で見た花弁だけが、何故か心に残っていた。