朝日に滲んだ黒い影は微動だにせず、静かにそこに立っている。
誰だろう
女中にしては気配が重い。しかし、それ以外の誰かとなると思いつく人は少ない。
胸の奥がざわつき、音羽は無意識のうちに着物の袖を握り締めた。
昨夜のことが脳裏を過る。
(まさか……)
そんな考えが一瞬だけ頭を掠め、音羽は思わず障子へ視線を向けた。
けれど、期待したような気配はない。
ただ、息苦しいほど静かな空気だけが流れている。
やがて、影がゆっくりと動いた。それだけで、音羽の肩がビクリと震える。
「入るぞ」
低く落ち着いた声が障子越しに響いた。
聞き慣れた父の声に、音羽の身体が強張る。
慌てて立ち上がる布連れの音と共に障子が静かに開かれ、父が部屋へ入ってきた。
いつも通り隙のない着物姿。鋭い目付きも、感情の読めない顔も変わらない。
音羽はすぐに頭を下げる。
昨夜のことが脳裏を過り、胸の奥が締め付けられた。
しかし父は、それ以上何を言うでもなく部屋を見渡す。
「体調は」
決して音羽へは視線を向けず、曖昧な空気の中で問う。
音羽は一瞬だけ父の顔を見上げた後、顔を背けて小さく頷いた。
「そうか」
初めから音羽の体調など気にもしていなかったとでも言いたげな態度で、父は頷く。
しばしの沈黙が流れると、父は音羽の背後にある文机へ視線を向けた。
「あれは、なんだ」
低く押し殺した声に、音羽の心臓がどくりと跳ねる。
弾かれるように背後を振り返れば、運悪くも昨夜の和紙が一枚だけ文机の下に落ちていた。
色々と理解できないことが続いていて、浮かれていたのかもしれない。
きもののその中で握った指先がじわりと汗ばむ。
そんな音羽の緊張など知ってか知らずか、父は静かに口を開いた。
「……ああ、あの陰陽師が来たのか。まさか、本当にあんな依頼を引き受けるとは」
「!!」
思わぬ発言が父の口から飛び出し、音羽は驚きを隠せずに父を見た。
しかし、目の前で困惑する音羽を見ても父は飄々とした態度を変えない。
「隠さなくていい。私が呼んだ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
呼んだ。
誰を。
そんなもの、決まっている。昨夜、この部屋に現れた男が和紙に綴った。
『俺は、貴方様の呪いを解くために呼ばれた陰陽師』
音羽の脳裏に、白い髪を揺らして笑う真白の姿が浮かぶ。
視線を彷徨わせながら混乱する音羽を前に、父はゆっくりと障子へ背を向けた。
「お前の呪について調べさせている」
淡々とした声音だった。まるで、今日の天気でも話すように感情がない。
けれど、その言葉の意味を理解した瞬間、音羽は息を呑んだ。
呪を調べる。
今まで父は、一度だってそんな素振りを見せなかった。
声が出ないのは仕方のないことだと。
忌み子だからだと。
そう言い聞かせるばかりで、音羽自身について知ろうとすることなどなかったのに。
「……」
音羽は言葉を失い、ぽかんと口を開けたまま固まる。
今まで、父は誰一人として自分に近付けようとしなかった。
なのに何故、どうして今になって呪を解こうと得体のしれない陰陽師を雇おうなどと思ったのか。
「本来なら、あれほど胡散臭い男を屋敷へ入れたくはなかった」
父は僅かに眉を顰め、不快そうに息を吐いた。
確かに、あの陰陽師は何を考えているのか分からない。平然と嘘を吐き、掴みどころのない笑みを浮かべる男だった。
音羽ですら振り回されているのだから、父が警戒するのも無理はない。
「だが、あの男は腕だけは確かだ」
低く落とされた声には、僅かな苦々しさが滲んでいた。
認めたくはない。けれど、頼るしかない。そんな感情が混ざっているように聞こえる。
父はしばらく黙ったまま、閉ざされた障子へ視線を向けていた。
その横顔は酷く疲れて見える。やがて、小さく息を吐いた。
「……このままでは、お前が保たん」
誰だろう
女中にしては気配が重い。しかし、それ以外の誰かとなると思いつく人は少ない。
胸の奥がざわつき、音羽は無意識のうちに着物の袖を握り締めた。
昨夜のことが脳裏を過る。
(まさか……)
そんな考えが一瞬だけ頭を掠め、音羽は思わず障子へ視線を向けた。
けれど、期待したような気配はない。
ただ、息苦しいほど静かな空気だけが流れている。
やがて、影がゆっくりと動いた。それだけで、音羽の肩がビクリと震える。
「入るぞ」
低く落ち着いた声が障子越しに響いた。
聞き慣れた父の声に、音羽の身体が強張る。
慌てて立ち上がる布連れの音と共に障子が静かに開かれ、父が部屋へ入ってきた。
いつも通り隙のない着物姿。鋭い目付きも、感情の読めない顔も変わらない。
音羽はすぐに頭を下げる。
昨夜のことが脳裏を過り、胸の奥が締め付けられた。
しかし父は、それ以上何を言うでもなく部屋を見渡す。
「体調は」
決して音羽へは視線を向けず、曖昧な空気の中で問う。
音羽は一瞬だけ父の顔を見上げた後、顔を背けて小さく頷いた。
「そうか」
初めから音羽の体調など気にもしていなかったとでも言いたげな態度で、父は頷く。
しばしの沈黙が流れると、父は音羽の背後にある文机へ視線を向けた。
「あれは、なんだ」
低く押し殺した声に、音羽の心臓がどくりと跳ねる。
弾かれるように背後を振り返れば、運悪くも昨夜の和紙が一枚だけ文机の下に落ちていた。
色々と理解できないことが続いていて、浮かれていたのかもしれない。
きもののその中で握った指先がじわりと汗ばむ。
そんな音羽の緊張など知ってか知らずか、父は静かに口を開いた。
「……ああ、あの陰陽師が来たのか。まさか、本当にあんな依頼を引き受けるとは」
「!!」
思わぬ発言が父の口から飛び出し、音羽は驚きを隠せずに父を見た。
しかし、目の前で困惑する音羽を見ても父は飄々とした態度を変えない。
「隠さなくていい。私が呼んだ」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
呼んだ。
誰を。
そんなもの、決まっている。昨夜、この部屋に現れた男が和紙に綴った。
『俺は、貴方様の呪いを解くために呼ばれた陰陽師』
音羽の脳裏に、白い髪を揺らして笑う真白の姿が浮かぶ。
視線を彷徨わせながら混乱する音羽を前に、父はゆっくりと障子へ背を向けた。
「お前の呪について調べさせている」
淡々とした声音だった。まるで、今日の天気でも話すように感情がない。
けれど、その言葉の意味を理解した瞬間、音羽は息を呑んだ。
呪を調べる。
今まで父は、一度だってそんな素振りを見せなかった。
声が出ないのは仕方のないことだと。
忌み子だからだと。
そう言い聞かせるばかりで、音羽自身について知ろうとすることなどなかったのに。
「……」
音羽は言葉を失い、ぽかんと口を開けたまま固まる。
今まで、父は誰一人として自分に近付けようとしなかった。
なのに何故、どうして今になって呪を解こうと得体のしれない陰陽師を雇おうなどと思ったのか。
「本来なら、あれほど胡散臭い男を屋敷へ入れたくはなかった」
父は僅かに眉を顰め、不快そうに息を吐いた。
確かに、あの陰陽師は何を考えているのか分からない。平然と嘘を吐き、掴みどころのない笑みを浮かべる男だった。
音羽ですら振り回されているのだから、父が警戒するのも無理はない。
「だが、あの男は腕だけは確かだ」
低く落とされた声には、僅かな苦々しさが滲んでいた。
認めたくはない。けれど、頼るしかない。そんな感情が混ざっているように聞こえる。
父はしばらく黙ったまま、閉ざされた障子へ視線を向けていた。
その横顔は酷く疲れて見える。やがて、小さく息を吐いた。
「……このままでは、お前が保たん」

